昨日は休日、朝は滝行、昼はジム、夜は座禅道場に行きました。
狙ったわけではないのですけれど、結果的に心身再生プロジェクトみたいな一日でした。
一週間前見たときは青々として実がついていなかった稲穂が、ここのところの晴天続きで実を垂れ始めました。
涼しい風に揺れ、かすかに色づき始めてもいました。
まぁ、いろいろありますが、要は簡単なことだと思うのです。
「幸せだと心から思えば幸せだ」ということです。
そう思えれば、どんな状況であれ、幸せです。
幸せだと思えるか思えないかを、自分を取り巻く周囲の条件次第にするから、人はいともたやすく不幸感に囚われます。
お金がないとだめ、素敵な伴侶がいないとだめ、やりがいのある仕事がないとだめ、際限なく自分の生きる条件にだめ出しをします。
そういう条件は大抵は体制の都合や企業の都合や誰かの都合にいいように押し付けられた条件です。
一人ぼっちで孤島に暮らしても、幸せだと思えば幸せです。
今日食べるものもなく水ばかり飲んでも、幸せだと思えば幸せです。
それは極端すぎる話にしても、今時一人ぼっちで孤島で暮らすほうが難しいでしょうし、生活保護もありますから
何も食べるものがないということもまれな話でしょう。
生きているだけで幸せならば、食べ物があればありがたく嬉しいし、ともに生きる人がいれば喜びの輪が広がります。
それだけのことなんだと思います。
そんなのは空論だと言う人が多いかもしれません。
でも、こうでなきゃだめだ、あれがなきゃだめだ、こうしなければいけないなどと際限のない心のおしゃべりこそ、
仏教なんかでは愚痴といいます。
人の心に訴えかけるものでこの世は満ちています。
たいていは誘惑という形で人の心に侵入してきます。
もっとお金持ちになって、豊かな生活をして、おいしいものを食べ、素敵な人と付き合い、健康で長生きして・・・。
もうキリがありません。
人の心というのは実にいい加減なものです。
いったん心が思い込んだら、思い込んだとおりに人生が進まないと気がすまなくなります。
年をとりたくないといったん心が思えば、整形を繰り返して化け物みたいになったり、
出世が命と思えば、家族を犠牲にしても気がつかない。
自分が好きだと思い込んだら、相手がどんなに悪党でも嫌われたくない一心で言いなりに堕落していく。
そういう心の思い込みをいったん外してみるのが、禅や滝行などの修業なわけです。
修行中は食事もうんと質素なものになりますが、ご飯でもうどんでも漬物でもとてもおいしいご馳走です。
ただ食べられることが本当にありがたいとおもいます。
心から思い込みという思い込みをすっかり掃除してしまって、ぽかんとまっさらになった心でみる風景が悟りと呼ばれる境涯なのだと思います。
まっさらになってみれば、世界はただただひたすらありがたく輝いています。
死のうが生きようが、病気であろうが貧乏であろうが、ひたすらありがたく輝いているわけです。
もうそうなると、不幸になりようがありません。
条件の出しようがありません。
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」
この良寛さんの言葉は、決してシニカルに言っているのではなく、大真面目に言っている言葉です。
災難にあって、天や他人を恨んだり責めたりしても、心がますます荒んでいくだけです。
死ぬときにじたばたする心が苦痛なのであり、死そのものは肉体が死ぬだけです。
死のうが生きようがどうでもよいなら、何もする気が起きなくなるじゃないかという疑問も出るでしょう。
何でわざわざこの世の苦界で七転八倒しなければいけないのかと。
しなければならないことなどありません。
したいからするだけです。
何もしたくないという人がいます。
たいていは自分が思い通りの人生を送れていないと感じるときに出る言葉です。
何もしたくないと思うということを「している」だけです。
いずれにせよ、人は自分の心がしたい(~しなくないということも含めて)ということしかしません。
よきにしろ、あしきにしろ、人の心のありようがその人の行為を選択させます。
その大切な心が見当違いの思い込みで縛られていたら、人生が台無しになってしまうこともあるでしょう。
自分が主体になるということは、自分の心を自由自在に解き放ち、「自分が」コントロールすることです。
だれかの教えやイデオロギーや宣伝に載せられて生きることは、自分の心の自由を手渡してしまうことです。
自分の心がいつも何を思い込み、何を選択しているのか、それを見据えていきましょう。
ぼくなんか自分の心を見るたびにがっくりとうなだれてしまうことが常ですが、なぁに、負けません。
狙ったわけではないのですけれど、結果的に心身再生プロジェクトみたいな一日でした。
一週間前見たときは青々として実がついていなかった稲穂が、ここのところの晴天続きで実を垂れ始めました。
涼しい風に揺れ、かすかに色づき始めてもいました。
まぁ、いろいろありますが、要は簡単なことだと思うのです。
「幸せだと心から思えば幸せだ」ということです。
そう思えれば、どんな状況であれ、幸せです。
幸せだと思えるか思えないかを、自分を取り巻く周囲の条件次第にするから、人はいともたやすく不幸感に囚われます。
お金がないとだめ、素敵な伴侶がいないとだめ、やりがいのある仕事がないとだめ、際限なく自分の生きる条件にだめ出しをします。
そういう条件は大抵は体制の都合や企業の都合や誰かの都合にいいように押し付けられた条件です。
一人ぼっちで孤島に暮らしても、幸せだと思えば幸せです。
今日食べるものもなく水ばかり飲んでも、幸せだと思えば幸せです。
それは極端すぎる話にしても、今時一人ぼっちで孤島で暮らすほうが難しいでしょうし、生活保護もありますから
何も食べるものがないということもまれな話でしょう。
生きているだけで幸せならば、食べ物があればありがたく嬉しいし、ともに生きる人がいれば喜びの輪が広がります。
それだけのことなんだと思います。
そんなのは空論だと言う人が多いかもしれません。
でも、こうでなきゃだめだ、あれがなきゃだめだ、こうしなければいけないなどと際限のない心のおしゃべりこそ、
仏教なんかでは愚痴といいます。
人の心に訴えかけるものでこの世は満ちています。
たいていは誘惑という形で人の心に侵入してきます。
もっとお金持ちになって、豊かな生活をして、おいしいものを食べ、素敵な人と付き合い、健康で長生きして・・・。
もうキリがありません。
人の心というのは実にいい加減なものです。
いったん心が思い込んだら、思い込んだとおりに人生が進まないと気がすまなくなります。
年をとりたくないといったん心が思えば、整形を繰り返して化け物みたいになったり、
出世が命と思えば、家族を犠牲にしても気がつかない。
自分が好きだと思い込んだら、相手がどんなに悪党でも嫌われたくない一心で言いなりに堕落していく。
そういう心の思い込みをいったん外してみるのが、禅や滝行などの修業なわけです。
修行中は食事もうんと質素なものになりますが、ご飯でもうどんでも漬物でもとてもおいしいご馳走です。
ただ食べられることが本当にありがたいとおもいます。
心から思い込みという思い込みをすっかり掃除してしまって、ぽかんとまっさらになった心でみる風景が悟りと呼ばれる境涯なのだと思います。
まっさらになってみれば、世界はただただひたすらありがたく輝いています。
死のうが生きようが、病気であろうが貧乏であろうが、ひたすらありがたく輝いているわけです。
もうそうなると、不幸になりようがありません。
条件の出しようがありません。
「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」
この良寛さんの言葉は、決してシニカルに言っているのではなく、大真面目に言っている言葉です。
災難にあって、天や他人を恨んだり責めたりしても、心がますます荒んでいくだけです。
死ぬときにじたばたする心が苦痛なのであり、死そのものは肉体が死ぬだけです。
死のうが生きようがどうでもよいなら、何もする気が起きなくなるじゃないかという疑問も出るでしょう。
何でわざわざこの世の苦界で七転八倒しなければいけないのかと。
しなければならないことなどありません。
したいからするだけです。
何もしたくないという人がいます。
たいていは自分が思い通りの人生を送れていないと感じるときに出る言葉です。
何もしたくないと思うということを「している」だけです。
いずれにせよ、人は自分の心がしたい(~しなくないということも含めて)ということしかしません。
よきにしろ、あしきにしろ、人の心のありようがその人の行為を選択させます。
その大切な心が見当違いの思い込みで縛られていたら、人生が台無しになってしまうこともあるでしょう。
自分が主体になるということは、自分の心を自由自在に解き放ち、「自分が」コントロールすることです。
だれかの教えやイデオロギーや宣伝に載せられて生きることは、自分の心の自由を手渡してしまうことです。
自分の心がいつも何を思い込み、何を選択しているのか、それを見据えていきましょう。
ぼくなんか自分の心を見るたびにがっくりとうなだれてしまうことが常ですが、なぁに、負けません。