走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

立岩ダッシュ村 プロローグ

2009年03月19日 23時32分19秒 | 子ども体験学習
 来年度から子どもたちの人間力向上のための農業体験学習事業「立岩(地区)ダッシュ村」がスタートします。

 この事業は年間を通じ、小学生を対象とした農業を体験してもらおうというもので、米作だけでなく、炭焼きや野菜作りなど、さまざまなメニューを準備しています。
 また、単に農業体験だけでなく、収穫した作物をつかった料理にも挑戦してもらい、食育にもつなげようという企画です。
 まさに、日本テレビの「鉄腕ダッシュ村」のような企画ですが、はじめての試みなのでテレビのようにうまくはいかないと思っています。

 今日は、夏に行うカレーに入れるジャガイモの種イモを植えてきました。
参加者は、松田公民館長をはじめ地元の人たち、愛大農学部の小田先生、愛大の学生ボランティア、市教委の職員などです。

 作業は次のように行いました。


 愛大学生ボランティアの紺田君と畑本君です。
 二人とも都会育ちなので、すべてが驚きだったようです。


 予定地で何をどのように作っていくかを打ち合わせ中です。


 とてもロケーションのいい場所で、棚田がきれいです。


 作業開始前に、松田公民館長があいさつをしました。


 まず種イモを半分に切りました。


 別の人は、種イモを植えるための溝堀です。


 次に掘った溝に30センチ間隔で種イモを置いていき、その間に肥料をまいていきました。


 そして、その上に土を盛り上げていきます。

 

空席

2009年03月18日 19時08分02秒 | その他
 昨日の卒業式の保護者席に空席が目立ちましたという話を職場でしていると、Tさんから「それは、仕事が休めない親が増えたからではないですか?」と言われ、ハッとしました。

 今、100年に一度の大不況と言われ、本当に大変な世の中になってきたと思っていたのですが、このように現実を突きつけられると自分の無力さを改めて感じます。

 卒業式に出たくないと思う親がいるでしょうか。
 きっと出たくても、休むと仕事がなくなる、そう思うと休むわけにはいかないのでしょう。
 ことは切実です。

 いつの世も子どもに影響が出ます。
 今、こういう世の中だからこそ、放課後子ども教室が必要だと思っています。
 この事業が、子どもたちの未来作りのきっかけになるようライフワークのつもりでがんばります。

高浜中学校の卒業式

2009年03月17日 17時45分23秒 | その他
 今日は、市長代理として松山市立高浜中学校(校長 楠本雅人)の卒業式に出席しました。昨年に引続いて二回目の出席です。
 緊張のあまり祝辞を読み上げるときに、少し噛みながら何とか大役を果たしてきました。

 今日の卒業式の中で一番感動的だったのは、やはり卒業生代表の大浜君の挨拶です。
 彼は、鼻を詰まらせたような声で別れの言葉を読み始めました。
 最初は、「あれ、花粉症かな?」と思ったくらいの声でした。

 彼は、泣いていたのです。
 最後の方は、感極まって振り絞るように別れの言葉をつづっていきます。
 私も思わずもらい泣きをしてしまいました。

 「最近の子どもは・・・」と言われますが、子どもの感性はより豊かになっていて、神経質ととれるくらい敏感になっているだけのことではないでしょうか。
過ぎ去りし日々を思い起こし、彼は別れることの辛さを惜別の思いで捉えていたのでしょう。


 卒業式の前に、校長室に飾っていた千羽鶴。
 恐らく、五十羽くらいしかなかったと思います。
 もっと織りたかったのかもしれませんが、時間がなかったのでしょう。
 数よりも、自分の感謝の気持ちを早く届けたかったのだと思います。

 それをもらった楠本校長は涙が止まらなかったそうです。
 この中学には教頭時代に赴任した時には、この学校はいわゆる荒れた学校だったそうです。
それを立て直すべく、先頭に立ってがんばられたということです。
 そして、去年の4月に校長として再び、この学校に戻られました。

 一学年2クラスづつのそんなに大きな学校ではありませんが、それだけに子どもも先生も力をあわせてがんばる学校に変わりました。

 今日巣立つ子どもたちが、自分の可能性を信じ、
 夢と希望を持ち、
 失敗を恐れず、
 何度でも挑戦する、
 決して諦めない子どもたちに育って欲しいと祈っています。

流石(さすが)

2009年03月15日 23時52分22秒 | その他
 今、放課後子ども教室の運営について永続的に続けていくためには、さまざまな準備をしておく必要があると思っています。
この事業は、地域のボランティア力を活用して運用していく事業なのですが、継続するためには運営スタッフの新陳代謝が機能として備わっていないと、継続は難しいと思っています。
つまり、後継者がいない組織は高齢化し、いつしか消えていく運命にあります。

 また、人材が変わるたびに方針が変わるようでは、子どもたちは迷ってしまったり、せっかく伸び始めていても意欲が低下する可能性があります。

 そのためには、ある程度、基礎的なところは余り変えない教育プログラムで構成する必要があると思うのです。
 また、年間240日間稼動させるためには、さまざまな教育プログラムが必要だとも考えています。
 さらに、教える方法にバリエーションがある方がいいとは思いますが、「教える」という基本がわからないまま、漠然と子どもたちに向かい合うのと、そうでないとでは、随分とちがうような気がするのです。

 「人は、人によって育てられる」とするならば、教えるという技術をある程度、確立する必要がありますが、そこは学校の先生とはちがいますから、こまかな部分まで制約する必要はないと思っています。
何がいいたいかといいますと、人材育成のための研修プログラムは、むしろ人間形成としての重要なものを教えられる指導者育成にポイントを置いた方がいいと思うのです。

 そして、愛媛大学の教育学部の先生たちの力をお借りして、さまざまな教育プログラムや研修プログラム等の構築に向けた取り組みをスタートしております。
 例えば、こちらがテーマとして「体力向上プログラム」を掲げますと、その狙いとして「からだづくり」、「こころほぐし」、「なかまづくり」にわけてかえってきました。

 なるほどであります。
私たちは、「体」と言われると、つい筋力向上運動をイメージしてしまいますが、小学生の子どもたちは成長過程ですから、「からだづくり」となるわけです。
また、運動をすることで過度の緊張やストレスの発散が必要な子どもたちが増加している現実を見ると、「こころほぐし」となるわけです。
さらに、ともに運動することで連帯意識や絆を深めることで友達をつくることができますから、「なかまづくり」となります。

 いかに自分の思考が画一的か反省をさせられます。
 でも、「餅は餅屋に任せるべきだ」と居直る自分がそこにいます。

松下村塾

2009年03月09日 21時05分15秒 | その他
 お昼休憩時に話をしていて、今、時代は幕末から明治維新に移行した激動の時期に類似しているのではないかという話になった。
まさに、大砲や鉄砲を使って時代を変えようという動きはないが、それほど劇的に時代が変化しているというのが共通の意見だった。

 そして、こういう大きな時代の変化の時に教育はどのようなことを教えるべきなのかということにいたった。
 誰かが、こういうときだから人間性を高める教育が重要だといったので、私は、吉田松陰が私塾としてつくった「松下村塾」は何を教えていたのか疑問に思った。

 なぜなら、その私塾を見たことがあるのだが、小さな離れ家のようなもので、大人数が入れる施設ではなかった。
 つまり、そう大したことは教えていなかったのではないかと思ったのである。
 しかし、明治新政府へと移行する原動力や確立する礎となった人物を多く輩出している。

 そこで、ホームページ(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)で調べると次のようなことが書かれてあった。

 「松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、安政3年(1856年)
  8月から安政5年(1858年)12月までのわずか2年余りに過ぎない。
  しかし、その短い期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、
  しかし一方的に教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を
  考えていった。
  講義は室内だけでなく、農作業を共にしながら行なわれるなど、
  心身両面の鍛錬に重点が置かれたという。

  松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」と言った。
  また「学者になってはいけない。 実行しなければならない」とも言い、
  学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説いた。
  脱藩や密航を試みるなど、実行に実行を重ねる松陰であったからこそ、
  若者達の心は強く揺さぶられ、惹き付けられていった。」とある。

 まさに私たちが、社会教育・生涯学習の中で繰り返していっている「学び」から「実践」へにつながる。
 
 そして、なによりも大切なことは、教える側に確固たる信念が必要であるということ。

 私たちが次代に何を残せるかは、そんなに多くはない。
 だからこそ、私たちは真剣に子どもたちと向き合い、子どもたちの可能性をできるだけ引出すために、たくさんのチャンスをつくること。
 それが私たち、大人の使命だと思う。
 

今年度最後から二番目の文化祭

2009年03月08日 19時24分04秒 | その他
 今日は、久谷地区の文化祭に行ってきました。
 久谷地区は、坂本校区と荏原校区に分かれるのですが、例年、坂本校区が一週間早く行われていましたので重なるということはなかったのですが、今年度は事情があり同日開催となりました。

 先に式典のある坂本校区の文化祭から出かけてきました。
 場所は、坂本小学校でした。
 式典に参加させていただき、あいさつもそこそこに、次の会場の荏原公民館に向かいました。
 こちらの式典にもどうにかまにあい、参加できました。

 今日の文化祭で今年度最後の文化祭と思ったのですが、3月21日土曜日8時30分から中島総合文化センターで中島地区の文化祭がありますので、最後から二番目の文化祭でした。
しかし、来月には新年度の事業がスタートします。
 本当に月日の流れは早いものです。
 今年度さまざまな事業に参加していただきました関係者の皆さまに、改めて心からお礼申し上げます。



 坂本小学校には少しだけ早めに到着しました。まだ準備中でした。


 展示コーナーの村井公民館長です。案内していただきました。


 かいがいしく準備をしている山本公民館主事です。記録は、デジカメだけでなくビデオカメラも見られるようになりました。


 式典の始まりを待つ子どもたち。福祉ポスター、標語で表彰される子どもたちです。



 第二会場の荏原公民館に移動しました。バザーなどは始まっていました。


 午前の部の催しは始まっていました。地元幼稚園児によるダンスの披露。目が細くなります。


 式典オープニングは地元小学生による演奏でした。

谷間のともしび

2009年03月07日 23時32分44秒 | その他

 昭和49年3月7日 52歳で父が他界した。

 そして、今日、私は52歳で父の命日を迎えた。
 感慨ひとしおである。

 とにかく真面目な男であった。
 子沢山の大家族の長男として生まれ、子どもの時からずっと苦労したといわれる。
酒で身代を食いつぶしていく父親を見て、自ら、酒を飲まないと心に決めてから奈良漬で顔を真っ赤にしていた。
勉強がしたかったのに貧しさで学校に行けなかった。
だから息子の私を大学に行かすのが夢だった。
しかし、息子が大学に行く前に逝った。

 死んだ父の手帳から、歌詞を書いたページが見つかった。
 母も私も、父がその歌を口ずさんでいるところを一度も見ていない。
不思議に思ったが、その歌詞を読み込むほどに、その時の父の心情が見えてくる。
当時、我が家は山の中腹のようなところに建っていた。

 「谷間のともしび」
  J.Lyons.S.C. Hart & the Vagabonds
  西原武三 訳詞

 「たそがれにわが家の灯 窓に映りしとき
  わが子帰る日いのる 老いし母のすがた
  たにま灯ともしごろ いつも夢に見るは
  あの日 あの窓こいし ふるさとのわがいえ

  たにま灯ともしごろ いつも夢に見るは
  あの日 あの窓こいし ふるさとのわがいえ」

 平凡な日々を大切に思う父であった。
 そんな父を嫌った時期がある。

 人が想像のつかないような苦労をしてきて、戦争で生き地獄を見てきて、何よりも平凡さの大切さを知り、平凡な日々を送れることを無常の喜びとした父だからこそ、その重みは比べようもないものだったのかもしれない。

 誠実に生きるとは、

  正直に嘘をつかない。
  失敗したら素直に謝る。
  思いやりの心をもつ。

 今一度、父の教えを胸に刻みながら生きていきたい...

異国の地でがんばる

2009年03月06日 22時41分53秒 | その他
 今日、松山に在住のビョーン君というスウェーデンの青年と話しをしました。

 彼は、今回、新たな旅立ちをしようとしています。
 そこで、奥様とその家族以外で信頼してくれている私(勝手にそう思っています)に相談がありました。
 彼は彼なりに将来のことや家族のことを考えていて、感心します。

 彼は、大学時代マーケティングを専攻していたらしく、大学を卒業後、スウェーデンで三菱自動車とボルボのブリッジスタッフとして活躍していたそうです。
奥様との結婚を機に、退職し、奥様の出身地でもある、この松山に移り住みました。

 そして、5年以上の時間が過ぎるわけですが、彼のがんばりは驚きです。
 難しい日本語も話せるようになり、漢字も難しいものでなければ読めるようになりました。
電話の応対などを聞いていると、日本人よりも丁寧で心がこもっています。

 彼は、明日から母国に次の飛躍のために勉強に帰ります。
 彼の学習意欲は、彼の生き方に裏打ちされたものであります。
 このあたりは、私たちも見習わなければならないと思うくらいです。
 これから始めようとするビジネスにも、彼なりの哲学や理念があります。

 一言で言うならば、「人のためになること」

 彼にとっては、スウェーデン人だとか、日本人だとかは関係ないのです。
 人類愛とか、博愛なんて、小難しいことではなく、ビジネスを通して人のためになることをしたいという単純明快なコンセプトです。
 そして、そこには一点の曇りもないのです。
 彼のビジネスが成功すれば、きっと日本の税負担が軽減されるとともに、サービス受給者にとってはクオリティを上げることにつながります。

 スウェーデンという国は、税負担によって福祉国家として成り立っているという短絡的なイメージが私たちに潜在的に刷り込まれています。
 しかし、だからこそ、彼は税の使い道に厳しく、さらにしっかりと監視するシステムを作り、定期的に評価改善を繰り返しています。
つまり、納税者が単に税を納めるだけでなく、しっかりと当事者意識をもってその使い道を見続けるのです。

 そんな国に生まれ、育った彼だからこそ、日本の税の使い道まで心配してくれています。
 彼がやりたいことが成就するよう、今後も、いろいろと相談にのりたいと思っています。

ハサミを持つお母さん

2009年03月04日 20時40分19秒 | その他
 家庭の食生活について現状がいかなるものか、冷凍加工食品メーカーの開発室の方にお話を伺った。

メーカーでは、消費者のニーズがどこにあるのか、生活環境の変化も含めて絶えず悩みつづけているとのこと。
そして、最近、痛切に感じるのは、若いお母さん方が料理をしなくなったということである。

かつて、包丁がない台所があるというのを聴いて、仰天したことがあるが、「まさか」と思った。

しかし、本当にそれに近い現象が広がっているという。
「包丁」にとって替わったのは、なんと「ハサミ」だというのである。

つくる料理は、冷凍加工食品(正式にはつくるとは言わないかもしれない)。
封を空けるのに、ハサミで「チョッキン」と開けて、レンジで「チン」するだけ。

 こういう親を見て育った子どもが、果たして料理をするだろうかと思った。

 今、私たちの職場でも「食育」の大切さを痛感し、力を入れている。
しかし、現実はどんどん理想とはかけ離れていっているような気がする。
栄養学にたった「食育」の大切さもわかる。
 でも、食育は様々な観点から教える必要がある。

 さまざまな「生命(いのち)の大切さ」や「食材をつくってくれた人や、料理をしてくれた人への感謝の気持ちを深める」といったことも、学びの大きな要素だと思う。

 どうかお母さん、少しづつでいいですから、愛という調味料をかけてあげてください。

 

風の通り道

2009年03月03日 23時43分12秒 | その他

 ベンチャーの冷凍機械メーカーの社長さんの話を聴く機会に恵まれた。

 非常にユニークな社長さんで、冷凍機器を販売しているはずなのに、ちがう話ばかりお聴きした。

 まず、空調から出てくる空気の流れについてである。
飲食店で食材の鮮度を大切するために、冷凍機器にかなり神経質になっているところは多いという。
しかし、空調の空気の流れに気をつかうお店は皆無に近いという。
この社長さんが気にしていたのは、空気の流れによって、刺身などの乾燥の度合いにかなり差が出るというのである。
 せっかく料理をお客様の前に出すまでは、細心の注意を払っていても、出した後は意識しなくなるという。
これでは、せっかく心を込めて料理をつくっても台無しである。

 本当においしい素材をおいしく食べてもらうためには、口に運んでもらい、食してもらうことで始めて実現するという。
 そのためには、自分のお店の中の「風の通り道」まで把握しているかどうか、そこまで気をつけなければならないという。
見えないところに気を使うというのは、本当にこういうことなんだと痛感した。

 しごく当たり前のようだが、冷凍機の中まで追求し続け、鮮度97%、長期間冷凍やけしない機械を発明した社長の重い言葉である。

三津 浜焼き

2009年03月02日 00時20分54秒 | その他
 地元・三津浜には子供の頃からお好み焼きの食文化がある。
 昔は卵が高かったので、お皿と卵をもってお好み焼きを買いに行かされていた。
今思えば、昔の親は理不尽でわがままな存在だったような気がする。
なぜなら、自分が行くのが恥ずかしかったり、煩わしかったら、平気で子どもをダシに使っていたからである。

 でも、子どもの私は大好物のお好み焼きが食べれるとあって、喜んで使いに行っていた。

 もともと母が広島出身ということもあり、広島風のお好み焼きには物心ついた時から親しんでおり、それが普通だと思っていた。
しかし、随分たってから広島風のお好み焼きが、三津浜地区だけの食文化だと知る。
よくよく考えれば、松山の海の玄関であった三津浜が広島の食文化に類似していてもおかしくない。

 そう意味では、三津浜のお好み焼きは、広島のお好み焼きよりも歴史が古いと主張する人がいるが、むしろ連携イベントを催してはどうかと思う。

 なぜなら、広島のお好み焼きと三津浜のお好み焼きとの大きな違いは、「もやし」が入っているのと、そうでないとの違いだと思うのだが、広島風のお好み焼きは「蒸す」ことにポイントがある。
だからこそ「もやし」を入れるような気がする。(根拠なし)
 しかし、三津浜のお好み焼きは、そのことを避けている。

 そこに、似て非なるものが潜んでいるような気がする。
 これだけでも探索するとノーベル賞ものかもしれない。(そんなわけはない)

 そして、このたび三津浜のお好み焼きをコンテンツにまちおこしをしようという活動が始まっている。
 その名も「三津 浜焼き(http://hama-bura.com/index.html)」。
 なかなかやるものである。

 皆さんも、ぜひ、三津浜の歴史ある建築物を散策しながら、「浜焼き」をはしごされてはいかがでしょう。