風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

心構え

2010年09月15日 | スピリチュアル
どうやら異常な猛暑は収束した感じです。
いよいよ秋風が吹いてくる季節でしょう。
あまり気温が高いと蚊も生きられないそうです。
道理で今年は蚊が少ないと思っていました。
蚊が少なければ、当然トンボの数も減ります。
自然の法則は如実です。

どうやら、みんなで「なんとなく」楽しく生きていくというのが難しくなってきたような気がします。
もちろん、楽しく、仲良く生きていくというのは局面局面で可能なのですが、個々の目指す方向性や、
積み重ねてきた心的傾向性やらが、そのまま如実に現象界に顕れてきているような気がします。

この今、目の前に顕れる現象は、そのまま自分が意図的にせよ、無意識にせよ蓄積した心的世界の結実である、ということでしょうか。
どんな現象が目の前に展開しようとも、それの是非の問題ではありません。
目前に展開する現象をそのままを受け止めて、さぁ何ができるか、が大切なポイントなのでしょう。

今の世相は、見る人の観点からすれば、それこそ各人各様の見え方で映っているでしょう。
今までどおりに見る人、危機感を持って見る人、関心がない人、様々でしょう。
その様々な心のあり方が、その人の心的世界が構築してきた世界の見え方を方向付けているということです。
どういう心構えがよいか悪いかということを議論する時期は過ぎたような気がします。
今までの心構えの思惑通りに展開する現象界との正面対決です。

今ままでのんびり生きてきた人は、のんびりの世界が展開するのでしょうし、焦っていた人には、
せわしない世界が展開するのでしょう。
お金が一番と思えばお金に苦しみ、異性しか眼中になければ異性に苦しみ、楽をしようとすれば楽に苦しむ。
何が苦しみの道かはその人しだいなのですし、何が解脱の道なのかもその人しだいになってきているようです。
誰かの教えにすがることも、教条的な生き方も、どんどん無効になってきている感じです。

「で、本当のところあなたはどう生きたくて、実際のところはどう生きてきて、これからはどう生きたいのですか?」

その問いがすべての人に問いかけられていると思います。
その問いから逃げる場所がなくなってきていると思います。

こういう時節を恩恵とみるのか、はたまた責め苦としてみるのか。
それも自分自身が積み重ねてきた心的傾向性によって判断が分かれるのでしょう。
厳しい時代であるというのは間違いがありません、



計らいと選択

2010年07月05日 | スピリチュアル
店を閉めて、ジムに行ってきました。
その後、立ち飲み屋に行って、ホッピー二杯と煮込みと枝豆でちょうど千円でした。
なんという高度なコストパフォーマンス(笑)
で、今は店に戻って、まったり焼酎の水割りです。

都会型の仕事をしていますと、お金を払って身体を動かします。
それでストレスの発散などと抜かします。
身体を動かすわけでもなく、かといって頭を使うわけでもなく、ひたすらに無駄に神経をすり減らすような仕事が増えている気がします。
神経は本来すり減らすようにはできていません。
神経は健全な道をキャッチするアンテナとして機能すべきなのでしょうが、これでもかと毒電波を浴びせかけられている気がします。

再びアセンションの話です。
大災害やポールシフトやらフォトンベルトといった外部環境の大変動に焦点を当てられがちですが、どうもそれは付帯事項です。
一人ひとりの意識の飛躍、跳躍、アウフヘーベン、なんといってもいいのですが、意識の変容がその本質みたいです。
しかも、誰かが先頭に立って音頭を取り意識を変えていこうというムーブメントではありません。
あくまでも気づいた一人ひとりが意識を変えざるをえなくなるような、そんな宇宙規模のムーブメント。

人の意識というのは、本来宇宙の意識とダイレクトに繋がっています。
それを遮断するのが人の分別心、自我、エゴに基づいたわが身を計らう心です。
わが身を計らうことがいけないのか、いけないはずはありません。
ただ、わが身を計らうという3次元的な次元を超えることはできそうなのが人間です。

わが身を計らわなければ計らわないほど、天の意と供にいられることになります。
「放てば、即ち充る」という言葉があったように思います。

ポイントは、一人ひとりの選択にあるということです。
一人ひとりの想念の偉大さが試されるということです。
わくわくして選択しましょう。
わが身の計らいを超えた選択をするのか、できるのか。
なんにせよ、スリリングな今の時代を楽しみましょう。


夢幻とリアリティ

2010年06月05日 | スピリチュアル
今朝、ベランダから通りを眺めてましたら、中年の女性が二人並んで歩いていましたが、ふとある一軒の家の前で立ち止まり、
軒先に並べている植木鉢を指差してなにやら話し込んでいました。
穏やかな風の吹く気持ちのよい朝で、女性たちは日よけの傘をさしています。

ノスタルジックな既視感に襲われました。
子供の頃、路地の両側の家の軒先には、朝顔やらなんやらの鉢が並べられ、季節の花が咲いていました。
大小の金魚鉢を並べている家もあれば、夏になれば風鈴を吊るす家もありました。
子供ですから、そんな季節の風流には一切興味がなく、路地という路地を、路地裏という路地裏を走り回っていたわけですが、
女性たちの着ている服の流行は違えども、あの子供の頃と今とでは、変わってしまったようで何も変わっていないのかもしれないと、
ふと思いました。

たかだか半世紀ほど生きて、なるほど世の中の生活スタイルやら、電化製品、通信機器などの発達は目まぐるしいものがありますが、
軒先の鉢に目を奪われる時、その心に去来するものは、今でも、昭和でも、あるいは江戸の時代でも、何も変わっていないのではないか。
たまたまその二人の中年女性の傍らを、やはり日傘を差した背筋のピンと伸びた老婦人が通りかかりましたが、
もし彼女がセンスのよい着物を着ていたら、その空間はまるで明治や大正の時代と変わりはありません。

山は新緑に覆われ、渡ってきた小鳥たちがあちらこちらで盛んに鳴き、初夏特有の豊潤な香りのする穏やかな風が吹いています。
時代が流れていきますが、流れているのは自分の心象風景だけなのかもしれません。
日は昇り、日は沈み、雨が降り、風が吹き、木の葉が茂り、木の葉が散ります。
そんな大地の間で、人々が文明という砂上の楼閣を建てては、なすすべもなく崩れていく、という夢を見ているだけなのかもしれません。

金や名誉の世俗にリアリティを求めたら、酷薄な日々になるでしょう。
自分の夢想にリアリティを求めたら、冬眠している亀のような日々になるでしょう。
自分が生きるというリアリティをどこに求めたらいいのでしょうか。

求めるということをやめること。
自分の外側には求めるものなどない。
自分の内側にも求めるものなどない。
外側も内側もない。
では、なにがあるのか。
そこからが禅の世界になるわけです。

夢幻の世界で、儚く明滅するだけの人の命が、どうやって絶対無限の生命と直に繋がるのか。
「自分」というものさえ幻ならば、なにを主体として打ち立てて、どんな世界に切り込んでいくのか。
いかなる思考も感情も無意味ならば、なにを感じればいいのか。
疑念はこうして際限なく湧き起こります。

そういう疑念やらなんやらに一切頓着なく、道場では黙々と居士たちが坐るわけです。
今日から接心です。
今から道場に行ってきます。



美学と明快さ

2010年06月04日 | スピリチュアル
今日は所要で自転車であちこちを走り回ったわけですが、いよいよ暑さが到来した感じでした。
さすがに朝晩はまだ涼しいみたいですが、昼間は冷房が必要となるでしょう。

先日体重計に乗ってみたら、4キロも減っていました。
決算で無理したのと、風邪を引いたのが重なったせいでしょう。
でも、どういうわけか気力は萎えていませんでした。
頭がくらくらしたり、目がしょぼしょぼしたりしていましたが、へこたれる気にならないから不思議です。
昨日は朝は滝に行き、夜は坐禅道場に行きました。
もともと無理をするということを一切しないタチなのですが、今回の決算で意識的に鍛えたおかげかもしれません。
ただ、些細なことにやたらイライラしてしまいました。
イライラを抑えようと思えば、さらにイライラが募るような感じでした。
昨日滝に打たれながら、自分の精神的視野が狭まっているせいだと反省しつつ、願わくば豊かな慈悲の心に置き換わるよう、念じました。
坐禅を組みながら、自分の心の中のざわつきは、自分の想像世界中に拵えたネガティブな対象のエコーであることを確認しました。

心身ともに疲れると、視野が狭まります。
中途半端に視野が狭まると、なまじっか他人の所作も目に入りますから、イライラが募り、さらに疲れるという循環になります。
さらにさらに疲れ果て、視野が点のようになりますと、自分の心の動きも他人の所作も目に入らなくなります。
その場その時その思いだけになります。
修験道や密教などで心身ともに極限まで追い込むと、そういう日常の意識を超えた時空を超えた時空と遭遇することになるのでしょう。

何ごとも、中途半端という状態が一番厄介なものです。
自分自身を追い込むなら追い込みきって、もうこれ以上何もないという時に至らないと、新たな道筋というものは見えてきません。
中途半端に追い込むくらいなら、最初から追い込まないほうがずっと健全で、開放的でいられます。

自然界でもいたるところにそのあたりの明快さというか、厳しさというか、シンプルさの象徴に満ちています。
若い健全なオスのライオンは群れのリーダーを目指します。
リーダーにならなければメスとの交際も、餌の一番美味しいところを食べる権利もないわけですから、そりゃもう必死です。
ライオンのオスと生まれた以上、その熾烈な戦いに加わらないわけにはいかないわけです。
体力の弱いものは初期の段階で脱落していくのでしょうが、体力のある同士でなにが勝敗を決するのかといえば、おそらくは執念です。
執念というと聞こえが悪いですが、決してあきらめない心と言い換えればいいかもしれません。
ライオンだって、おそらくは兄弟や仲間であったライオン同士で、オスだからという理由だけで、何も闘いたくはないのだと思います。
でも、そういう生存システムだからこそ厳しい環境の中を生き抜いてこられた。
だからなにが何でもそのシステムの中で生き抜いてやる。
システム自身が抱えた矛盾やら、不合理やら悲嘆やらはハイエナに食わせろ。
おれはこのシステムの中で生き抜いてやる。
おそらくそういうのが、オスのライオンの理屈というか、美学なんだと思います。

もちろん、人はそういう野生の苛烈な生存システムを生きなければならない段階は超えることができたのでしょう。
すべての男性と女性が平等の理念の下に、差別のない、豊かな世界を作る。
少なくとも法律的には、どんどんそれが可能になっているはずです。
で、そういう法律的には整備のできたこの今が差別のない、豊かな世界なんでしょうか。

差別がないほうがいいの決まっていますが、「いい」というときの「いい」の中身の問題です。
システムとして「いい」のか。
あるいは、「美学」としていいのか。
システムとして「いい」というのは、はなから論理的破綻しています。
経済的な意味に限らず、あらゆる意味において勝ち組になろうとする人間がいる限り、負け組みを発生させるからです。
それでは、美学として、差別がないのが「いい」のか。
これも明らかに論理の破綻をします。
美学というのは、何かを選択し、何かを選択しないという心的態度によって立つ論理体系です。
美学という以上、何かを差別することが前提です。

ようするに、近世以降に流布する耳障りのよいスローガンには人を思考停止させる罠がたくさん含まれています。
人権、平等、自由、経済、資本、・・・。
人権という言葉を知らない人たちは、人の生き方に対して無理解・不寛容だったのか?
平等という観念を知らない人たちは、どうやってかくも豊かな中世の共同体を創り上げたのか?
自由という言葉をことさらに唱えなかった人たちは、精神の自由においてどれだけ不自由だったというのか?

で、逆に問えば、自ずから分かるというものです。
現代人は、他人の行き方に対して、理解があり、寛容か?
現代人は、豊かな共同体を作っているか?
現代人は、精神的に自由であるか?

えてして、答えというのは明快さにあります。
今という時代に生きるとき、明快に答えることがますます出来なくなるというのが実感です。

ちょっと収拾がつかなくなりました。
明晩から接心です。
楽しみとか何とかいう気持ちはありません。
たんたんと登りたい道が雲の上まで続いているだけです。

尽きる

2010年05月07日 | スピリチュアル
前回のブログの記事の訂正です。
「踊るカルマ」ではなく、「カルマは踊る」でした。
しかも、「カルマは踊る」と「魂との会話」は同じ本を翻訳したものでした。
翻訳者が違うために、読んだ印象にかなりの開きがあり、前者はやや硬く、後者はこなれていました。
それに加えて、前者は2003年出版の本ですから、もう20年近く前の本です。
そのとき読んだときとは、僕自身もずいぶん変わっているのでしょう。
最後まで同じ本だとは気がつきませんでした。
それにしても「カルマは踊る」と「魂との会話」というタイトルの二冊の本が誰が一体同じ本だと思うでしょう(笑)

ところで、今朝、うちの店の裏に住んでいる猫の正体を先日ちらりと見ることができました。
灰色と白の斑の一歳未満であろう子猫でした。
餌を取り替えようとしたぼくの足元をさっと通り過ぎて行きました。
あっという間にいなくなりましたが、挨拶の仁義を切ったのだと思います。
何も心配要らないからおいでと言っても、決してこちらに近づいてくることはないでしょう。
こちらが餌を与えられるだけ与えている限り、元気でいてくれればそれだけで嬉しいです。
わずかな時間でも共に生きていけれれば、それだけで嬉しいいです。

人生いろいろあります。
ぼくだっていろいろあります。
辛いこと、苦しいこと、悔しいこと、腹が立つこと、そういう類の思いはそう思えばきりがなく立ち現れてきます。
誰かや何かのせいにすればその苦悩はエンドレスに自分の心を蝕みます。
誰かや何がその苦悩の原因ならば、誰かや何かがこの世から去るしか、消えるしか原因がなくなることはありません。
誰が悪い、これが悪い、あのタイミングが悪い。
そういうきりのない反射的情動にぼくは興味がありません。

その一方で、すべては自分の心が「(苦しいと)思う」ということが苦悩の原因であるという考え方があります。
自分の心こそが楽しいだの苦しいだのをいちいち分別している。
その分別心が、自分の心を分別し、追い込む。
自分の心こそが苦しい。

それに比べて、どんな状況であろうとも、苦しいとも思わず、ことさら楽しいとも思わない。
自分が「~と思う」ということにまったく信頼を置かない選択もありえます。
どう思うのではなく、どう行為するのかという先鋭化した意識の元で生きる行き方。

それが実体だと思わなければ、実体がどこにもないことを、あれこれ思っては、結局人のせいや、状況のせいにするのが、
自分の心が「思う」という状態を正当化する実態です。
あなたの思いが、あなたの現実を作っているということです。

何を言っているのか分かりませんね。
思いは思いでいいのですが、なにを思っているのかに責任を持つスタンスというのが、成熟した人間のあり方なのでしょう。
人ができるのは、何を「思う」のか、何を「思える」のかということに、結局は尽きます。


ゲーリー・ズーカフ

2010年04月28日 | スピリチュアル
15,6年前だかに、ゲーリー・ズーカフの「踊るカルマ」という本を読んだことがあります。
内容はとても示唆に富んでいて、鋭く印象に残る本でしたので、ゲーリー・ズーカフという作者の名はずっと記憶に残っていました。
で、先日たまたま書店でゲーリー・ズーカフの名前を刻した本を見つけましたので、迷わず買い求めました。
書名は「魂との対話」です。

題名は日本の出版社側がベストセラーである「神との対話」の二匹目のドジョウを狙ったのでしょうが、完全に逆効果でしょう。
原題は「The Seat Of The Soul」、「魂の座」がその素直な訳でしょう。
アメリカでは300万部以上売れたらしいですが、日本でまったく無名なのはこういう小賢しい日本の出版社の戦略ミスもある気がします。
抜粋したい箇所があまりにもたくさんある本ですが、ご興味のある方はご一読してみてください。

今日までに3分の2ほど読んだところですが、元はハーバードの物理学者だったらしく、簡明で、直裁で、曖昧さがありません。
なにかの霊的インスピレーションを受けた経験はあるのでしょうが、そんな経験には一言も触れません。
霊的な経験などどうでもいいことなのです。
その霊的な経験が指し示す「なにか」が大事なだけです。
ただひたすら自分が受けたインスピレーションに基づく、人の心と魂と「大いなるもの」との関係性を解き明かそうとします。
否、解き明かそうとすらしていません。
その人の心と魂と「大いなるもの(という言葉は著者は使っていませんが)」との関係性を大前提として、話は明快に進められていきます。

要は、生命の進化とは何か、人の個性(パーソナリティ)の持つ意味とは何か、個と全体の関係性は何か、
魂とパーソナリティの関係性とは何か、というまともな論理的な思考ではとても結論が出ないような分野の問題を、
見事な腕前でスパリスパリと一刀両断にしていきます。
文章全体に清々しさが宿っています。

ちょうど今開いたページで目に付いた文章です。
「私たちのより深い理解、内なる理解は、別の種類のパワー、すなわち、この世に存在するいかなる形の生命をも愛するパワー、
 自分が出会ういかなる人間をも裁かないパワー、そして、どんなに小さな生命あるいは物事の中にも意義と目的をみいだす
 パワーへと、(宇宙は)私たちを導いていく」

金銭欲、支配欲、名誉欲、キリがないそういう自分の外側向かう欲に振り回されている限り、そのようなパワーとは切り離されてしまう。
魂の意図を知り、パーソナリティの意図を知り、さらには「大いなるもの」と合流する喜びに勝るものはない。
そんな感じの話です。
そんな感じの話なのですが、恐ろしく理知的で、無駄がなく、的確です。

クリシュナムルティもそうなのですが、己の思考や心の動きを完膚なきまでに観察して、コントロールすること。
自分の心さえコントロールする力を得れば、人は完全に自由になれるということ。
そして、そういう人の心の自由への解放は、霊的世界にもあるいは神的世界にも波及し、全世界にその喜びの波動が広がるものであるということ。

すべては、一人ひとりの心のなかに答えはあります。
自分の心を際限のない葛藤の戦場とするのか。
雲が流れ、花が咲き、鳥が鳴く楽園にするのか。
一人ひとりの心がなにを「意図」するかにかかっている、とこの本は言っています。



クリシュナムルティ

2010年04月27日 | スピリチュアル
クリシュナムルティという宗教家がいます。
あらゆる組織宗教、権威、ドグマなどからの離脱を繰り返し説いた人です。
そういう現実的な制度なり伝統なり規範なりの枠組みを否定する一方、「思考する」という枠組み自体をも徹底的に疑えと説きました。

「我々の思考は、好きなものを何でも投影することができる。思考は神を創造することも、否定することもできる。
 人は誰もが、自分の傾向、快楽や苦痛しだいで、神を発明することも破壊することもできる。したがって、
 思考が活動し、組み立てたり発明したりしているうちは、時間を越えたものが発見することは決してありえない。
 神あるいは真実在は、考えることをやめたときに初めて見出される」

人々が「神」という言葉を使うとき、キリスト教徒ならキリスト教で培われた神のシンポルやイメージで神を「創り」ます。
ユダヤ教徒はユダヤ教徒の、イスラム教徒はイスラム教徒の神を「創り」ます。
そうして創り上げられた「神」は、「神」という言葉に過ぎず、同じ信者同士で共有される幻想であって、「神」そのものではない。
「神」という勝手に創り上げられたイメージなり幻想なりは、それを信じる人々のマインドの中にあるだけであって、
それを信じない人々にとっては、児戯に似た茶番にしか見えない。
そこでクリシュナムルティは、人々とその幻想を共有する意図がないことをはっきりと示すために、「神」という言葉を使うことを拒絶します。

その代わりに使う彼の言葉は、「最愛なるもの」とか「生命」とかいう言葉を使います。
その言葉を禅の「本来の面目」という言葉に置き換えても、そっくりそのまま意味が通るような気がします。

「精神が空で静かなとき、完全な無の状態にあるとき、空白ではなく、実在の対極でもなく、すべての思考が消滅し
 まったく普通とは異なる状態にあるとき、そのようなときにのみ、名状しがたいもの、すなわち未知のものが
 姿を現すことができる」

要するに、人々は自分の傾向や志向に基づいた「思考」の産物であるイメージやシンボルや名称・言葉にとらわれている限り、
「未知のもの」=生命そのものに出会うことは決してないということを、彼はなんども繰り返し主張しています。

「精神が空で静かなとき、完全な無の状態にあるとき」という状態は、言うまでもなく思索の果てに訪れる状態ではありません。
思索を放棄したときに、しつこく追いかけ来る思索の手から逃れたときに、訪れる境地ではありましょう。
まったく禅の追求する境地と同じような気がします。

クリシュナムルティは、人々を教え導くという存在としての「グル」を否定します。
グルは、その依存者に「言葉」を与え、言葉による「思考」を巡らさせ、本来なら思考を断絶したときに訪れる
「未知のもの」との邂逅をかえって妨げてしまう。
グルの「言葉」が、信者の思考のうちにシンボルやらイメージを植え付けてしまい、いかなるシンボルやらイメージからも
自由であるべき「未知のもの」の姿を見逃してしまうことになる。

今評判の村上春樹の「1Q84」ですが、朝日新聞のインタビューに答えた言葉です。
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。-中略ーオウム真理教は
 極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」

クリシュナムルティは、まさにその精神の囲い込みから自由になれと語り続けた人のような気がします。

ただ、人は自分で思っている以上に、自ら好んで精神の囲い込みの中に入りたがるものです。
そのほうが安全で、豊かな生活を送ることができると、物心ついて以来さんざんに吹聴されて生きるからです。

クリシュナムルティの一貫した主張は今でも大変有効で示唆に富んだ提言であるような気がします。
 

無常

2010年04月19日 | スピリチュアル
昨日は早朝から滝行でしたが、前夜に道場で三時過ぎまで飲んでいたので、きつかったです。
滝に入り終わった後、どういうわけかジワジワとアルコールが再び身体を巡り始めました。
みなが堂々とびしっと滝に入る中、ぼくだけが中途半端な意識で、中途半端に水に打たれました。
こうなるとせっかくの滝行も時間の無駄です。
何ごとも限度というものがあります。
酒場にいっても意識を失い、道場でも意識を失っているのでは、話になりません。
ちょっと意識をシフトする必要があります。
このままでは心身ともに朽ちます。

皆さんもそうだろうと思いますが、ぼくの場合、人生の節目にドカドカと新しい境地を開いてくれるような本が舞い込みます。
いちいちその本の題名を挙げることはしませんが、必要とする智慧が必要とするときに目の前に現れる感じです。
ただ、智慧というのは理性で処理してしまっては、黒板に書いた文字と同じです。
どんなに重要と思われたことでも、次の授業の開始とともにその文字列は丸ごと誰かに消されるだけです。

読んで腑に落ちた智慧は、やはり一つ一つ自分の生きるうえでの智慧として血肉化していけたら歩む速度が速まるでしょう。
血肉化するためには、なんといっても素直さがすべてです。
なにに対しても疑い持たないという素直さではなくて、あえて委ねることのできる素直さです。
委ねるためには、どうなってもその責任を自分が負おうという覚悟がいります。
何かを、誰かを頼りにするのではありません。
すべての起こりえる状況を自分が引き受けるという意味での、委ねるです。

なにを委ねるのか?
自分の人生の運行をです。
何に?
天に、自然の摂理に、です。
天、または自然の摂理とは何か?
あなたが生きている理由です。
意味が分かりませんが?
分かりたいですか?
さぁ、どうでしょうか。あなたはその理由と意味を知っているのですか?
さぁ、どうでしょうか。

果てしのない問いがあります。
果てしのない答えがあります。
それでも雲が流れ、風が吹き、地に花は咲き、人は憂い悲しみ喜びます。
なにもかもが流れていく風景を思い知ったときに、人は無常が人の住む世であることを知ります。
無常の中に永遠を見出すのか。
無常の中に虚無を見出すのか。
すべてはその人しだいです。


悪霊

2010年04月14日 | スピリチュアル
悪霊という厄介な問題があります。
ドフトエフスキーはそのままズバリ「悪霊」という小説で100年も前に急進的共産主義者の悪魔的な行動を鋭く描きましたが、
はたして今、「悪霊」という言葉はほとんどそのリアリティを失っているんだろうと思います。

キリストも荒野で「悪霊」の誘惑を退け、仏陀も「魔」の誘惑を退けます。

悪霊とか、魔というのは実在なのか、という問いがあります。
断言しますが、そんなものは「無」です。
でも、人の想念はいともたやすく「悪霊」とか「魔」とかを実在せしめます。

その存在を信じる人間には、「悪霊」も「魔」もとてもリアルなものになります。
人の心は在ると思うものに容易に支配されます。

お互いに助け合い、すべてが幸福の微笑で満ちている世界を思い描くのが人間なら、
騙しあい、憎しみあい、妬みあう世界を思い描くのも人間です。

その人が思い描くような世界が現前するのが、この世の仕組みです。
ビジネスマンはビジネスマンの世界を見ているわけだし、漁師は漁師の世界を見、牧師は牧師の世界を見ています。

アルプスの少女ハイジの世界も本当なら、ロッテンマイヤーさんの世界も嘘ではないのです。

本当のことを自分の外に探すと、まがい物やら何やらにだまされます。
自分の心の指し示すところに従う心が確立してさえいれば、まぁ大丈夫でしょう。
その心さえ見失ってしまっていれば、もうなにに従っているのか、従っていいのか、どうなのかも分からなくなるのでしょう。
心というのは厄介です。
主人になったり、被害者になったり、どこにも責任を持ちません。
その心の隙に忍びよるのが、「悪霊」であり、「魔」です。

悪霊の喜びというのは、外部から働きかけてその人を破滅させることではありません。
そんな単純なことは、悪霊のプライドが許しません。
あくまでもその人がその人の意志で自ら破滅することを選んだ(選ばせた)ときに、悪霊の最大の喜びとなります。
このような存在が「反キリスト」といわれる存在です。

で、今の世相を眺めるとき、わが子を虐待し、自分の保身が優先し、道徳や秩序というものを軽んじ、
夢を挫き、希望を挫き、正義を挫く風潮が個人の自由の名の下に蔓延しています。
そういう風潮を止める手立てがありません。
今の日本の風潮は、悪霊にはとても生息しやすい環境になってしまいました。

例えば、子供に我慢を教えようとする。
子供からなぜ我慢しなければいけないのかと問われたときに、きちんと説明できずに親は困惑する。
逆に、もっと子供には自由にさせたほうがいいのかもしれないな、などとも考える。
一事が万事こんなふうです。
教育から軸が失われたのです。
ダメなものはダメだというのは、頑固な間抜け親父のタワゴトになってしまいました。
軸がない教育を教育と呼ぶこと自体がナンセンスなのですが、今の教育の軸自体を問う議論は低調です。
生きるうえでなにが軸なのかを考え、いかにそれを深めていくのかを考えるのが唯一の教育の意味ではないかと、ぼくなどは思います。

教育とは何かということを語ろうと思えば、ややこしく大変なので飛ばしますが、要は、己の歩む道がどこに続いているのかを、
どんな環境であろうが、育ちであろうが、今自分の責任で自分の方向性をはっきりと知っておく必要があるような気が強くします。

なにはともあれ、「悪霊」とか「魔」とかいうものは、その入り口では甘言だけを囁きます。
その人の人生が大事だから、ではないのです。
その人の人格が大切なわけでもないのです。
なんであれ、その地獄の入り口に誘い、入り口に入れさえすれば、あとはその扉は閉ざされます。
人それぞれの魂という餌を食らいたいだけなのです。

こういうことを語ろうとすると、とても大変です。
でも、感じる人は感じてください。
誰が正しいか間違っているかということではぜんぜんありません。
己のむ道に「喜び」があるかないかです。
サタンの狡猾さに応戦してはなりません。
応戦してもたぶん絶対に敵いません。
「喜び」だけにはにサタンは干渉できません。
喜び多き人生を歩むことです。


福岡禅会Ⅱ

2010年04月12日 | スピリチュアル
昨日は福岡での参禅会と講演会が無事に終了しました。
わずか二回目の接心でQちゃんは見性し、講演会も思った以上に人が集まってくれました。
http://katamich.exblog.jp/13138948/

前にも言ったとおり、福岡にはわが禅の会の支部がありません。
ですから、去年から始まった福岡での参禅会の準備その他は、全部わが道場の団員が取り仕切りることになります。
ところが、若い者は仕事を持っているのでなかなか手助けすることができず、還暦をとうに過ぎた老先輩がなにからなにまで準備しています。
一般の民家をお借りしてしていますから、参禅会のたびに何十人分の布団やら座布団やら食器やら、仏具や茶器やら、トラックで運び込みます。
その負担は参禅会の度に毎回引越しをしているようなもので、なかなか大変なものがあります。
どうしても福岡の団員を増やして、福岡に支部の母体を作り、福岡の人間の手で福岡の禅会が隆盛することがわが支部の念願です。

見性をした立場から言いますと、生きていて見性という体験をしないのはもったいなくて仕方がありません。
以下は、Qちゃんがブログに引用していたウィキの解説を丸ごと引用します。
 
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一般に禅宗は知識ではなく、悟りを重んじる。禅宗における悟りとは、生きるもの全てが本来持っている本性である仏性に気付くことを言う。
このため、唐代の祖師たちは苦闘を重ねながら悟ってきたのである。しかし宋代以降、悟りを得るための多くの技法が考案されてきた。
坐禅(瞑想とは異なる)、公案(知的な理解を超えた話を理解すること)、読経(お教を読むこと)、作務(普段の作業)などの修行を
既に悟りを得た禅師の元ですることで、悟りが得られるようにメソッド化されてきた。悟りは、ロウソクの火が、消えているロウソクに
伝わるように(伝灯)、師から弟子へと伝わるとされる。それは言葉(ロゴス)による伝達ではない。それゆえに正しい禅師を選ぶことが
肝心とされる。それは悟りを得ている事だけではなく、自分の個性に適合している禅師を選ぶという意味もある。しかしながら、
悟りを得た禅師が指導して悟らせるのではない。師を持たずに悟りを得たゴータマ・シッダッタ(仏陀、釈尊)を持ち出すまでもなく、
唐代の祖師たちは、師匠から教わって悟ったのではないのである。悟りを言葉により定義することは出来ないが、言葉を始めとしていろいろな
方法で悟りの境地を表現することはできる。そのため特に日本に伝わった後、詩や絵画を始めとした芸術的な表現の上に悟りが表現されており、
その香りを味わうことができる。芸術以外にも、茶の湯や生け花を始めとした振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、
悟りの世界を味わうという手段も生まれている。
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損得打算、心配不安であくせく心を動かす生活から、同じ日常でもその瞬間瞬間の「香りを味わう」生活に軸足を移していく。
別にそういう境地を目指すのではないのですが、そういうふうに自然に心が解き放たれていく。
禅では何かを目指すということはしません。
悟ろうという意識も邪魔になるだけです。
「今、ここ」という言葉はよく言われますが、その言葉を念仏のように称えたところで、「今、ここ」は掴めません。
あらゆる言葉を離れ、理屈を離れ、思惑を離れたときに、「今、ここ」が目の前に現れます。
つまるところ、坐禅で坐るというのは、あらゆる言葉を離れ、理屈を離れ、思惑を離れる訓練です。
坐るということになりきれば、あらゆる苦悩の元である損得勘定や、好き嫌いや、是非の判断やら、なんやらかんやらから離脱します。
離脱しきったときに目の前に広がる風景、それを無とか見性とか悟りとかいうものと言ってもいいかもしれません。

Qちゃんも言っているとおり、見性はいかなる意味においても神秘体験ではありません。
当たり前のことを当たり前に見えるようになることだといってもいいかもしれません。
当たり前を当たり前と感じることができれば、自然の摂理に直に繋がります。
雨が降れば雨を楽しみ、雪が降れば雪を楽しみ、暑ければ暑いままにふうふう言います。
悲しければ悲しみ、嬉しければ笑います。
どこにも心が滞らなくなります。
修業が進み、見性のレベルが拡大し深まり極ったところに、「山川草木悉有仏性(存在するすべてに仏性が宿っている)」という、
究極の世界が広がっています。
その究極の世界の広がりに身を置いたときに、この世は即、極楽、涅槃となります。
世界が広がり深まるのではありません。
同じ娑婆世界にいながら、心が無限に広がり深まるのです。

まぁ、こういう話はキリがないので、興味のある方は是非禅の門を叩いてください。
正統な師家につくことがとてもとても大切な要件になりますが。




福岡禅会

2010年04月05日 | スピリチュアル
昨日は道場での花祭りをかねた花見でした。
花祭りはお釈迦様の四月八日の誕生日を祝ったお祭りです。
天と地を指差したお釈迦様の像に甘茶を掛けてその恩徳に感謝します。
お釈迦様の周囲には花びらをびっしりと敷き詰めていました。
菜の花の黄色がとても鮮やかでした。

空は快晴で、とても気持ちのよい風が吹いていました。
道場の敷地内にある小高い丘に敷物を敷いて、めいめいが用意した料理を肴に宴会です。
例によって、最後のほうの記憶はありません。
気がついたときには、店の事務所で寝ていました。

今週末から、福岡で3日間の参禅会があります。
北九州や熊本には立派な支部があるのですが、どういうわけか福岡には支部がありませんでした。
総裁老師の肝いりで、福岡の禅会を興隆させるべく、団員一動がんばらないといけません。
11日の3時から、アクロスで総裁老師の講演と、数息観(呼吸法)のレクチャーがあります。
坐禅は、心を整え、身体を整え、息を整えて、初めて三昧に入ります。
息の整え方が、初心のうちはよく要領が飲み込めないものです。
興味のある方は、ぜひご参加ください。
受講料は無料です。

参禅会の初日には、三名の入団式があります。
そのうちの二名は、ぼくが道場に誘って連れて行った人です。
だれでもかれでも入団が許されるわけではありません。
最初の関門を透過(いわゆる見性)した者に入団が許されます。
見性とはなにかを語ることは許されてもいないし、語ることもできませんが、とにかく一生消えることのないある核心を持ちます。
誰がなんといおうが、決して消えることのない光が胸に灯ります。
その光を抱いて、死ぬまで修行が続くわけですが、闇雲な修業とはぜんぜん別物になります。
修業の進展の度合いに係わらず、その光だけは輝き続けるからです。

今度その三名がその光を胸に宿したわけです。
これはとても嬉しいことです。
ぼくはいつも思うのですが、一人の人間の周囲には、50~200人の人間がいるはずです。
一人の人間が輝けば、周囲の50人から200人の人間がその光を感じるはずです。
そうして光の連鎖が始まれば、世の中が変わるということもさほど難しいことではないように思えてきます。

もちろん禅では「光を宿す」というような神秘めいた物言いはしません。
自分で自性というものをはっきりくっきり見るだけです。
雲が吹き払われて月が姿を現すように、勘違いやら思い込みの雲が吹き払われて、自分というものの姿をきっぱりと見ます。
こんな経験は、日常生活においては滅多にできるものではありません。
興味のある方はぜひともチャレンジして欲しいものです。
本格的な禅の修行が、数百円とか千円のレベルの出費で体験できます。

仕事を持った在家の人が対象ですから、夜だけの出席、あるいは早朝だけの出席でもかまいません。
坐禅の姿は、要するに仏様の姿になることです。
仏様の姿になって、仏様のような心に落ち着き、仏様のような呼吸をすることです。
この濁世でへとへとに疲れ果てるのも生き方ですが、心と静まり返った道場で、仏様の姿になりきるのも一興ですよ。

示す

2010年03月26日 | スピリチュアル
陽光は眩しいのに、風が冷たい一日でした。
終日10度を切っていたようです。

どういうわけか、日月神示とかアセンションとか、そういう話に対する興味がぷつんと切れてしまいました。
その類の本を開けば今でもなるほどと思うのですが、どうなろうともこの「今」をどう生ききるかでしかありません。
それは、以前にも紹介した「伊勢白山道」のリーマンさんとも同調している気がします。
僕が紹介したと言うのもおこがましいですね、彼のブログは精神世界の分野でダントツにトップを独走していますから。

ぼくも伊勢白山道式の先祖供養は毎日しています。
しなければいけないという意識ではなく、したら気持ちがいいから続けています。
何人かの知り合いにもそのやり方を紹介しました。
いちいち手書きでそのやり方を書いて渡していたのですが、ある親切な方がそれをワープロで清書して、コピーしてくれました。
リーマンさんのブログに飛べば、話は簡単なのですが、そこはいろいろと「ご縁」というものがあるのでしょう。
ぼくがいいと思うことは、ぼくが紹介するまでです。
こういう世界のことは、あれこれ言えばいうほど警戒心を生みやすいものでもあります。
そういう入り口を探している方には、そういう入り口があるということだけを、教えることができるだけです。

昨夜も禅道場に行きました。
禅では、過去に対するわだかまりも未来に対する不安も、一切取り合いません。
普段の日常に人がどっぷりと浸かっている妄想、分別、執着を否定しますから、純一の絶対的今を掴むという修業です。
禅から言わせれば、おそらくどんな哲学も倫理学も社会学も、妄想、分別、執着の類です。
この今の「いのち」にこだわりぬきます。
この今の、そのままに「活きたいのち」にこだわります。

こうなればいい、ああすればよかったなどという戯言には一切かかわりません。
今この瞬間のお前を出してみろと迫られます。
なかなかスリリングです。
嘘のつきようがありません。

そうすると、未来に対する不安というものなんかに対しては、覚めた興味はありますが、その不安に巻き込まれることはありません。
過去にどんなに縛られようが、未来にどんなに恐れを抱こうが、すべきことは今、この瞬間の自分の行為です。

こうしてぼくはブログを書いているわけです。
これを読んで、誰かがせせら笑おうが、腹を立てようが、それはそれで仕方がないことです。
ぼくの選んだ選択ではなく、そう感じることを選択したそれぞれの読者のそれぞれの「生きる」という姿です。
ぼくはぼくの「生きる」という姿をそのままに示すだけです。
「生きる」姿そのものに、いいも悪いもありません。
池に飛び込むカエルと、夕焼け空をすいすい飛ぶトンボと、どちらがいいも悪いもありません。

生きるということは、その姿を世界に示すことです。
なかなか勇気がいることですが、示さなければいけないのなら、できうれば、堂々と示したいものです。


選択

2010年03月12日 | スピリチュアル
この世にはあると思えばあるし、ないと思えばないものが多いです。
愛、信頼、信念、友情、真理などから、幽霊、悪霊から、ギリシア神話の神々、古事記の神々まで、キリがありません。
あると思って生きることもできるし、ないと思って生きることもできるということです。
どちらが良いことでも正しいことでもありません。
あると思うのか、ないと思うのか、その選択があるだけです。
あるともないとも決めないという選択もあります。
選択肢は無限ですが、選択した一つの結果を受け入れなければならないのが、この世のルールです。

永遠の愛を信じれば、裏切られましょうし、悪霊を信じれば、常に怯えて暮らすことになるでしょう。
神や仏を信じられれば安心かもしれませんが、自分という存在のアイデンティティが揺らぐかもしれません。
かと言って、何ものをも信じられなければ、自分の存在する意味さえ見失われていきます。
何かを信じるのも信じないのも、自分の一生涯をかけた真剣勝負にならざるを得ません。

何かを信じようが信じまいが、それは個々の重い選択であることには変わりがありません。
誰にもその選択の結果を尻拭いしてあげることはできません。
どんな方向を選択し、どんな結果を身に受けようとも、その結果を堂々と受けきるだけしかできません。

個々の選択ですから、世の中に流布する言説を参考にするのは結構なのですが、鵜呑みにすると後悔します。
あくまでも自分の心の奥から湧き起こる声に耳を澄ます必要があります。
心が乱れていると、ますますその声が聞こえなくなりますから、要注意です。

こうすれば誰でも上手くいく道などというのは、理論上はありえても、現実の人間の選択としてはありえないような気がします。
迷い悩むというのも大切な選択肢です。
逆に言えば、もうこれ以上ないというところまで、迷い悩んだらいいじゃないかと思ったりもします。
本当に進退窮まったときにこそ、ああでもないこうでもないというレベルの心の騒音が消え、
これしかないという選択肢が現れるような気がします。

どんな選択にせよ、その選択をするのは自分の心です。
その心が歪んでいたり、ひねくれていたりすると、正常な選択を出来なくなるのは自明の理です。

仏教に「直心是道場」という言葉があります。
自分の究極のところの素直な心こそが、選ぶべき道を選んでいく場なのだ、という意味なんだと思います。

選択肢は無限です。
無限の選択肢の中から、これだと確信を持って一つの道を選べたら、心の絶えざる妄念は消えるでしょう。
誰かや何かに選ばされるのではなく、自分が選ぶことができたら、生きるということは自由自在の境地に昇華します。
それには、日々のささやかな行いの中で、何を選択していくかということになります。
人がこの世で与えられている選択肢というのは、日常の中にしかありませんから。

日常を選択の宝庫と見るか、灰色の牢獄と見るか。
まずその選択から始めなければいけないのかもしれません。


コア

2010年02月19日 | スピリチュアル
昨夜は禅道場に泊まり、暗いうちから坐って、店に出るため道場を出ますと、雪が舞い落ちていました。
なかなか風情がありました。
ひたすら寒くて、暗くて、足の痛い、ちっとも楽しくなさそうな禅の修業ですが、心に何を宿すかは全くの自由です。
修業が進んで、境地が深まれば、大宇宙全体と一つにもなれるみたいです。
そんな時がくれば、そんな時、というだけの話なのですが。
そんな時も、こんな時も、あんな時も、いずれ劣らぬ晴れ舞台、です。

道場には80前後の老先輩居士が何人かおられます。
みな、枯淡の中にも無邪気さと強靭さを併せ持ったいい顔をしておられます。
同じ年頃の集団だけで禅の修業をすれば、下手に競争意識やらなんやら余計なものがたくさんくっついてきそうですが、
そういう老先輩の静かななまなざしが道場に注がれているというのは、とてもいいことのように思われます。

何でもいいといいながら、何でもよくないのが禅です。
その頃合やら、調和のバランスを体得していくのが禅といってもいいかもしれません。

禅の世界に限らず、どの世界でも、やはり一番尊い資質は「素直さ」なんだと思います。
素直になれない部分をぶち切っていけば、素直なコアが残るだけです。
人間の核心、コアは素直に決まっています。
ひねくれたコアなどというコアはありえません。
ひねくれた時点で、それはもうコアではないからです。

細胞の世界にしても、想念の世界にしても、この世のものは「増殖」するものです。
がん細胞も増殖しますし、流行の思想も増殖します。
自分を失ったまま、何かの考え方やら思想やらの増殖に身を任せると、時に大変なことになります。
こんなはずではなかったという考え方やら思想やらがこれまでもたくさんありました。

そんな増殖作用から身を引いて、自分自身のコアを正面から見つけ、対峙してみること。
それが禅のような気がします。




作り物

2010年02月16日 | スピリチュアル
人の心は自我が発達するにしたがって「作り物」めいていきます。
学校や周囲から言われ続けることに従ったり、反発したり、本心の発露よりも心の防衛に主眼が移っていきます。
自我あるもの同士がせめぎあう社会に生きる以上、心をむき出しにすればたちまちのうちに心は傷だらけになってしまうでしょう。

社会人ともなれば、「~しなければいけない」「~してはいけない」「~すべきだ」というような自らの行動規制に、
自らの心ががんじがらめになってしまいます。
一方、そういう心の不自由さに我慢ができなくて、すべての行動規制を敢えて破壊する衝動に身を任せることもあります。
いわゆるドロップアウトするとか、アウトロー化するとか、社会規範から自らはみ出ていくわけです。
社会規範から逃げ出せば心が自由になるかというと、決してそんなことはありません。
心の自由と言うからには、社会規範に賛成か反対かなどというところに、自由の本質があるわけではありません。

規範に従おうが、従うまいが、一切の関係ないところに心が独立して在る状態を、心の自由と言うのでしょう。

赤ちゃんが生まれます。
心の在るがままに、泣き、ぐずり、笑います。
確かに心は自由です。
でもその自由は、身辺を細々お世話してくれる人がいて、初めて可能な自由です。
成人が赤ちゃんのレベルでの自由を取り戻すのは無理な話です。
成人が、泣き、ぐずって他者に要求し、それで満足して笑っていたら、そりゃもうゲテモノの世界です。

大人になるとは、我を持った人間同士が、不愉快にもならず、迷惑も掛けず、社会の福祉向上のために少しでも役に立つ心構えを持ち、
社会と、自然と、融和して生きていくことができることです。
そのためには、自分自身の心を含めて、人の心というのは成長するにつれてどんどん作り物めいていくことを知ることはとても大切です。
狭量なイデオロギーや偏った宗教に心を奪い取られないためでもあります。
人はどんなことでも思おうとすれば思え、考えようとすれば考えられます。
だからこそ、他者を支配するとか戦争とかいう狂気がいまだに地上から消えることはないのです。
さらに、自分の「思い」や「考え方」などというのも、たまたまのその自分の立ち位置から出てくる泡のようなものだと知っておくと、
自分の「思い」や「考え方」に固執する苦しさから抜け出せます。

それでは何のためにもともと赤子のような無垢だった心が作り物めいていくという経験をするのか。
無垢なものが無垢なままだったら、この世に生まれるという経験の意味がないからなのかもしれません。
無垢なものが、傷つき、壊れ、汚されることによって、その無垢の輝きの尊さを知るため。

テレビをはじめ、この世はなにからなにまで「作り物」だらけです。
作り物の関係、作り物の言葉、作り物の笑顔、作り物の優しさ、作り物の真実。
それをそうと知りながら、ふて腐れもせず、怒りもせず、自分の作り物の心の奥底に輝いている無垢さを再発見する。
それが大人になった人間の、作り物だらけになった世の中でなすべき最終課題だと思うのです。

自分のなかに無垢を見出せない人は、他人の中に無垢を見出すはずもありません。
自分の中に無垢を見出した人は、他人の仲にもそれがしっかり輝いているのを見出すことができます。
そこから初めて、作り物ではない関係、言葉、笑顔、優しさ、真実が出てくるんだと思います。