風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

自在

2006年09月27日 | スピリチュアル
いつの間にかあと数日で行があけます。
煙草はようやく意識から外れました。

水はちょうどいい感じで冷たいです。
しばらく入っているとふっと冷たさが抜けます。
ぬるくても、冷たすぎてもなかなかこうはなりません。

先日の気功のグループの人たちと滝に入った時の写真を、先ほどネネさんが持ってきました。
一枚の写真の真ん中に巨大なオーブがボアンと浮かんでいます。
滝の水と同系色の、ブルーがかった感じのいいオーブです。
荒れた滝場などで良く写るような、禍々しい感じやおどろおどろした感じがまったくしません。
なんか神様系統のオーブのような気がします。

毎朝、起きてまず滝に行って、それから店に出ます。
行に入るにあたって、酒も煙草も同時にやめましたから、最初のうちはたまらなく窮屈に感じます。
滝に行くのも往復で2時間はかかります。
でも、10日もすると、朝起きて滝に行くのも、禁酒禁煙も当たり前になります。
肉を食べないのもなんの苦痛でもなくなります。
そういうものです。
そういうものだと知っておくと、大抵のことは苦痛ではなくなり、怖いものがなくなります。
人は大概のことに慣れることができます。
坐禅を組むとあれほど痛かった足も、今では30分やそこらは平気になりました。

これでなければいけない、ああじゃなければ駄目だ、なんていうのはほとんどが幻想です。
幻想を幻想として楽しむ分にはいいのですが、幻想に縛られて、支配されたら不自由です。
お金があって有効に使って楽しむのはいいのですが、お金がないと不自由だ、不幸だなんぞと思い込むから不自由、不幸になります。

お金がなくても心は自由に動かすことができます。
坐禅だって組めます。
味噌汁とご飯を食べていれば健康だって大丈夫です。
草むしりだってできます。
散歩もできます。
歌だって歌えます。
友達と話もできます。
ほんの少しのお金があれば、人は楽しく暮らせます。

ま、お金に限らず、一事が万事です。
自分の周囲、つまりお金や環境や状況・条件をあーして欲しい、こーして欲しいというのは、エゴイズムです。
自分の都合次第、つまりはわがままです。
わがままをかなえてくれる神仏というのはなかなかいません。
いるとしても、後で大きな代償を要求されてしまうような神仏です。
自由にできるのは、唯一、自分の心です。
自分の思い方、感じ方、考え方を変えることができます。
自分の重い方、感じ方、考え方を変えることができるということは、世界の見え方を自分で好きなようにコントロールできるということです。
自分の幸せだと思う世界を自分で演出し、自分の心のスクリーンに映し出すことができるということです。

基本はそういうことですが、ま、なかなかそう簡単にはいかないのが世の中の常ですが。