風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

目前の行為

2009年09月02日 | 雑感
今朝も快晴、気持ちのよい滝でした。
頭のぐらぐらする感じはだいぶ収まってきました。
心身内に溜まりに溜まった毒素が少しは抜けたのでしょう。
写真は滝の仲間が撮ってくれたものです。

時の流れが恐ろしいほどの勢いで加速している感じですが、流れに流されっぱなしになるのではなく、
しっかりと舵を切りながら、急流に乗るスリルを楽しみ味わって行きたいと思っています。
9月の連休には熊野に行きます。
10月には禅の接心があります。
節目節目も大事ですが、節目と節目の間を大切に生きなければ、せっかくの節目が空疎なものになるでしょう。

時を大切にするということは、目前の行為を大切にするということ以外にありえません。
時をどう大事に過ごすかと考えることほど無駄な行為はありません。
考えというのは、次々と新たな考えを際限なく引き寄せるだけです。
花や果実がほしければ、土を耕し、種を植え、水をまいて、雑草を抜き続けるだけです。
机に頬杖をついて、いくら壮大な農園の設計図や効率的な作業方法を考えても、ただひとつの花も果実も実りません。

土を耕すというのは地味な作業です。
花や果実どころか、緑の色の影もない土くれが広がっているだけです。
そこに勇気を出して最初の鍬を入れます。
黙々と、額に汗をかいて、誰の声援もなく鍬を入れ続けます。
果たしてうまく花や果実が順調に生育するかどうかさえ分かりません。
天候も不安です。
それに加えて、経済的なことやら将来性やら尽きぬ心配も次から次へと頭に浮かびます。

そして祈る思いで、種をまき、水を注ぎます。
地面の中から、かわいらしい青々とした芽が頭を出します。
日照りが続けば、せっかくの新芽が枯れてしまわぬかと心配で、台風が近づけば土ごと流されてしまわぬかと不安になります。
自然の脅威が過ぎ去れば、雑草がはびこり、虫たちが作物を狙い始めます。
来る日も来る日も、心休まることはありません。

そして、秋風が吹き、空の青さが目にしみるころ、一年かけて慈しんだ作物が実ります。
実ったところで、相場の下落やらなんやらの不安定材料は尽きません。
でも、大輪に咲いた花を目にするとき、たわわに実った果実を手にするとき、生きる喜びと感謝に心が満ち溢れます。
そして年が明けると、また地道に土地を耕しに空の下に毎日出かけます。

農業に限らず、人生はすべからくそういう流れをたどるものだとぼくは思います。
例えば、水商売にしても、ゼロからはじめるわけですから、耕すことが新規顧客の開拓であり、
種をまくことがサービスや商品の内容を決めることであり、水を注ぐことがサービスの質を高めることであり、
雑草を引き抜くことが上質・悪質の客の選定であり、収穫が店の評判であり売り上げです。

どれひとつとっても、地道な行為です。
その地道な行為の積み重ねをなくして、花や果実は実りません。
どうせしなければいけない行為ならば、集中して工夫して中身の濃い行為に仕上げていけば、退屈ではなくなります。
退屈ではない行為の瞬間が積み重なれば、充実した人生になり、結果も伴い、幸福感が訪れます。

それだけのことなんですが、ややもすれば簡単に楽にお金を稼ぐ方法というものが、どんな時代にも吹聴されます。
そして、そういう甘い話に飛びつく人もやはりどんな時代にもいるものです。
挙句の果てに、騙されただの、全財産を失ってい待っただの、騒ぎ立てます。

厳しい労働や不安や心配に打ち勝って、作物を実らせた人の心の豊かさに比べると、あまりにも貧しい心根です。
例え経済的な見返りがいかに少なかろうが、作物を実らせたその心の豊かさと誇りは、何にも変えがたいものです。
今時の金融資産家は当然お金で人心を弄しまくりますから、自ら進んでお金の誘惑の罠に飛び込む必要はありません。
まずは、どんな物でもサービスでもいいですから、自分で作物を作ることです。
工夫に工夫を重ねて、いいものを作れば、必ずそれを欲しがる人が出てきます。

こう考えてみると、人間は地球に蒔かれた種なんでしょう。
土壌は荒れ、水は汚染され、雑草がはびこっていますが、人間の種としての強さと作物としての多様性と魅力は無尽蔵ですから、
大きく咲いて、ぷりぷりの果実を宿してやりましょう。