風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

修羅

2010年12月08日 | 雑感
世間には、きな臭いニュースであふれています。
国家間でも、芸能界でも、一般社会でも、修羅の世界ばかりです。

「修羅」の世界というのは、何でもほしい「餓鬼」の世界と違って、ある意味での美学があります。
「誰かに負けない力」です。
自分が勝てばいいのです。
意味もなく頭を下げるくらいなら、死んでもいいというところまで行きます。
ただし、自分より力があると相手に認めた存在には完全に服従するのも、その美学です。
「力」の美学です。

でも、昨日たまたま帰ってみたニュース番組で、延々と芸能人の記者会見を放映しているのには驚きました。
前々から腐っているとは確信していましたが、ここまでとは思いませんでした。
報道番組のトップニュースで、20分以上一芸能人の喧嘩沙汰の弁明会見を流すのは日本だけでしょう。
まぁ、これがメデイアの現実です。

今、誰が考えても、この日本には問題が山積です。
今まで日本を支えてきた製造業の先行きが見えない、農業問題の深刻さ、経済界の混乱ぶり、
若者の志気の低さ、結婚に対する男女間の意識の隔離が広がっていること、道徳心というものが
社会から消えつつあること、学力、教養の低下、累積する領土問題、思いつくだけでも山ほどあります。
最近頻発される政治家の失言自体が問題のなのではなく、そういう軽率きわまる発言が連発される
風土に日本がなってしまっているということの方が問題でしょう。

まぁ、そういう流れにものを申すつもりはありません。
ここまで流れが偏向してしまえば、なにを言っても無駄です。
無駄なことにエネルギーを使うくらいなら、そういう流れから抜け出す人が、
一人でも現れればいいというのがぼくのスタンスです。
誰かに「抜け出せ」、というのではありません。
ぼくが抜け出したい、というのが第一義です。
誰かやなにかを攻撃する時間とエネルギーを使うつもりはありません。
ただ、なにが起きているのかをきちんときちんと見ておこうと思っています。

で、無駄でないことは、なにかということです。
自分が生を承けているということは、なにかということです。

これは、軽々に言葉にできるものではありません。
でも、一人一人が受け止めるしかありません。
そういうめんどくさいことを受け止めないこともできるのが、人間です。
すべてを受け止めきるのも人間です。
すべてを放り投げることができるのも人間です。

一人一人の選択というのが、かくも重いものではあります。
その選択を、選択の自由の喜びとするのか、はたまた人に背負わされた重責と見るのか。
どうするかは、その人次第です。
それが、「自由」ということです。

喜ぶのも自由、苦しむのも自由。
したいようにすればいいのだし、言われなくたって、ほとんどの人はしたいようにしているわけです。
あとは、そこに喜びがあるのかどうかだけなんだと思います。
もうそこには理も非も、善悪の理屈も介入できません。

あなたがしたいことはどこに向かってるのですか。
そう問われて、どう答えられるかだけでしょう。