トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

尖塔のある”倉の館三角邸”と宇多津町

2015年05月02日 | 日記

香川県綾歌郡宇多津町にある”倉の館三角邸”です。和風の邸宅の中に三角屋根の尖塔が見えます。以前、宇多津から金毘羅街道を歩いたとき(2013年11月18日の日記)、この奇妙な建物を見たことがありました。しかし、そのときは金毘羅街道のほうに興味があって、スルーしてしまっていました。今回はこの尖塔のある和風家屋を探してみることにしました。

もう一つの目的は、かつて歩いた金毘羅街道と同じく宇多津の町を通っていた丸亀街道をたどることでした。写真はJR宇多津駅にあった観光地図です。この地図をみて、あの奇妙な尖塔をもつ和風の建築が、地図の8番の「倉の館三角館」だと思いました。また前回金毘羅街道を歩いたことから、丸亀街道が地図の19番の西光寺から11番の「宇夫階(うぶしな)神社に向かう通りだと思いました。県道33号線を東に向かい、大東川を渡ってから南に下って西光寺の東に出ました。そこから、丸亀街道をたどって、JR宇多津駅まで歩くことにしました。

この地図は、大東川にある新町水門にあった案内図です。赤い線で描かれているのが丸亀街道のようです。街道沿いには多くのお寺が集まっています。新町から街道歩きをスタートしました。

丸亀街道の新町の通りです。小さな枡形になっています。正面の民家の前に常夜灯と祠(ほこら)がありました。

常夜灯には「文政4辛巳歳十二月吉日」の銘がありました。文政4年は西暦1821年にあたります。右の祠は木野山神社です。明治9(1876)年に中国四国地方にコレラが大流行しました。脇に立つ石碑には「岡山県高梁市にある木野山神社(久久能智神)を勧請して、コレラを克服した」と書かれていました。私の住む町にも同じ時期に勧請した木野山神社があるので興味深く拝見しました。

料亭になっている伝統的な商家の前を抜けて大東川を渡ります。ここに新町水門がありました。先ほどの地図は西詰めにありました。

大東川の西詰めにあった西光寺です。入り口に「船屋形茶室」の案内がありました。説明では「旧多度津藩主(丸亀藩の支藩・1万石)の御座船と伝えられる船屋形」と説明には書かれていましたが、覆いで囲まれていてまったく見えませんでした。

その先にあった道標です。正面に「東 高松道 西 丸亀道」、右面に「すぐ 川口」、左面に「すぐこんぴら道」、裏面に「天保九年戊戌九月立之」と刻まれています。書かれていることから見ると、この道標は移設されたのではないかと思いました。確認はできていませんが。

その先には広い敷地をもつお宅が並んでいます。建物はほとんど建て替わっています。その先に郵便局のマークが見えました。その手前のトラックがいるところを右に曲がり県道33号線に向かって歩きます。

県道33号の手前にあった宇多津町役場です。以前金毘羅街道を歩いたときにお聞きしましたが、このあたりには江戸時代に高松藩の米蔵があり藩の3分の1の米が蓄えられていました。砂糖や綿の会所も置かれており、また塩の集約地でもありました。これらの商品はここから直接大坂の市場に送られていました。砂糖と綿と塩は”讃岐三白”といわれ、江戸後期には讃岐の国の名産品になっていました。役場の南側一帯は、藩の米蔵の前ということで「倉の前」とよばれていました。

「倉の館三角邸」は役場の南の通りにありました。明治になって洋風の建築様式が日本に入ってきたとき、和風建築の家屋に洋館の応接間をつけることが全国で流行しました。この建物は旧堺芳太郎邸で、肥料の販売で財を成した堺家の別邸として接客用のお座敷として建てられました。

大正ロマンを彷彿させるステンドグラスに替わった洋館は、「1階は書斎兼応接間、2階は子どもの勉強部屋ともいわれらせん階段があった」と案内には書かれていました。

これは、三角邸の北側から南側を撮しました。「純建築の1階は書院風の風格ある大広間を備え、雪見障子をしつらえたお茶屋もある」。「2階の二つの和室にも随所に趣向が凝らされている」(案内板)そうです。

平成8(1996)年宇多津町が購入して現在の姿に改修されました。平成9(1997)年には、文化庁の登録有形文化財に登録されています。現在は文化研修の場として活用されています。

右側の通りは屋敷の北側の通りです。この通りにはかつて琴平参宮電鉄(琴参電鉄)の線路が通っていたと前回にお聞きしました。琴参電鉄は大正12(1923)年丸亀・琴平間が開業し、昭和3(1923)年には坂出まで延伸しました。

大東川に架かる自転車・歩行者専用道路です。琴参電鉄の鉄橋跡のように見えます。

鉄橋跡を渡ります。向かい側に細川頼之の歌碑がありました。細川頼之は、貞治6(1367)年に足利幕府の執事となり、幼かった3代将軍足利義満を助けて、幕府の中枢部で活躍しました。しかし、康暦元(1379)年、幕政に不満を抱いていた京極高秀や土岐直氏らによって執事の座を追われ、ここ宇多津で、領国である讃岐国の統治にあたりました。そのときの頼之の館は現存していませんが、円通寺や多聞寺のある一帯にあったと想定されています。

引き返します。鉄橋跡から南側を撮影しました。遠くに讃岐富士(飯ノ山)、丸亀街道沿いには西光寺が見えます。西光寺の上に見える山の中腹に細川頼之の館があったようです。こうして宇多津は政治・経済の中心地となり、四国屈指の湊町として栄えました。

倉の館三角邸を過ぎて、さらに西に向かいます。福祉センター、商工会館を過ぎて高松信用金庫宇多津支店に着きます。その向かいにあった網の浦万葉公園には、鉄道をモチーフにした遊具がありました。前回金毘羅街道を歩いたとき「この近くに琴平参宮電鉄の宇多津駅前駅があった」という説明をお聞きしたおぼえがあります。この公園のあたりが駅だったのでしょうか?ここも人通りが無く、確認できませんでしたが・・・。

倉の館三角邸まで引き返し、その西側を南に進み再度丸亀街道に戻りました。途中の水主(かご)町にあった連子窓(れんじまど)のある伝統的な商家です。天正15(1587)年、生駒親正が讃岐国に入り高松城、丸亀城の築城に取りかかりました。こうして、宇多津は政治・経済の中心地の地位を失うことになりました。しかし、高松藩は宇多津に米蔵を置いたため、宇多津は”讃岐三白”などの集散地として、また湊町として栄えることになりました。江戸時代の天保9(1838)年には、家数866戸、31,693人が居住し、商業・サービス業に携わる者が1,693人いたといわれています。このあたりには、明治31(1898)年の町制施行時からほとんど変わっていない商家が残っています。この地域を古街(COーMACHI)と呼んで、街の活性化に努めています。

丸亀街道をさらに進みます。次の交差点の右側の町、伊勢町には歴史を誇る商店街がありました。

かつてはアーケードの下に商店街がありました。今はアーケードもほんの一部に残っているだけになっています。

正面のパナソニックの看板のあるお店の前の左右の道が丸亀街道です。丸亀街道を越えてそのまま南に進みます。

この先にも伝統的な商家が続いています。

5分ぐらい歩き、緩い左カーブが始まりました。その先に「真言宗円通寺150M 真言宗多聞寺70M」と書かれた標識があります。この右側に登る道の上の一帯が細川頼之の館があったところなのでしょう。多聞寺には「頼之お手植えの柏」といわれる柏の木が残っています。

パナソニックのお店のあるところまで引き返し、再度丸亀街道を西に進みます。左に浄泉寺を見ながら進みます。

右に「郷照寺(ごうしょうじ)」の看板が見えました。四国霊場八十八ヶ所の78番霊場の郷照寺の入り口です。厄除けお寺として広く知られています。

左に進み、突き当たりを右に登っていくと郷照寺です。

郷照寺の入り口の丸亀街道沿いに地蔵餅本舗がありました。八十八ヶ所をめぐるお遍路さんに親しまれたお菓子の発売元です。その前の道が次の79番札所の高照院へ向かう道です。

郷照寺からさらに5分ぐらい歩くと、神社の鳥居に突きあたります。宇夫階(うふしな)神社の鳥居です。

石段を登り切った上にある本殿です。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、大国主神(おおくにぬしのかみ)で知られている、農耕や殖産、医薬、酒造などを司る神様です。衣食住の主宰の神である豊受大御神も一緒に祀られています。

本殿は、登録有形文化財に登録されています。

本殿の裏にあった”磐境(いわさか)”とその前にある”御膳石”です。”磐境”は”神の座”で、高さは5.5m、直径4m、重さは300トン以上の岩だといわれています。”御膳石”は神にお供えを置くところになっています。宇夫階神社は宇多津の人たちの鎮守の神として深い信仰を集めています。

宇夫階神社の鳥居の前から県道33号に向かって進んで行きます。

県道33号の向かいにあった道標です。幕末の「文久3(1863)年」と刻まれていました。

道標には「西 丸亀道」「右 へんろ道」と彫られています。丸亀街道を西に向かう旅人は、ここから県道33号を西に向かっていました。

そこから10分ぐらい歩くとJR予讃線の宇多津駅に入っていく道に出ます。そのすぐ先にあった「丸亀市」の標識です。宇多津駅に向かう道のすぐ先はもう丸亀市だったのです。

JR宇多津駅は瀬戸大橋が架けられてから、以前の場所から移動しています。塩田を埋め立ててできた新しい宇多津の町の中心地に近いところに移っていました。

県道33号の北側には、塩田跡に発展した新しい町が広がっています。丸亀街道沿いの伝統的な町とは対照的な姿を見せています。宇多津は町は、香川県で人口密度と人口の増加率が最も高い自治体です。丸亀街道に沿って宇多津を歩いた今回は、発展する宇多津町の歴史をたどる旅になりました。