風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

面白

2006年09月02日 | スピリチュアル
「俺は大地の果てまで出かけてみた。
 俺は水の枯れ果てるところまで出かけてみた。
 俺は空がおしまいになるところまで出かけてみた。
 俺は山の尽きるところまで出かけてみた。
 そして、俺は自分の友でないものなど、一つも見かけなかった。」

                   ナヴァホ族 伝承歌

好奇心と探究心と平安が見事に溶け合っています。
ネイティヴアメリカンの詩には、例によって、クドクドとしたところが全然ありません。
こういう感じで現実の世界も精神世界も探検して回ったら面白いです。

ちなみに面白いという語源は、思わず顔(面)が輝く(白い)様を言っているのだそうです。
顔を輝かせて世界をエクスプロール(探検)できたら、言うことありません。

山を登り、森を抜け、草原を渡り、海に面する。
その全ての風景に、経験に出会ったときに、顔を輝かせるわけです。
面白くない風景、経験など一つもないと断言するのです。

もちろん、ネイティヴアメリカンの思想の背景には、日本の八百万の神と同じような全てに神霊が宿るという信仰がありますから、
出会うもの全てに神霊を感じ、その神霊を自分に近しきもの=友と呼ぶんですね。

神霊を友と呼べるような生活というのは、自分に後ろめたさ、罪・穢れ、罪悪感などを感じていては不可能です。
すっきりした自分とすっきりした神霊との関係が結ばれるような生活でなければなりません。

ネイティヴアメリカンの見る世界というのは、何処もかしこもすっきりしていたのでしょう。
それはとりもなおさず、世界がすっきりしていたというよりも、それを見るネイティヴアメリカンの心性が
すっきりしていたということにほかなりません。

同じ世界を見ても、苦しい、辛い、嫌だと思うような心性も持ちえるわけです。
そういう心性で世界に立てば、見るもの、経験するものがことごとく苦しい、辛い、嫌な風景・経験になります。
面白い=顔が輝くようなことがなくなります。

「この地上に生まれることは、聖なる委託なのです。
 私たちは聖なる責任をになっています。
 それは、わたしたちが特別な贈り物を受け取ったからであり、
 その贈り物は、植物の生命が受け取った贈り物よりも、
 魚たちや森や鳥たちや、
 そのほか地上に生きる全ての生き物が受け取った贈り物よりも、
 すばらしいものだったからです。
 私たちはだから、
 すべての生き物たちの世話をすることができるのです」

             オードリー・シュナンドア(オノンダーガ族)

こういう神秘は、顔を輝かして(面白く)生きた人に開示されるのでしょう。