トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

船町渡船から木津川渡船へ、大阪渡船に乗る

2016年12月11日 | 日記

千歳の渡船で大正内港を渡り、大正区北恩加島二丁目から大正区鶴町四丁目に渡った後(「甚兵衛渡しから千歳の渡しへ」2016年11月25日の日記)、船町の渡しに向かいました。千歳の渡しを降りて進み、道なりに左折して鶴町小学校を右手に見ながら南に向かって進みます。

セブンイレブンのある「鶴町二丁目」の交差点を左折。すぐに「船町渡船場」の標識が見えました。右折して進みます。江戸時代に「天下の台所」と呼ばれ、全国から物資が集まっていた大坂には、たくさんの船が航行していました。そんな「水の都」大坂には、船を運航し、庶民の通行のための民営の渡船が代々引き継がれていました。明治40(1907)からは淀川筋の29路線が大阪市営事業として運行されるようになり、昭和7(1932)年からは、ほとんどの渡船が大阪市営渡船となっています。

そのまま、南に向かって進むと、突き当たりに船町渡船場があるはずです。今も8路線が大阪市営渡船として、ほとんどの航路が、大阪市建設局西部方面管理事務所の管理の下に運行が続けられています。船町渡船場に着きました。

「船町」の名前は、「万葉集」の「あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人をとめらが 乗れる船見ゆ」(巻6-1063)から、生まれたそうです。階段を上って桟橋に向かいます。対岸の船町一丁目にある桟橋が目の前に見えました。手前の鶴町一丁目の桟橋には「しおかぜ」と「さざなみ」が停まっていました。停船している位置から考えると、この日は「しおかぜ」が就航しているようです。

対岸まで75m。8路線のうちで最も短い路線になっています。昭和20年代から30年代には、川幅が狭いため、対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて、人や自転車が通行していたそうです。明治30(1897)年から昭和3(1928)年まで行われた大阪湾修築工事が完成し、埋立地として、船町、鶴町、福町が造成されたのに合わせ、木津川と尻無川を結ぶために、昭和4(1929)年に開業したといわれています。昭和初期、鶴町には大阪市電鶴町車庫や外資系の自動車工場があり、船町には木津川飛行場(伊丹の前身)や造船所があったといわれています。

桟橋の岸壁に書かれていた船町渡船場の案内です。このデザインはすべての渡船場に書かれていました。

待合室の内部です。木目が美しい造りになっています。室内は掲示物であふれていました。小上がりがつくられていて、くつろぎの空間になっています。正面に時刻表が掲示されていました。日中は毎時00分、20分、40分の20分毎の運行になっています。

桟橋に向かって下ります。15時00分発に乗船しようと思っていましたが、待合室にいたのは、私一人だけでした。

やはり、「しおかぜ」が運行されるようです。手元の資料によれば、「船町渡船には『ふなづる』と『八坂丸』が就航している」と書かれていましたが・・。ちなみに「『しおかぜ』は千本松渡船に、『さざなみ』は落合下渡船に就航している」と、資料にはありました。

『しおかぜ』に乗船しました。客室から見た『さざなみ』の船体です。『しおかぜも』も『さざなみ』も、上流(東)側に向かって停船しています。平成27(2015)年度に、船町渡船を利用した人は1日平均で193人だそうです。

結局、乗船したのは、結局私一人でした。乗船を待っていた乗務員の方が出入口を閉じて出発です。両岸が狭いので、これまでの天保山渡船、甚兵衛渡船、千歳渡船はS字形の運行で対岸に接岸していましたが、この渡船は左側から乗船して左側から降りるO字形で運行されています。対岸では下流(西)側に向かって停船することになるようです。

乗客1人の「貸し切り」状態で、出発しました。木津川運河の上流方面の写真です。対岸にある工業地帯の煙突が見えました。現在では、川の水が浄化されて、「10月から4月にかけて飛来してきた渡り鳥が、魚をついばむ様子が見られるようになっている」と資料には書かれていました。確認はできませんでしたが・・。

下船してから、対岸にあった船町一丁目の桟橋を撮影しました。折り返して鶴町一丁目の桟橋に帰る『しおかぜ』には、3人の乗客が乗車されています。下流(西)側に向かって停船しています。

桟橋から岸壁を渡って、桟橋から別れて外へ出ました。振り返って対岸の渡船場を撮影しました。私は、ここから、次の木津川渡船場をめざして進みます。中山製鋼所の広い敷地の手前を左折して、工場の敷地に沿って東に向かって進みます。

中船町のバス停付近で、右側前方に新木津川大橋の巨大なループ橋が見えて来ました。木津川を往来する貨物船の運航に配慮して、海面までの高さの高い、このようなループ橋が架橋されたそうです。その手前を右折して、南に向かって進むと木津川渡船場に行けるはずです。

乗り場の案内がありました。新木津川大橋に沿って、さらに進みます。

午後3時半近くになって、太陽の影が長くなってきました。正面にあるスロープ状の橋が渡洗船場の入口のようです。

到着しました。木津川渡船場です。船町2丁目にあります。スロープを上って行きます。事務所と乗務員の控え室もありました。

岸壁を超えて渡船場に入りました。降りきると待合いのスペースになるようです。

待合いのスペースです。ベンチは置かれていましたが、ここでも、待っておられる人はいませんでした。

松丸が桟橋に停船していました。出発時間に少し時間があるため、乗務員の方の姿も見えません。かつて、木津川には、昭和30(1955)年から昭和49(1974)年まで、カーフェリー松丸(134トン)が就航していました。昭和48(1973)年に木津川上流に千本松大橋が開通したため、これ以後、人と自転車のみを輸送する渡船に替わったそうです。

松丸の前には第2松丸が停泊しています。木津川渡船はこの2隻が就航しています。いずれも、「カーフェリー松丸」の名前を継承しているようです。

待合いのスペースにあった時刻表です。日中は45分毎に運行されています。

待合いのスペースから見た木津川の上流部分です。停船している貨物船や航行している船舶など、船舶の往来もかなり頻繁に行われています。

桟橋から見た対岸の平林北一丁目方面です。対岸の桟橋は、松丸の向こうの新木津川大橋の下にありました。

対岸までは238m。船町渡船のところで書いたように、大阪市営渡船場は、ほとんどが大阪市建設局の管理下にありますが、その中で、木津川渡船が、唯一大阪市港湾局管理の渡船でした。掲示されていた説明によれば、「大正区戦災復興事業により、同区内にあった木材関連の施設が、住之江区(当時は住吉区でした)の千林地区へ移転することになり、そこへ通勤する人たちのために運行されるようになった」ということです。制服が他の渡船と異なっていると資料には書かれていました。

乗船が始まりました。待合いから桟橋に向かいます。その途中にあった浮き輪状の案内です。これまでの渡船場にあったかどうか定かではありませんが、「大阪市港湾局 木津川渡船」と書かれていました。唯一の港湾局管理ということで、つくられたのでしょうか?

乗船します。自転車の方二人とご一緒でした。直前に到着された方でした。

松丸の客室のスペースです。木津川渡船の1日平均の利用者は、平成27年度には195人だったそうです。

出発しました。そのまま上流に向かって進み、右にカーブして木津川を渡ります。対岸近くになって、再度、右にカーブして下流に向かい大きく左カーブして対岸に着岸しました。ここもS字状に進んで対岸に着きました。

平林北二丁目側の桟橋で下船しました。こちらはかなり広い待合いのスペースが確保されていました。

木津川運河を渡る船町渡船と、木津川を渡る木津川渡船に乗。りました。これで、大阪市営渡船の8ヶ所の渡船のうち、5ヶ所の渡船に乗船したことになります。次の機会に残る3ヶ所の渡船に挑戦しようと思っています。