風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

選択の時

2011年09月03日 | 雑感

台風は九州を逸れましたが、怖ろしい粘り腰で本州に居座っていますね。
神道でも密教でも、おそらくはどこの宗教でも、「浄化」は火か水を通じて行われます。
この世の中における「浄化」には、必ず誰かや何かの犠牲が伴います。
人の感傷を一切超えたところで浄化が行われるのでしょう。
古代、川の氾濫は多くの人々に厄災をもたらしたでしょうが、他方、その土地を肥沃にしました。

数年前、朝夜の区別なく、しょっちゅう雷が鳴っていた年が続きました。
ある晩などは、数秒おきに、しかも数時間にもわたって、ピカピカドンドン鳴り続ける
天空の雷劇場を言葉もなく眺め続けたこともあります。
雷は「神鳴り」とも言います。
なにかを人の世に懸命に伝えていたのかも知れません。

ぼくの店は一日数人の客しか来ません。
ここ数日、その数人の客が言うことのテーマがほぼ同じというのは興味深いことです。
ぼくみたいに暇人でインターネットをしているわけでもないのに、このところの日本がなにか変だと感じ始めているのです。
何がこの日本で起こっているのかという疑問が彼らの共通の話題でした。

特に彼らが危機感を覚えていたのは、若年層のものの知らなさ、好奇心のなさ、向上心のなさを憂いていました。
要するに彼女、彼らの息子や娘や嫁や従業員だったりする人たちの精神文化の貧弱さを憂いているわけです。
もちろん若者といって千差万別ですから、人それぞれなのですが、傾向としてはちょっと看過できないくらいに、
大きなそのような無気力的な傾向性を帯びてきたということなのでしょう。
うーん、無気力というのとは違いますね。
なんなんでしょう。
いかなるレールに縛られないという意味では自由なのでしょう。
でも、自分が好きなレールしか選択しないという不自由さもその裏にあるような気がします。
どんなレールも歩こうと思えば歩ける上での、自分のレールではなく、善し悪しはともかく、自分の歩きたいレールを、
自分の歩きたいペースで歩くというのが、その気風のような気がします。
それのどこが悪いのかといわれれば、まったくもって、悪くはありません。
自分の歩きたい道を、歩きたいように歩いて、誰が悪いと言えるでしょうか。

でも、どこかが、何かが、おかしいのです。
例えば、だれでもひとは自分がその道を歩きたいと自分が決めたと思っています。
では、今の小学生や中学生にアンケートを採ってみれば、おそらくなりたい将来像は芸能人、芸術家、タレント、
そんなところがトップに来るのではないでしょうか。
それが悪いことではありません。
何になりたいかはもちろん自由です。
でも、それが今の小中学生が自分で考えて選んだ進路の選択なんでしょうか。

戦前は、多くの男子は兵隊さんになって、お国のために闘うんだと本気で思っていたようです。
言うまでもなくそういう教育を受けたからです。
今の子供たちは、テレビを見て育ちます。
道徳やら修身やらをやかましく言われることもなく、今のテレビを見て育ったら、そりゃ、
華やかそうで楽しそうなブラウン管の中の世界に憧れます。

兵隊になってお国のために闘うという教育は戦後徹底的に批判されて、消滅しました。
では、なんの道徳的な道筋もなく、テレビ文化に対する耐性を身につけさせることもなく、
何か一見華やかで楽しそうな世界に憧れさせることには無批判で許されることなのでしょうか。

ブラウン管(←古い?)の中はもちろん虚構の世界です。
甘い物にはたちの悪い人々も当然沢山よってきます。
競争も苛烈です。
そこで負けた人間は、ボロ雑巾のようになります。
兵隊さんになるのが悪いことで、ボロ雑巾のようになるのは、いいことだとは思いません。
どちらもうさんくさいわけです。

戦前・戦中も新聞は戦争を煽りに煽りました。
今のメディアが、その反省から、まっとうになって公明正大の立場から物を言っていると思ったら大間違いです。
煽る方向性が180度替わっただけです。

すべての基本は、すべての人々が、すべての個人という尊厳を取り戻すことです。
メデァに扇動されて作った虚妄な個人像という物を打ち壊すことです。
と、ここまで書いてきて、正直言って、面倒くさくなります。
人の尊厳をブ一ブログで説き起こす?

一々証拠や事例を挙げてメディアの嘘くささ、胡散臭さを論証していけばいいのですが、膨大な作業になります。
今のメディアの問題点を一つだけあげます。
彼らは報道の自由を、報道しない自由にすり替えて、その権力を好き放題使い始めています。
どんなに時の権力者が国会で追及されようとも、それを報道しなければ、権力者は安泰です。
権力者とメディアがスクラムを組んでいますから、もう無敵です。
一国の総理が、外国人から献金を貰おうが、極左団体に巨額の献金をしようが、それが国会で野党から完膚無きまでに指弾されても、
メディアは完全に無視しました。

民主主義国家でありえない話しです。
ありえない話しが、現実に進行しています。

そこで、話を元に戻します。
自分の好きなことを自分の好きなペースでやれればそれで良い、とする若者が増えているとします。
そういう人々は、誰に都合が良いと思いますか?
適当な衣食住空間と、その空間内で少しだけ自由に動けるスペースがあれば満足する人々。
そうです、まるで従順な羊や牛の群れです。
あとは不満が爆発しないように、毎日毎日何らかの労働を課せ、じわりじわりと税金を搾り取るだけです。
でも、その空間にいる人々は、牧場の羊や牛のように、生きている間は自分たちのことを不幸とは考えません。

自分を取り戻すというのは、言葉で言うほどたやすいことではありません。
逆に言うと、どんなに嘘や虚偽にまみれていても、それを自分とすることは可能です。
本当の自分というのはたった一つですが、ただの自分というものなら、無限に作れます。
本当の自分というのは光源ですが、その光源は無数の嘘の自分を作ることが可能です。
誰かのろくでもない意図によって作られた自分という虚像を、自分と思い込ませる作戦が進行中です。
しかも、最終段階に入ってきているようです。

酔っ払いながら書いているのですが、書けば書くほど舌足らずになります。
なんというか、一方では「人は本来仏なり」という教えがあるかと思えば、人を羊や牛と同扱いするシステムがこの世を席巻しています。
選択の時ですね。