風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

右脳

2009年05月08日 | スピリチュアル
今日知人から聞いた話です。
昨日NHKで、病気か事故かは知りませんが、左脳の働きが一時的に麻痺してしまった人を紹介する番組があったそうです。
で、右脳のみが活動する状態の人の意識というのは絶対的な幸福感に包まれていて、他者との境界も消えて、
それこそ「涅槃」の境地にいるようだったとその人は語ったそうです。
そういうふうに自分を客観視できるくらいですから、今ではその人の左脳も麻痺から抜け出して健全に働いているのだそうですが。

左脳というのは分別、分析、解釈、価値判断などを主に司っているといわれている脳の分野です。
簡単に言ってしまえば、個体としてのアイデンティティを守ろうとする機能を司っているのでしょう。
この三次元世界で生き抜くためには、個体としての人間であるという条件は外せませんから、
左脳の役割はそれなりに評価されるべきでしょう。

興味深いのは、禅の修業に代表されますが、宗教的修行が目指す方向性として、左脳の機能の一時的な停止を目指すということです。
左脳が最も得意とする「分別知」というものを片っ端から否定あるいは無視していきます。
そして「分別知」では決して捉えることのできなかった自他が融合した絶対肯定の境地、いわゆる「悟り」という境地を目指します。
番組のその人は西洋人だったそうですが、「ねはん」という日本語を敢えて使ったのもなるほどと頷けます。

人の苦しみの大方は左脳の分別、解釈によって引き起こされます。
「自分」というものが疎外され、不当に扱われ、思い通りに行かない理不尽に迷わされ・・・。
それに対して、「分別する」ということを知らない右脳は、ただただ生命に対する肯定感があるだけです。

さらに言うならば、「自我」というのは左脳が作り出した幻影だとも言えるでしょう。
己の我欲を正当化し、外部世界を我欲の利用対象とみなすために、クルクルと働くのが左脳といえるかもしれません。

左脳の悪口をいいたいのではなく、左脳を生命の主体にすえるとそうなるのだろうということです。
右脳=生命の喜びを主体にすれば、左脳は極めて優秀なサポーターになれるのではないかと言いたいわけです。

喜びが主体であれば、左脳が作り出す幻影=不安や不足感が行動の動機になることがありませんから、
したがって、他者との比較や優越感の争いに基づいた不毛な行動がありえなくなります。
他者という存在が競争相手や比較対象でなくなれば、他者を利用しようとする心もありえなくなります。
自分が喜びなら、他者の生命も喜びであることを喜び合うだけです。

現代の教育体系では主に左脳の働き(分別・分析・記憶)で評価されますから、左脳が人生模様の主役に居座っています。
だれそれは賢い、偉い、バカだ、つまらぬ、何が価値がある、あれが成功だ、あいつは負け犬だ、とやるわけです。
生きる喜びというのを評価の基軸にすれば、世間で言われる勝ち組といわれている人々の後生大事に抱えている価値観は
あっけなく崩壊するような気がします。

喜びというのはすでに勝っている状態です。
負けるという状況がありえない心のあり方です。
他者との比較で生きるというのは、負けるかもしれないという不安と恐怖の中で生きることです。

喜び(右脳)を主体として、更なる喜びを高めるために状況を分析・判断(左脳)できるようになれば、人は無敵になれます。
不安(左脳)を基にして、さらに不安を増長させるような状況判断・分析を左脳にさせておくと、人は病気になるのでしょう。

不安というのは現実ではありません。
左脳が作り出す幻影です。
喜びというのも幻影でしょうか。
そうかもしれません。
でも、どうせ幻影に踊るなら、不安という幻影に踊らされるよりも、喜びというダンスを踊った方が楽しいです。
楽しいダンスを踊るという幻影を経験する。
それがこの世に生きるということなら、ぼくはそれで充分です。