トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

北の政所ねねゆかりの陣屋町、岡山市足守

2011年06月08日 | 日記
岡山市の西北部に、豊臣秀吉の正室北の政所、ねねにつながる
陣屋町があります。岡山市足守地区です。
陣屋町としての始まりは、ねねの実兄木下家定が、
慶長6(1601)年、賀陽郡と上房郡内に2万5000石を領して
姫路から転封して来たときでした。
 
しかし、家定の死後の慶長13(1608)年、所領を幕府に没収されてしまいます。
これは、徳川家康が
家定の長男勝俊と二男の利房の2人に遺領を継がせようとしたのに対し、
ねねが、勝俊のみに継がせようとしたのが原因でした。
木下家定の出世も、ねねが秀吉に嫁いだことと無関係ではありません。
いいにつけ悪いにつけ、
木下家への、ねねの影響力が大きかったことを再確認してしまいました。

幕府領(天領)になったとき、この地を治めたのが小堀遠州でした。
その影響か、陣屋に接してつくられた藩主の庭園近水園(おみずえん)は
遠州流の庭園として知られています。

木下利房は、大坂の陣のとき、豊臣秀頼方ではなく、
徳川方についたという功を認められ、元和元(1615)年、
再び足守藩2万5000石を与えられました。
この後、木下家は明治維新まで13代にわたってこの地に君臨しました。
足守藩の陣屋町は、4代藩主木下利當(としまさ)が着手し、
5代藩主木下利貞のとき完成したといわれています。
 
この図は延宝期の陣屋町です。
藩主の邸宅である「屋形」は、宮路山の南東麓につくられましたが、
現在では、それを囲む堀だけが、当時の遺構として残っています。
その北につくられた近水園を取り囲むように流れる足守川が
町を守る堀にあたる役割を果たしています。

近水園にある吟風閣は、特に今の季節、
緑に映えてほんとにきれいです。
 
屋形の南西に、家老の屋敷が残っています。
昭和48(1973)年、家主の杉原隆二氏の寄付を受けて、
岡山市教育委員会が保存改修を行った侍屋敷ですが、
江戸中期の武家屋敷の遺構をほぼ完全に残しているそうです。
長屋門の先にある御成門には、家紋が入っていました。
木下家には、家老は4家おりましたが、
この武家屋敷の杉原家は、4代藩主利當の二男正長を祖とする系統でした。

寄棟造り、茅葺き平家建て、唐破風の母屋の式台を上がってすぐの、
玄関の間をこえると、2畳の仏間があります。
仏間は、武家屋敷には必ず設けられている、切腹をする部屋です。
そのため柱が逆目(さかめ、柱の天地が反対)になっていると
説明にあったので、実際のようすに興味がありましたが、
外からは確認できなかったのが残念でした。
 
木下家の菩提寺は大光寺で、陣屋から600mぐらい離れたところにあります。
6代、7代、10代の藩主、13代藩主の正室、14代当主木下利玄、
6代遺構の藩主の子女など一族の墓塔30基、22基の灯籠が残っているようです。
また、位牌は本堂の南にある霊廟に残っているそうです。  

行ってみてびっくりしました!
山門に続く土塀は、一部白漆喰がはがれ落ちて土壁がむき出しになっていました。
庭にあった池の水は白濁した水溜まりのよう、
本堂には人が住んでいる形跡が見られず、草が生え放題、
霊廟に行く道をやっと門前まで行ったら、門は閉まったまま。
大光寺の裏山にある墓所に向かう道も、草と蜘蛛の巣のため、
とても、歩いていこうという気力がわいて来ませんでした。
藩主の菩提寺だというのであれば、
きちんと整備されているはずだと思い込んでいたのです。
荒れ果てているというのは大げさかもしれませんが、
世話をする人がいないのではないかと思ってしまいました。
 
足守藩出身の著名人に、緒方洪庵がいます。
適々斎塾(適塾)を開き、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、
佐野常民ら、我が国の近代化を支えた人材を育てあげました。
足守藩士佐伯瀬左衛門権因(これより)の三男で
生家跡に銅像が建てられています。
8歳で天然痘にかかるなど、体があまり強くなかったため、
文政8(1825)年、大坂蔵屋敷留守居役になった父親とともに、
大坂に出ると、蘭学を学び始めます。
さらに、長崎でオランダの医師ニーマンに医学を学び、
29歳の天保9(1838)年に、適々斎塾(適塾)を開きました。
幕末の文久2(1862)年、幕府の奥医師兼西洋医学所頭取になりましたが、
翌年、54歳で亡くなりました。

ふるさとの足守藩では、
嘉永2(1849)年に、足守除痘館で「種痘」を行ったといわれています。
洪庵の位牌は、新町にある随喜山乗典寺に祀られています。
法号は華陰院殿前法眼公裁文粛大居士。

もう一人は、歌人の14代当主木下利玄です。
5歳のとき、13代藩主木下利恭の養嗣子となり、
13歳から佐々木信綱に和歌を学び始めます。
白樺派の歌人を経て「利玄調」を確立しました。
生家跡が整備されて残っていますが、
現在もまだ整備が継続されており、また、壁は囲いの中にはいっていました。
(写真は改修以前のものです。)
 
しかし、足守陣屋町の本当の魅力は町屋にあると思います。
陣屋町づくりでは、町屋は武家地の南につくられました。
町並み保存地区になっている新町には、漆喰塗りに本瓦葺き、
虫籠窓のついた民家が並んでいます。
現在、約250戸ある民家のうちの約100戸が、
江戸時代の伝統的な民家の姿をとどめているとお聞きしました。
  
保存改修が行われた藤田千年治邸は、ランドマーク的な存在です。
醤油醸造や肥料の販売で財をなした大商人の邸宅です。
明治から戦後まで、大八車に醤油を積んで足守や総社まで販売していたそうです。  
触れてはいけないということでしたが、すぐ手が届く所に、
金銭出納帳などの帳面が展示してありました。
中庭をへだてて、麹室や米倉も整備されて保存されています。
 
米倉は、いつもねずみに悩まされたようで、それを防ぐために、
壁をトタン葺きにしていたようです。
写真で、黒く見えているところがトタンでつくられていた部分です。
母屋や中庭には、かつて使われていた道具類も展示されていました。

総社に向かう街道である新町通りも、その一つ東側の通りも、
藤田千年治邸から左に折れて足守川に向かう通りも、
路地も含めて魅力いっぱいです。

足守川にかかる宮路橋には、「ほたる保護地区」のポスターがありました。
いかにもほたるが生息しているだろうなあと思わせる清流でした。

戦後、足守地区はモータリゼーションの発達とともに
少しずつ経済発展から取り残されていきました。
そのため、静かで落ち着いた町の雰囲気を、今日まで残して来ることができました。
子どもの数も減少し、小規模小学校を総合し、
小中一貫校をつくろうという動きも生まれているようです。

途中で、阪神地方からバスで来られた40人ぐらいの団体に会いました。
ガイドさんに引率され、資料を手にした歴史を学ぶグループのようでした。
足守の雰囲気にひかれて、県外からも訪問者が増えているようです。

いつまでも、古きよき時代の雰囲気を引き継いでいってほしいと思ったものでした。