風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

清か

2009年09月08日 | 雑感
「清か(さやか)」という言葉があります。
古語の部類に入るのでしょう。
確か神道の理想の道筋は「明るく楽しく清かに」だったと思います。

ぼくは基本的に正しい道筋というのは必ず「気持ちよさ」を伴っているものだと思っています。
肉欲とか飲酒とかドラッグとかの一時的な快楽ではなく、状況がどうであれ永続する気持ちよさ。
雨が降ろうが、食い物がまずかろうが永続する心地よさ。

肉欲とか飲酒とかドラッグ゛とかは確かに刹那的には「明るく楽しく」なれますが、
決して「清か」にはなれません。
ですから、「明るく楽しく清かに」ということを自分の行動の選択基準にすえると、
たいていは間違いのない行動ができるように思っています。

明るく=前向きに(心の方向性)
楽しく=人々と調和して(心の目的・結果)
清かに=一切の罪悪感から解放されて(心のあり方)

というふうに言い換えてもいいかもしれません。

「明るく楽しく清かに」生きればいいのなら、例外なく誰にでも選べる生き方ではあります。

もともと人の心はそう素直にできているのでしょうが、自分の心を捻じ曲げたり、
捻じ曲げられたりするのが好きだとしか思えない人もかなりいます。
人は単純ではなく、いらぬ苦悩のうちに美を見たり、神聖を求めたりなんかします。
誰も彼もが無駄に文学的なのでしょう。
自ら苦悩を求め、苦悩を作り出し、その解決を夢見てじたばたするというのが、たいていの文学のテーマです。

ぼくが無駄に酒を飲むのも、無駄に文学的であるからだという自覚はあります。
「清かに」なろうとしてなれない自分を予期して、どうせなれないならと自らを「汚す」。
よくある陳腐なパターンです。
このパターンに慣れると大変です。
「どうせおれは○○だから」と自分に閉じこもり、「あいつは○○だから仕方がない」と他人からはラベルを貼られます。
こうなると果てしなく自虐の泥沼にはまり込んでいきます。
「清か」な境地が全く失われていきます。

「明るく楽しく清かに」
それだけのことなんですけどねぇ。
娘なんか当たり前にそれだけのことを思い切り楽しもうとします。
天才的に、その道筋を嗅ぎ分けます。
その道筋をなんだかんだ愚にもつかない理屈を並べて寸断するのが周囲の大人です。

分別というのは厄介です。
分別できなければ愚か者と蔑まされるし、分別が過ぎればひたすら嫌味です。
分別を拡大しきって、無分別の笑顔を浮かべることができれば、初めて幼子と同じ世界を見れるのかもしれません。