風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

自分勝手

2007年09月28日 | 雑感
再び雑誌「致知」の記事からの話題ですが、ある老歌人のインタビューが載ってます。
インタビューの最後に歌人を目指す若い人に向けてのメッセージを乞われて曰く「勝手にやれ、この一言しかないね」

ぼく好みの答えです。
歌というのは眼前の光景に対する感度と言葉のセンスの問題ですから、
なかなか「教える」というのはできない世界でしょう。

「教える」ことのできるのは、やはり読み・書き・算盤くらいなのかもしれません。
万事、基礎と型を教えることはできますが、その基礎と型に生命を吹き込むのはやはり一人一人の意志と努力にかかっています。
ましてや「生き方」を教えることなどできるはずもありません。
近頃ですと、何かにつけ個性と自由尊重の風潮で、生き方の基礎と型を示すことさえ憚られますから、尚更です。

そもそも大抵の人は勝手にやれと言われずとも勝手にしているものです。
ただ、自分が勝手にしている自覚がない場合が多いですが。
学校や職場に行って大人しくしているから勝手にしていないわけではありません。
勝手に学校や職場に行って大人しくしているだけです。

何が言いたいのかというと、「勝手にする」という自覚と覚悟を持って勝手にしたほうがいろいろな意味で実りが多そうです。
勝手にするのだから、全ての責任は自分にあります。
学校なり職場なりで、どう考え、どう振る舞い、どういう結果を経験するのかは本来全て自分で決めています。
それをだれそれがこう言うからだとか、そうするものと決まっているからだとか、受身で仕方なく時間を費やしますと、
大抵はつまらない日常になりますし、そのつまらなさはだれそれや規則のせいに転嫁することになります。

どんな生きかたをしようと、その生き方の責任を他人が取れるわけがありません。
どうせ自分が責任を取るのなら、取りたい責任を取ればいいわけです。
それを一言で言えば「勝手にする」ということなんだろうと思います。

ただ、責任を取るわけですから、勝手にするを放縦にすると取り違えるとお決まりの悲惨なことになります。
勝手に色々な生き方の基礎と型を学び、勝手に人と関わり、勝手に反省し、勝手に成長する。
勝手を逆手にとって、どんどん吸収するという方が賢明でしょう。

勝手にする達人になれば、自分の人生が自分のものとなるのでしょう。
だから「勝手にやれ」と言われて不貞腐れるようでは、自分からまだまだ依存心がありますと告白するようなものです。
依存心は自らの自由を手放すことにほかなりません。
大いに勝手に生きましょう。
でも、責任は全て自分にあることは忘れずに、ですね。