風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

宮沢賢治

2007年07月05日 | 世相
今朝4時ごろ目が覚め、焼酎を飲もうか、滝に行こうかの二者択一です。
で、どんな水量になっているのかにも興味があったので、滝に行きました。

久しぶりに大水量の滝でした。
以前、100日行に入ったとき、4回だか5回だかの台風が来て大水量には慣れていたはずですが、
久しぶりなので少し緊張します。
まず、音が普段とは全然違います。
お堂でお経を唱える声もかき消される感じになります。

今日の滝は、なんか「揉まれる」という感じでした。
まず、滝場の周囲の仏様に線香を上げて回るのですが、水に足をとられて流れの中に転びました。
服はずぶ濡れになり、肘と腰を川底の石にしたたか打ち付けました。
めげずに服を滝着に着替え、作法を続け、大水量の滝に入りました。
轟音の中から、時折、誰かが叫ぶ声が聞こえます。
それにもめげずに、滝に打たれ続けます。

最後は、気持ちよく滝から上がりましたが、まぁ、なんとなく日頃の溜まった「厄」というか、
「澱」というか、そういうものを流してくれたんではないかと思いました。
濡れた服に着替えて車で帰ったわけですが、暖房を入れずにいられませんでした。
それでもまだ身体は冷えていて、帰り着くなり熱いシャワーを浴びました。

朝食を食べて、出勤まではたっぷり時間があるので、布団にもぐりこんで、
古本屋で買った宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読みます。
昔、読みかけてちんぷんかんぷんで放り出した本です。
もう、なんという愛しい本なんだろうか、と今回は思いました。
理屈で読む本ではなく、心の奥底の感情で読む本だったんですね。
高校生のころから宮沢賢治が好きって言っていた人は、ある意味天才だったんじゃないかと今は思います。

そこで描かれる舞台は、ぼくの生地と距離的にはとても近く、懐かしい言葉と情景です。
忘れていた子供のころの繊細極まりない心の動きを少しだけ思い出しました。

早く亡くなり、顔も見たことがないのですが、ぼくの母方の祖父が宮沢賢治と親交があったという話は聞いたことがあります。
祖父も児童文学を書いていたらしいです。
ぼくの父親が資料を集めて、その辺りのことを説明してくれたことがあるのですが、
そのころのぼくはあまり興味がわかずにふんふん聞き流していました。
改めて話を聞いてみたいと思うのですが、その父も今ではボケが進んでいて、それも不可能でしょう。
なんでも祖父も酒の飲みすぎで早死にしたらしいです。

過ぎてしまえば、人の一生は切ないほどにあっけないものです。
憶えている人さえいなくなります。
それでもいいのですが、それでもいい人生だったと心から思って死にたいですね。


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