風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

宗教心

2008年11月06日 | スピリチュアル
ダライ・ラマの講演会を主催したお坊さんの最初の挨拶は次の言葉から始まりました。
「宗教心のない教育は、賢い餓鬼を作る」

過激な言葉ですが、その通りだろうと思います。
金融工学とやらを駆使して何億というサラリーをなんの疑問も無く追求する姿は、まさに餓鬼でしょう。
ポイントは「何の疑問も無く」ということです。
多少の疑問は感じるのでしょうが、理不尽さを押してでも、自己の利益のみを追求するというのは、
餓鬼の姿だと言われても仕方のない姿です。

経済活動をしているだけだと開き直るのは簡単ですが、自らの行為に疑問を感じることが出来るか否かが、
やはり「宗教心」の有無なのだと思います。

宗教心というのは、なにも特定の宗教の教派や教条に拘ることではありません。
すべての生命は支えあい、循環し、助け合うことこそが人間の叡智であるということを教えることです。
生命という尊いエネルギーに感謝することを教えることです。

コンピューター上の数字を弄くりまわして、石油を高騰させ、食料を高騰させ、
経済力のない人々の生活を脅威に晒し、一転して暴落させれば世界中の社会不安を一気に煽る。
どこにも叡智も感謝もありません。
生命の舞台である地球上の生きとし行けるものを不安に突き落とすだけです。

「賢い餓鬼」
その賢さが武器になる世の中です。
日本の状況も、賢い餓鬼が起こす事件や不祥事にまみれています。
汚染された米を売るだとか、組織的に公金を使いまわすだとか、教師が教え子に欲情を催すとか、
その手の話に充ちています。

宗教心というのは、もちろん法律や教条ではありません。
なにをして良いか悪いかを己の叡智で抑制・判断できる心を涵養することです。
極めて曖昧な心ではあります。
曖昧だからこそ、日々自分のする行為の是非を問いかけ続けることの契機となるのが、宗教心です。
法律というのは、心に問いかけるものではありません。
法律に触れなければ、誰がなにをしようと問うことが出来ないのが法律です。

法律に触れなければ、なにをしてもいいじゃないかという発言に抗する言葉というのは、法律にはありません。
自分がよければいいじゃないかという言葉に抗することが出来るのは、宗教心です。
また、そうでなければ、宗教心と呼ぶ必要もなくなります。

宗教心とか道徳心ということが、日本の教育の現場から締め出されようとして、久しいです。
誰よりも苦しむのは、そういう中で世の中に放り出される「賢い餓鬼」なのではないかと思うのですが。