走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

福祉用ロボットスーツHAL

2011年03月27日 22時57分43秒 | うれしい
 先日の愛媛新聞に懐かしく思う記事が掲載されていた。

 筑波大学大学院の山海嘉之教授が開発した「福祉用ロボットスーツ『HAL』」の記事である。
私は、このロボットスーツが世に出る前から知っている。
山海先生自身が世の中からスポットライトを受ける以前からある人の紹介で知己を得た。
経済部門を離れてからご無沙汰をしていて疎遠になったままである。

 先生の技術は、初めて自身からお聴きした時から凄いと思った。
世の中から注目を受ける前から、米国国防省は既に先生にその技術供与についてオファーがかかっていた。
その技術は軍事技術に使うと大変なことになる可能性を秘めていた。

 先生自身は、結果的にお金よりも世の中に役立つ道を選択された。

 このことは、真似できるようで難しい。

 そして、先生はこの技術を福祉分野に振り向けた。
 先生のコンセプトは簡単で「歩けていた人が歩けなくなったり、一度も歩いたことがない人を歩けるようにしたい」

 「高邁な生き方」とはどういうことかを山海先生から学んだ。

 「歩けない人を歩けるようにしたい」
ただそれだけである。
先生は体験談の中で、「歩けなかった人が僕のスーツをはいて、『歩けた、歩けた』と涙を流しながら歩く姿を見ると、『もっと頑張らなくちゃ』て、勇気みたいなものが湧き上がってくるんですよね」と無心に話される姿を見て体の奥底から熱いものを感じた。

 レンタルとしてはまだまだ高価であるが、それまでに費やした技術やエネルギー、不眠不休で今も頑張っておられたことを思い出すと納得できるのだが、先生自身、実用化のためにもっとコストを下げる努力をしておられることだろう。
 そして、その一途な先生の思いに大和ハウスリースが応援している。

 先生と親交があったときには、リハビリ用にHALを使うときに「作業療法士」みたいな資格をつくってもらい、松山で研修してくれるような環境整備ができませんかと無理なお願いをしたこともあった。
普通ならロボットスーツをつくることをさせて欲しいとお願いするところだが、先生のビジョンをお聞かせいただいているうちに、普及をしていくのに人材が必要になるだろうと考えたからである。
そして、「温泉でも入りながら、勉強するには松山は最高の場所ですよ」と

 今にして思えば、なんと下世話な私だったか....

道後保育園の卒園式

2011年03月26日 21時42分08秒 | 職場の出来事
 今朝、道後保育園の卒園式に市長代理として出席してきました。

 とっても小さな卒園生がたくさんいて、かわいくって仕方がありませんでした。
式が進み、卒園証書を授与する段になって、園長先生から卒園証書を受け取ると園長から「おめでとう」と声がかかると大きな声で「ありがとう」と元気よく挨拶し、反転し保護者の待つところまで行き、やはり大きな声で「ありがとう」とお礼を述べながら卒園証書を保護者に手渡すという心にくい演出だった。
保護者は卒園証書を受けとる子どもを見ながら涙ぐみ、そして子どもから卒園証書を受け取る瞬間、涙が堰を切ったように流れ出る。

 そんな中、ある園児の番が来て、保護者に手渡すときに「おめでとう」と言ってしまった。
ハッとしてすぐに言い直したが、席に戻ると泣きじゃくっていた。
彼女にとって一世一代の晴れ舞台での失敗。
よほど恥ずかしく悔しくて、悲しかったのだろう。

 でも、大丈夫だよ。

 君のこれからの未来にはたくさんの障害が待ち受けている。
 小さいからわからないかもしれないけれど、君自身が一生懸命がんばっていれば、周囲の大人たちは優しく見守ってくれるよ。
その証拠に、少しくらい失敗しても笑って許してくれるよ。

 だからお願いだから、失敗をおそれない大人になって下さい。

 おっちゃんから、「卒園おめでとう」
 素敵な未来が来ることを祈っています。

人事異動

2011年03月25日 22時19分53秒 | 職場の出来事
 今日の午前中に人事異動の内示があった。

 なんと異動していた。

 行き先は、生石(しょうせき)支所。
 支所間異動である。
 道後支所が一年目であったので、驚いたが結果は結果。
早速に、地元の各種団体の役員の方々に失礼ではあるが電話で異動の報告をさせていただいた。
地元にとっては迷惑な話である。

 「迷惑」というのは、「一年間何もできずに人騒がせな」という意味である。

 誠に申し訳ないという思いと、本当にご迷惑だけかけてしまったことへの陳謝の念である。
皆さん、口々に驚かれていた。

 「本当にごめんなさい」

 早速に「送別会をしよう」と言ってくださる方もおられる。
 恐縮してしまい、お断りしたのだが許してくれそうもないので了承した。

 口々に「何年おったん(いたのか)?」と聞かれ、「まだ一年目でした」と応えると「そうやったけぇ」と驚かれる。

 本当に一年間でした...

本当によくしていただきました。
本当に楽しい一年でした。

自分で言うのもなんですが、この一年で「自分の笑顔」が素敵になったと思っています。

 本当にお世話になりました...

イノベーションを起こしそうな予感

2011年03月24日 23時59分32秒 | うれしい
 今日東京から来られた方と知り合った。
 第一印象としては、「何かありそう...」的な方だった。

 話をしてみると、その予感は的中していて「やっぱり」みたいな感じであった。
キャリア的には、ある大手の国際部長をされ、ベンチャーを起こし、その企業を上場までもっていかれたという。
そして、今、まさに二つめの企業を上場させようとしている。

 それだけにバイタリティがあり、話の内容が深い。

 話の内容がおもしろいので、つい吸い込まれていく自分がいる。
驚くことに、今までやってきたご苦労を初対面の私に話してくれる。
そればかりか失敗したことも腹蔵なく話してくれる。
警戒心など微塵もない。
その人間的魅力に圧倒されながらも、私自身の持論をぶつけてみる。
つい熱弁になる。

 気付けば相手の聞き上手に乗ってしまったような感じだ。
「話し上手は、聞き上手」というがまさにそのとおりである。

 日本のある分野の技術革新を起こす人を目の当たりにみた。
 こういう経験を個人的に最近、よく出くわすようになった。

 そして、恥ずかしながらも自分が体験し、そこから学び取ったり感じ取ったことを素直にぶつけてみると、思わぬ反応が返ってくる。
正直、しっかりとした理論的な裏づけはないが、本当に漠然とではあるが方向としてはまちがっていないような気がしてきている。

 人の出会いは、本当に楽しい...

湯築小学校卒業式

2011年03月24日 19時43分06秒 | 職場の出来事
 今日の午前中は、市長代理として湯築小学校の卒業式に出席してきました。
まず、東北太平洋沖代地震の被災地の皆さんへのお見舞いの言葉を述べて、祝辞に入ることとなっていました。

 式が始まって子どもたちを見ていると、被災地の子どもたちの中にはこのように卒業式を楽しみにしながらも、その尊い命を亡くした子もいるのだろうと考えると、つい祝辞に入る前に次のような言葉を足してしまいました。

 「昨日、甲子園で全国高校野球が開幕しました。
  その中の宣誓で次の二つの素晴らしい言葉がありましたのでご紹介いたします。
  『仲間同士で支えあえば、どのような困難も乗り越えられるということと、
  生かされているということに感謝し全身全霊をかけてプレーします』
  皆さんと同じように今日の卒業式を楽しみにしながらも叶わなかった
  子どもたちが被災地にはたくさんいます。
  皆さんには、本当に生きているということを感じてもらいながら、
  それを支えて下さったご両親や先生、地域の人たちに感謝しながら、
  これから起こりうるさまざまな難題に対しても逃げずに取り組んで
  いただきたいと思います。
  それでは、野志市長の祝辞を...」

 蛇足だったかもしれませんが、10年前の今日、芸予地震で松山で唯一被災にあった小学校の子どもたちには「生かされている」ということを噛み締めてもらいたかったのです。
 

選手宣誓

2011年03月23日 23時35分26秒 | 東日本大震災
今日から全国高校野球が始まった。
開会式の宣誓は創部2年目で出場した創志学園(岡山)の野山慎介主将(2年)君。
その宣誓があまりにもかっこよかったので紹介します。
初戦で敗退しましたが、その清々しさは皆さんの心に残ったと思います。


「宣誓。
  私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。
 今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。
 被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。
 人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。
 私たちに、今、できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。

 「がんばろう!日本」。

 生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。

       平成23年3月23日

       創志学園高等学校野球部 野山慎介主将 」

 どうです?かっこいいでしょう...

救援物資の受付スタート

2011年03月22日 21時38分54秒 | 東日本大震災
 今日から松山市でも東北地方太平洋沖大震災の義援物資の受付を開始しました。
内容については次のとおりです。

 ☆受付開始日時  3月22日(火) ~ 当分の間(土・日・祝日含む)

 ☆受付時間    午前9時 ~ 午後7時まで

 ☆受付場所    本庁及び各支所

 ☆受付品目

  1 水・お茶(ペットボトル、サイズは自由)
  2 保存食
  3 粉ミルク
  4 生理用品
  5 紙おむつ(幼児用)
  6 高齢者用おむつ
  7 尿失禁用パッド
  8 マスク
  9 トイレットペーパー
  10 ボックスティッシュ
  11 ウェットティッシュ
  12 使い捨てカイロ
  13 乾電池(単一~単四)

 ※注意:「生もの」及び「使用・賞味期限が1ヶ月以内」のものは受付できません。

 ご協力のほど、よろしくお願いします。

雨ニモマケズ

2011年03月22日 00時05分25秒 | 東日本大震災
 私の大好きな宮沢賢治、彼の代表的な詩である「雨ニモマケズ」は東北の厳しい自然風土の中で培われた力強さが現れた作品である。

彼は、郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の理想郷に、「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov、イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。
そして、彼が愛した郷土が深く傷つき、そこに住まわれている人たちが未来をなくしかけている。
彼の詩は、日本のどこよりも辛抱強く、粘り強く、がんばる人たちを応援する詩ではなかろうか。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


あなたは知っていますか?アメリカで桜が満開になる事を。

2011年03月21日 18時34分41秒 | 映画
映画「さくら、さくら」

 高峰譲吉という人物をご存知でしょうか?
サムライ化学者と言われ、エジソンやロックフェラーと並び称される人物であり、彼の伝記映画が「さくら、さくら」です。
以下、ホームページなどを引用します。


 近代バイオテクノロジーの父「高峰譲吉」とその妻「キャロライン」は、1884年(明治17年)ニューオリンズで恋に落ちる。譲吉30歳、キャロライン18歳。それはまさしく運命の出逢いだった。そして二人は結婚。
これは記録に残された日本人とアメリカ人の結婚としては最初のものであった。

本作は、明治という日本の新たな幕開けともいえる時代を背景に、今もなお医学界においてはなくてはならない「アドレナリン」と「タカジアスターゼ」を生み出した化学者、「高峰譲吉」の半生を描く壮大な物語である。そして12歳年下の米国人妻「キャロライン」。彼女のアメリカ気質の性格が、彼の研究に与えた影響は多大なものである。

だが、1世紀以上も前となる当時の国際結婚は、順風満帆とはほど遠く、波乱と試練の日々であった。
しかし二人は数々の困難を乗り越えて、次々と奇跡を起こすのである。
ワシントンのポトマック湖畔とニューヨークのハドソン河の岸に咲く「満開の桜」。
これは、日本とアメリカの架け橋となった二人の愛の物語なのである。


チェック:ワシントンD.C.への桜寄贈の立役者であり、医学の発展に大いに貢献した化学者・高峰譲吉の生涯を映画化した伝記ドラマ。『ジュテーム~わたしはけもの』の加藤雅也が、現在も胃腸薬などに使われるタカヂアスターゼを発明する一方、激動の明治時代に日本とアメリカの架け橋となった化学者を演じる。監督は『赤龍の女』の市川徹。20世紀初頭の世界をリードする高峰の生きざまはもちろん、妻となる運命の女性とのラブストーリーにも注目だ。

ストーリー:1883年、イギリス留学から戻った譲吉(加藤雅也)は、先祖代々続いていた医者の家を継がず、「万人の命を救いたい」との思いから化学者として生きることを決意。その翌年、ニューオリンズにいた30歳の譲吉は、18歳のキャロライン(ナオミ・グレース)と運命の出会いを果たし、数々の困難を乗り越えて結婚する。


身内の被害の把握より、助けを求めている人の救命を優先

2011年03月20日 08時35分29秒 | 東日本大震災
【東日本大震災】

 東日本大震災では、救出作業に当たる警察、消防署員も被災した。庁舎がなくなり、連絡がつかない署員は多い。殉職者も出た。それでも「目の前の人命救助を最優先したい」と黙々と作業を続けている。

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壊滅的被害の岩手・陸前高田市への救助…
福島・南相馬で300世帯安否不明
記事本文の続き 「庁舎があるはずの所に何もなかった」。大津波に襲われた岩手県陸前高田市。応援部隊を派遣した一関市消防本部によると、陸前高田市の消防本部は姿を消し、署員数十人と連絡が取れない。防災課の岩淵正司・士長は「友人らの安否も気になるが、救助活動に専念するだけ」と語る。

 津波被害が大きい福島県沿岸部の相馬署と南相馬署は、警察電話も通じなくなった。だが沿岸部出身者もいる福島北署の署員は「身内の被害の把握より、助けを求めている人の救命を優先する」。宮城県名取市消防署員は「仲間の中にも親族を失った者がいるようだが誰も話をしない。黙々と働いている」と話す。


温かいおせっかい

2011年03月19日 10時11分39秒 | 東日本大震災
 東日本大震災の義援金のお願いを玄関横に張り紙をしていたところ、絵手紙をやっておられる「なごみの会」の人がやってきて、「あんな文字だけやったら誰も見んわい(見ない)。私が描いてきたけん、これ貼っとき!!」

 なるほどである。
 とっても嬉しかった。

 すぐに玄関ドアに見えるように張った。
なんでもないようなことに注意を払ってくれる。
素敵な「おせっかい」である。

 今回の大地震はとっても悲しいことだけど、日本という国が、日本人というものが一つにまとまる千載一遇のチャンスかもしれない。
今回の地震は日本全体で復興する必要がある。

 まさに、「がんばろう、日本」である。

「惨状、桁違い」=極寒、必要なのは暖房器具―現地入りした日赤医師

2011年03月19日 02時20分36秒 | 東日本大震災
  時事通信 3月18日(金)20時24分配信より

 東日本大震災の被災者を救援するため、日本赤十字社医療センター(東京)から宮城県に派遣された平塚圭介医師(35)が18日、時事通信の取材に応じた。現場で目にしたのは、経験したことのない惨状と感謝の心を忘れずに必死に生きる人々の姿だったいう。

 平塚医師は地震発生2日後の13日から16日まで、同県石巻市の石巻赤十字病院で診察に当たった。最初に目に飛び込んできたのはフロアにあふれる約500人の被災者の姿。「本当に悲惨としか言えない状況で、桁違いだった」。床に横たわる人、ジャージーに革靴の男性―。津波で運ばれて来たヘドロや汗のにおいが鼻をついた。

 まず、正面玄関のひさしの下にテントをつくり、自力歩行が可能な軽傷患者の診察を始めた。中には点滴などで使用するベッドを四つ置き、常時10人以上を受け入れた。時折、救急搬送のヘリコプターの音で、患者の声すら聞こえなくなった。

 明るい話題もあった。孤立化した地域から助け出された子どもが、わが子を捜していた両親と病院で数日ぶりに再会した。周りの歓声を聞きながら、泣くまいと涙をこらえた。

 一番つらかったのは、診察が終わって患者を送り出すとき。「この人たちはどこにも連れて帰ってもらえないんだ」。そう思うと胸が張り裂けそうになった。寒さもこたえた。日赤のユニホームの上に防寒着を着込んで対応したが、テントとはいえ屋外での診療。患者だけでなく、医師らの体力も奪った。「一番必要だったのは暖房器具と燃料」。そう振り返る。

 「こんな遠くまで来てくれてありがとうね」。平塚医師は、診察を通じて幾度となくお礼を言われたという。こちらも何か言って励ましたい。だが、「頑張って」とはとても言えなかった。「ここにいるから、いつでもいらしてくださいね」。そう言うのがやっとだったという。

大津波で妻と息子を失った市職員 「負けないで」と被災者に呼びかけ

2011年03月19日 02時07分36秒 | 東日本大震災
 産経新聞 3月18日(金)22時24分配信より


 名取市職員の西城卓哉さんが書いたメッセージ

 「苦しいけど 負けないで! 名取市職員 S」。東日本大震災で大津波が押し寄せた宮城県名取市の市役所玄関ガラスにこんなメッセージが書かれた紙が張り付けてある。書いたのは名取市職員、西城卓哉さん(30)。津波で最愛の妻、由里子さん(28)が行方不明になり、8カ月の長男、直人くんを失った。自分と同じくかけがえのない家族を失った人たちは多い。それでも精いっぱい生きてほしい-。そんな思いを込めたという。

 3月11日。激しい揺れを感じた西城さんはすぐに、職場から由里子さんの携帯電話を鳴らした。一瞬つながったが声を聴けず、途切れた。すぐに市役所は地震で大混乱、職員としてさまざまな対応に追われ、気が付くと12日未明になっていた。ようやく自宅マンションへ戻ると、エレベーターは止まり、泥に足をとられた。部屋に入ると、2人の姿はなかった。近くの由美子さんの実家へ向かった。

 毛布、食料、紙おむつ…。寒さと飢えをしのげるよう紙袋に目一杯詰め込んで、必死に歩いた。「あとは、2人を見つけるだけ」。しかし、周辺に原形をとどめる家はほどんどなく、がれきの山だ。ひょっとしたら、がれきの下敷きになっているかも知れない…。由美子さんの実家を目指しながら、一晩中捜した。しかし、実家も建物はなくなっていた。

 翌日夜、由里子さんの母親とようやく出会えた。自衛隊のヘリコプターに救出されたのだという。憔悴しきった義母は「2人とも流された。どこにも姿がないの…」という。絶望的な気持ちになったが、わずかな望みを信じ捜索を続けた。

 しかし、直人くんとみられる遺体が安置所にあると聞き、15日夜、身元を確認した。「肌着も服もよだれかけも、妻が好んで着せる組み合わせだった」。安置所で死亡届を出すと居合わせた同僚職員が泣き崩れた。

 職場の後輩だった由里子さんと出会ったのは3年前。「誠実で信頼できる人」と一目で直感し、6月14日の由里子さんの誕生日にプロポーズした。昨年7月には直人くんが生まれた。幸せだった。デジタルカメラには、3人で迎えた最初のクリスマスの写真が保存してある。今年2月に撮影した1枚は3人で写った最後の写真。眺めていると、さまざまな思い出があふれてくる。

 それでも西城さんはメッセージを書いて、市役所玄関ガラスに貼り付けた。

 『最愛の妻と生まれたばかりの一人息子を大津波で失いました。

 いつまでも二人にとって誇れる夫、父親であり続けられるよう精一杯生きます。

 被災されたみなさん。

 苦しいけど

  負けないで!

   名取市職員 S』

 地震発生からちょうど1週間の18日午後2時46分、西城さんの職場でも黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。(吉田智香)


失敗するチャンス

2011年03月17日 22時17分50秒 | 職場の出来事
 今日は市内中学校の卒業式でした。
私は、道後中学校の卒業式に来賓として出席させていただきました。
朝から雪がチラつき、この季節には似つかわしくない天候でした。

会場の体育館は底冷えがし寒さとあいまって、皆、式後、異口同音に被災地の方々がこの地よりも寒いところの体育館で過ごされていることに同情をしておられました。
後の祭り的な話で申し訳ないのですが、せめて危険地域だけでも避難場所になる施設についてはもっと充実するよう整備して欲しいものです。

 話は変わりますが、今日も其田建一郎(そのだ けんいちろう)校長先生の祝辞は心に響きました。
凛とした姿勢から発生される言葉は、子どもたちの心に響くだけでなく、こんなカッコイイ大人になりたいと思わせるものでした。

 特に、祝辞の中に閉じ込められた次のようなメッセージは響くものでした。

「失敗はチャンスなのです。人が成長をするための一番は失敗をすることです。
 失敗があるからこそ、人は成長をするのです。失敗をすることよりも失敗を
 恐れて何もしなくなることの方が人の成長を妨げるのです。
 だから失敗するチャンスを大切にして欲しいと思います」

 どうです?カッコイイでしょう...