風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

フィルター

2010年12月05日 | スピリチュアル
もう10日以上咳が止まりません。
ひっきりなしに咳が出るというわけではないのですが、時折発作を起こしたようにゴホゴホと出ます。

目の前の壁に、知人が作った日めくりが貼ってあります。
「手放すことが 時には人を強くする」と書いてあります。
日めくりなのですが、めくってなかったのでずっとこの文字が壁にありました。
「手放すことが 時には人を強くする」
その通りでしょう。

手放すことの反対は、溜め込む、執着する、こだわる、などでしょうか。
手放してしまえば、それに伴うかもしれない執着心や愛憎のあれやこれやも手放してしまいます。
ある意味で、無敵の処世術です。
何でもかんでも手放してしまえば、無責任のそしりを免れませんから、その兼ね合いが難しいところではありますが。

で、手放すというのは、その人であったり物であったり状況であったりする対象を手放すのではありません。
あくまでも、その対象に執着しようとする自分の心を手放すのです。
自分の心を手放さずに、対象を手放すとということは、心が引き裂かれるような思いがするだけです。

自分の心を手放すことに慣れていない人にとっては、自分の心を手放すという意味がうまく飲み込めません。
自分が自分でなくなるような不安感もあるでしょうが、自分の心に背くという感じがどうしてもするのだと思います。
自分の心の動きというものを、疑いもないものとして受け入れているのでしょう。
その心の動きをもって、自分は自分でありえるのだし、これからもこの心の動きとともに生きるしかない。
そんなかんじなのでしょう。

でも、そうでもないんです。
心(心といっても複雑な層をなしていますから一概には言えませんが、表層に浮かぶ意識の流れです)というのは、なかなかの策士です。
五感を通して感得した世界を解釈し、判断し、選択するのが、人の心です。
なぜかくも人それぞれに人の世界観というものは違ってくるものなのでしょうか。
それは、それぞれの人が持つ心というフィルターが違っているからです。
心というのは、世界を見る各々のフィルターです。
ところが、人は己のフィルターを通した世界しか見えませんから、
そうでないフィルターを通してみている人の意見に違和感を感じるわけです。
そして、各自自分のフィルターを通してみている世界こそ正しいと主張するわけです。

ですから、ここでいう手放すというのは、そのフィルター、あれこれ選別する自分の心を手放すということです。
心というフィルターを手放すとなにが見えてくるのか。
花が咲いて、蝉が鳴いて、落ち葉が舞って、雪がしんしんと降るだけです。
人は、生まれてオギャーと泣いて、喜怒哀楽に転々とし、ことりと死ぬだけです。
そして見上げるといつだって空が広がり、風が吹いているだけです。

いったんフィルターを外した世界垣間見て、再度己のフィルターを通した世界を眺め直してみるのも一興です。
その変にねじ曲がった世界もこれまた風流という感じになるんだろうと思います。