風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

リスとドングリ

2005年07月12日 | 雑感
リスは冬眠をしません。
せっせ、せっせとドングリを集めては秘密の倉庫に隠しておき、冬の食料とします。
ところが、時として、リスは雪の下に埋まった秘密の倉庫のありかを忘れてしまうのだそうです。
リスから忘れられたドングリは、春になり芽を出します。
そういう仕組みで、ドングリは子孫を残します。
ドングリの遺伝子は、リスが食べ忘れることさえ計算しているのでしょうか。
リスにどうぞ食べてくださいと身を投げ出し、たまたま食べ残されたドングリが芽を出すのです。

こういう高度なテクニックは好きですね。
与えつくして、与えられる。
理想の循環ですね。
リスだってたらふくドングリを食べるのですから、ドングリにだまされたとは思いますまい。
ところが、未熟な人間は散々与えられているにもかかわらず、
与えられたものを溜め込み、手放さず、ほかの誰かに与えることを拒みます。
与えることで成り立つ自然のサイクルが、人間にいたって遮断します。

人間の吐き出すものは、ゴミと毒です。
自然に、たくさんというか、すべてを与えられているにもかかわらず、自然に与えて返すものはゴミと毒です。

どうあがいてみても、与えて循環する自然のサイクルを人間文明は作ることができません。
人間の文明の成り立ちが、他者に与えるという理念で構成されていないからです。
「自分の」利便性、安楽、欲の満足を追求するために文明は進化してきました。

未開文化では、人間とて与え、与えられるサイクルの中で生きています。
森の中の生態系の中で頂点に立つといっても、与えられる以上には人口も増えず、
食べられる以上には食物を必要としません。
植物繊維で作った衣類は土になり、糞便も地に溶け流れに溶けます。
ひとつも無駄にならず、生命の循環は続きます。

あらゆるところで、文明の名の下、人間は生命の循環を断ち切り続けています。
生命の循環を断ち切れば、いづれ、自分たちの生命も断ち切られることは自然の理です。

こういうことは、19世紀の昔から世界中で散々言われてきたことです。
そのとおりだと思いながらも、「自分の」文明を手放せないところに、人間の愚劣さがあります。
愚劣は、愚劣のサイクルを生み出します。
生産のサイクルではなく、破壊のサイクルを生み出します。
狂ったように天地の恵みを収奪し、天地のシステムを破壊します。

カミさまは、いい気になっている人間とその作り出す醜悪な建造物よりも、
ドングリやリスやクマや森や流れや砂浜のほうが好きだと思うのですが。








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