走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

北条難波泥んこ祭

2006年07月30日 14時22分41秒 | その他
 今日は茹だるような夏模様。
 そんな中、北条の難波地区で「どろんこ祭」が開催されました。
 場所は、川添館長所有の田んぼに水を張り、その中で行われたのですが、水もこの暑さで、かなり温かくなっていました。
 また、田んぼが道路際に位置するため、交通整理をしていただく関係者にとっては、かなり神経を使われたのではないかと思うのです。
 一方、子どもたちは、そんなことはお構いなしで泥んこになって遊んでいました。
そういえば、私も子供の頃の遊び場所は、原っぱか、田んぼだったような気がします。
そして、そこで遊んだときの記憶は、今も映像で思い出されるのであります。
ですから、今日、参加してくれた子どもたちも大人になったときに、映像として思い出してくれれば、お世話をしたかいがあるというもの。
 それにしても、みんなの中に溶け込んでいた田内君が、輝いていました。
 また、地区は違うけれども、このイベントに参加していた北条地区の村上館長をはじめ皆さん、そして川添館長及び関係者の皆さん、ありがとうございました。

高浜地区の盆踊り

2006年07月29日 20時14分36秒 | その他
 いよいよ最後の高浜地区の盆踊りです。
 高浜観光港の周年記念ということもあり、今回は高浜観光港の隣のグランドを使っての盆踊りでした。
 ちなみに写真は、浴衣姿の川内館長であります。
河内館長は、詩吟と民謡を嗜まれ、その声は若々しく(私はテープですが聞いたことがあるのです。)、ひょっとしたら館長の唄で皆さんが踊られるのかと期待しましたが、それはありませんでした。
 さすがに、ここまで何も食べずにきましたので、同行の天崎君とそのJr.の三人で屋台の味を賞味しました。
 河内館長をはじめ、司会をされていた中矢館長補佐、関係者の皆さん、本当にご苦労様でした。
 そして、大内公民館主事もお疲れ様でした。
 それから、最後まで付き合ってくれた天崎君、ありがとうございました。
 

雄郡地区盆踊り

2006年07月29日 19時11分39秒 | その他
 第3弾は雄郡地区の盆踊りでした。
 お邪魔したときには、既に盆踊りが始まっておりましたが、寺田館長の説明では、踊りの指導者には中央に研修に行ってもらったとのこと。
 たかが盆踊りと侮ってはいけませんぞ。
 そして、踊りの輪の中に浴衣姿の男性がいましたが、この人がびっくりするほど踊りが上手で、そういう人を発見するのも地域のイベントならではのこと。
 本当に寺田館長をはじめ関係者の皆様、ご苦労様でした。
 また、佐伯公民館主事、いろいろとご苦労様でした。

味酒地区盆踊り

2006年07月29日 18時27分45秒 | その他
 第2弾は、味酒地区の盆踊りでした。
 味酒公民館では、「たぬき」をモチーフにした「ポンポコ探検隊」という地域の子どもたちを集めた活動を行っています。
その子どもたちが、お手製の神輿(ちなみに、この地域では四角・八角という喧嘩神輿が有名な地域です。)を担いで練り歩いた後、カッコイイ、ダンスを踊ってくれました。
 田中館長をはじめ、関係者の皆さん、お疲れ様でした。
 そして、子どもたちの指導、本日の司会と、何役もこなされていた二神さん、本当にありがとうございました。
 吉田君も準備から、本番、そして後片付けまで奮闘いただき、ご苦労様でしたね。


桑原地区盆踊り

2006年07月29日 17時15分02秒 | その他
 今日は、地区の盆踊りを4箇所回りました。
 まず、桑原地区の盆踊り大会からスタートしました。
 今日はかなり暑く、準備をされた関係者の皆さんは本当に大変だったと思います。
 ちなみに、写真のやぐらに登っているのは、戒田館長です。
暑い中の陣頭指揮、ご苦労様でした。
 そして、公民館主事の門田君も汗だくになってお疲れ様でした。

がんばるNPO

2006年07月28日 22時04分40秒 | その他
 今日、以前から相談に乗っていたNPOのソフィア倶楽部(www.sophia-club.net)の玉乃井厚子さんが職場に訪ねてきてくれました。
 彼女たちの活動の近況報告と課題について、色々と話を聞きました。
 彼女は、もともと困っている人を見ると助けてあげたいという性分らしく、その最も最たる人たちが外国人留学生たちだったということです。
そこで、その人たちを色々とサポートしている内に、そのつながりで外国人旅行者も困っていることがわかってきて、何とか一肌脱げないかということになり、活動がますます広がったということです。
 そして、NPOを設立するわけですが、民間団体でも珍しい海外交流支援団体なのです。
この活動については、徐々にですが理解者が増えてきていますが、その輪が広がるにはまだまだだそうです。
 また、国土交通省の事業などにも参加しているそうですが、資金難(NPOが共通して抱える課題)で、特に経理担当がいないためにキャッシュフロー的発想が乏しく、いつもご主人のボーナスで補填しているそうです。(ご主人はよくできた人です。)
 しかし、彼女も疲れてはじめており、今まで関わった人たちを表面的な部分だけでなく、しっかりと人を見るようになりましたという顔を見ていると、本当に苦労されたんだろうなと感じたのです。
 また、事業を受託しても、ほとんどボランティアで、下手をすると持ち出しの方が多いんじゃないかと思うくらい悲惨です。
「それでもいいんです。」とキッパリ言い切る彼女に、そうじゃないんですよと説明をさせていただきました。
せっかく高邁な志で活動しているのに、その活動を継続するには必ず資金がいるということを懇々と説明した後、まずビジョン、ミッション、ポリシーをもつ重要性についてお話をさせていただきました。
彼女自身は、企画を考えることが大変好きなようですが、プランナーだけでは事業を形にすることはできないということに気づいたようで、プロデューサーが欲しいと言われました。
これは勝手な思い込みかもしれませんが、その役を私に求められているようで、即答は避けましたが、内心ではお手伝いしてもいいかなと思ったのであります。
 何度も申しますが、ソフィア倶楽部の活動は、高邁で自分たちでできる限り完結しようとしていますが、そういう活動に対し、行政や世間の風はあまりにも冷たいかなあと思うのです。
特に、一部の行政の人たちは、期待を持たせるような発言をしておきながら、「忘れてました。」と一言で済ましてしまう者もいたようです。
同業者として、信頼回復をする必要があります。
どうか、お願いです。
行政の方は、できないことはできないと、すみやかに言ってあげてください。
変な期待を持たせないでください。
お願いします。
 これからは、さまざまなことをプロデュースしようと思いますので、興味のある方はご連絡下さい。

地域への思い入れ

2006年07月27日 23時55分57秒 | その他
 今日、NPO「えひめ子どもチャレンジ支援機構」のお世話人の一人、仙波英徳さんとお話しをする機会に恵まれました。
 仙波さんは、PTAのお世話から地域の里山活動など、さまざまな地域活動に積極的に参加されておられます。
自身も「仔馬タクシー」を経営されておられる傍らでの社会参加ですから、並々ならぬ努力ではないかと思うのです。
 そして、話の中で、含蓄のある素敵な言葉をいただきました。
  「地域の人たちを引き込むためのコツはね、『汗と涙とお酒』ですよ。」
 すごい、本当にすごいと思いました。共に汗をかき、達成したときに共に感激の涙をこぼし、いいことも悪いことも共にお酒で流す。
本当に只者でないとも思いました。
 そして二つ目は、自身のサラリーマン時代の上司の言葉で「断れるのはいい。しかし、その理由だけは必ず聞き出して来い。そうすれば、次の一手が打てるからな。」
いやいや、本当に使える言葉だと思い、そっと胸にしまわせていただきました。
 でも、仙波さんのような熱い人がいる限り、松山の地域活動は元気になれそうです。

オシム語録

2006年07月26日 21時33分39秒 | その他
 イビチャム・オシムさん(65歳)をご存知ですか?
 そうです、サッカー日本代表新監督のオシムさんです。
彼の手腕は、Jリーグの下位の常連チームを優勝を争うまでに引き上げたことで有名です。
 また、彼の洞察力は鋭く、深いと言われています。当然、指摘が的確な分、指導は厳しくなります。
 しかし、彼は厳しさだけでなく、その中にも、父親にも似た優しさがあると言われており、彼を慕う選手たちが多いことでも、よくわかります。
 その彼には、さまざまな語録があるのですが、私が好きなものを一つ紹介します。
「私には理想のサッカーも、完璧なサッカーもない。こういうチームをつくる、と決めてしまうと、それ以上にならない。」
 そうなのです。
 人は、自分で壁をつくったり、このくらいだろうと自分の目標の高さを決めてしまうと、そこまで到達した時点で満足するか、それ以上前に進まなくなるものです。
 そして、今日、50歳、第一日目。
 私は、より一層飛躍するために、理想の自分や完璧な自分を創ろうとしないよう心がけることとしました。


華の50代

2006年07月26日 00時58分55秒 | その他
 とうとう50歳になってしまいました。
 半世紀生きるて、どんなんだろうと思いながら、その日が来るとやっぱり、ただの通過点でした。
 自分の人生を振り返ると、結構、3の付く年齢のときに大きな転機が来ていたような気がします。23歳、33歳、43歳。
次の53歳には何が起こるのだろうか。少しだけワクワクし、少しだけ不安がよぎります。
そういえば、親父は52歳でこの世を去った。
53歳は、それを追い越す年齢でもあります。
 でも、とにかく一日一日を精一杯生きようと思います。
人のために生きれるよう、心がけようとも思います。
家族、友人、先輩、同僚、後輩のみなさんに支えられ、迷惑をかけながら今日までやって来れました。
本当にありがとうございました。
これからも、よろしくお願いします。


佐伯さんちの三つ子ちゃん

2006年07月25日 02時33分27秒 | その他
 みなさん、22日土曜日の午後一時からテレビ愛媛で放映された「佐伯さんちの三つ子ちゃん」という番組を見ましたか。
 私の友人の佐伯くんの実話を番組にしたものです。
普通、障害者をもつ親御さんは、子どもを見世物にしたくないという理由から、このように進んで番組に協力するということは稀なのですが、私の友人だけあって、この佐伯くんはユニークなのです。
何よりも、世間という厚い壁に対する挑戦なのです。
そして、その挑戦こそが同じ境遇の子どもたちや家族の礎になろうとしているのです。決してスタンドプレーや目立ちたがりというような下世話な理由からではないのです。(佐伯くん、あんたは本当に偉い!!)
 また、彼が昔、プロのミュージシャンというのを聞いていたのですが、一度もまだ生歌は聞いたことがありません。
それが、今回、番組の中で、はじめてカッコイイ、男前の佐伯くんを見てしまいました。
 でも、この番組の主役は親父ではなく、スバルちゃん、コスモくん、ヒーローくんの三人の子どもたちと奥様ではないかと思うのです。
 また、彼からは、地域の人たちの支えについては、話では聞いていましたが、テレビを通して、本当に地域の温かいサポートを見ていると、胸が熱くなりました。
久谷という地域が、人情のある地域だと言ってしまえばそれまでですが、ずっ~とお世話することの大変さは、真似のできることではありません。
自分が、地域づくりを担う職責であるということを改めて認識させられました。
佐伯くんは、私よりも10歳も年下なのに、時々、私を無言で教育してくれます。
悔しいけれど、彼の方が(理屈に)合っている場合が多いのですが....。
 しかし、佐伯夫妻の凛とした生き方、本当に凄いと思いました。敬服いたしました。
この番組をお見逃しの人は、DVDに録画しておりますので、いつでも貸し出しします。
 最後に、番組の中で、幼稚園にあがるときに教育委員会の人と話し合いをしていて、思わず奥様が涙するシーンがありましたが、別にご夫妻をいじめていたわけではなく、子どもたちにとっての最善の方策をアドバイスしていたと思うのです。
なぜなら、弁護するわけではありませんが、対応した幼稚園担当の職員も佐伯くんと同じ境遇にあり、誰よりもご夫妻の気持ちを一番察することができる人だからです。

お久しぶりの友人

2006年07月24日 22時10分16秒 | その他
 今日、久しぶりに内子町の森本純一さんが尋ねてきてくれた。
友人といっても、私よりは年上なのですが、友人のように付き合ってくれています。
 森本さんとの出会いは10年以上もさかのぼります。
「非営利団体におけるマーケティング研究会」という自主研究会をつくっていた頃、最初に視察に行ったのが、その当時、完成まもない「内子フレッシュパークからり」でした。
その時に、丁寧に説明いただいたのが、森本さんなのです。
 「からり」は、森本さんが手がけたといっても過言ではありません。
何よりも驚かされたのは、森本さんの卓越した経営手腕でした。
当時、POSシステムに興味を持っていた(選挙入場券に全国で最初にバーコードを活用したのは松山市がおそらく最初であったと思うが、そのシステム開発に携わったこともあり、POSシステムに関心があったのです。)私は、そのシステムについて様々な質問をさせていただいた。
 本当に驚かされたのは、農家にディスプレイ付き電話を各農家に配布し、一時間おきに売上数と売上高を確認できるようにしてあったことです。
これにより、生産者は欲が出てくるしかけなのです。
事実、小遣い程度の売上でいいと考えていた生産農家は、売上高で欲が出てきて、さらに残り数も表示されるため、あわてて追加をからりに持って行くという現象が生まれたそうです。
そして、からりに生産農家が出向くことにより、直接、消費者の声を聞く機会が増えていき、消費者が何を求めているかということを聞くようになったのです。
本当に、よく考えられたビジネスモデルで、おそらく農業でITを活用した成功モデルの典型でしょう。
 それから、さまざまな講演会で御一緒させていただく機会が増え、愛媛大学の寄附講座の時には、森本さんに、双海の若松さんに私も加えさせていただき、まちの活性化というテーマで討議させてもらってから、親しくつき合わさせていただいているのです。
 そして、久しぶりにお会いした森本さんは、今も、アグレシブルに動き回っておられます。
今日お聞きした話では、農家と松山市の経済人に森本さんも加わり、3月に企業組合「内楽農(うちらーの)」の設立に参加されたとのこと。
 これは森本さんの仲間の農家が高齢化が進み、農産物を運べない農家が出てきたということと、県内で最も大きい消費地である松山市には、車で買い物に行けない高齢者がいるということが、動機になったとのこと。
 「内楽農」の目指すものは高齢者を中心に据えた農業の展開なのです。
週2回、内子町内の農家の庭先で集荷。
松山市木屋町1丁目の店舗に運んで販売しておられるとのこと。
駐車場もなく、歩いて通う高齢者が対象だそうだ。週2回買ってもらえれば、お年寄り夫婦の食卓はまかなえるとのこと。
 からりと内楽農が目指すものは、農家の自立で変わらない。しかし、出荷する側と購入する側の想定が全く違うから、補い合うとも考えておられる。
 「消費者のニーズは多様。ならば販売するシステムも多様であった方がいい」。だから、森本さんは両方に出荷する。
 本当に、森本さんらしい。

たくましい部下たち

2006年07月23日 11時50分02秒 | その他
 公民館主事による市公連主事部会研修会を21日の午後から北条公民館の会議室で行いました。
 内容は、「公民館を元気にするために」というテーマで私が講話し、そのあと「どのようにしたら楽しい公民館がつくれるか」というテーマでグループ討議を行いました。
 参加者は、行事の多いこの時期にも関わらず、全体の3/4が参加しました。
何よりもうれしいのは、主事部会の研修会はこれで既に3回目になるのですが、参加するごとに部下たちの意見が前向きになっていることと、課題に対する視点が本質的なところを指摘し始めてきたところです。
そして、地域住民にとってどのような行動をとるべきかを身につけ始めたところです。
 今回のグループ討議でも、フムフム、なるほどと思うアイデアがいっぱい出てきました。少しづつですが、柔らか頭になってきていると、その確かな手ごたえに頼もしさを感じたのです。
 そして、夜は場所を変えて、北条スポーツセンターに場所を移し、かなり遅くまで、みんなで熱い話を行いました。(もうほとんど、学生時代のノリでしたが)
多くの部下たちは、このことについて課長はどう考えているのか、私が発する一言を聞きのがさまいという姿勢がよくわかりました。
彼らの上司として、私が適切か不適切かは、もう関係ないと思ったのです。
これだけ真剣に私に向かってきてくれる部下がいる限り、私も必死で立ち向かわなければならないと改めて痛感しました。
 講話も一時間の予定が一時間半に延びてしまい、参加者に迷惑をかけたのですが、3カ月半程度の私が、私よりも経験年数の長い部下たちの前で、ただ上司というだけで偉そうに話をする。
自分の中でも、矛盾や不安をもちつつ部下の前で話をしている。
本当にいいのか、葛藤もあります。
でも、私には部下たちに負けないだけの市民に対する熱い思いがある。
それだけで、部下たちに挑戦している。
 そう、私は、部下に「挑戦」しているのです。
部下たちにないものをどれだけ提示できるか。
部下たちの必死さがわかるだけに、私も必死で頑張りたいと思います。
 おかげで毎日がワクワクしています。
 最後に、この研修会のお世話をしてくれた第8ブロックの公民館主事のみなさん、ありがとうございました。 
 

続く後輩たち

2006年07月20日 23時16分37秒 | その他
 本日、職員の自主研究グループに呼ばれて、話をしてきました。
当初、一時間の予定でしたが質問時間を合わせて二時間も長居をしてしまいました。
私よりも10歳から20歳くらい、年の離れた後輩たちです。
私は、60歳定年とすると、あと10年しか勤めることができません。
 振り返ったとき、私が入所したときの業務の内容は、大量定型的な業務を人海戦術で行うものが多く、ほとんどがルーチンワークでした。
しかし、汎用コンピュータが、それらの業務を効率化し、ダウンサイジング、ネットワーク化とシステムの進化は、私たちの業務を大きく変えてきました。
 どのように変わったかというと、業務の内容が複雑化し、高度化してきたことです。
それに加え、社会環境が急激に変化し、そのスピードはますます速くなっています。
 その結果、私たちは的確な判断を迅速に下さなければならなくなってきています。
それに気づいている人たちは、まだまだ少ないかもしれませんが、この予測は間違っていないと思います。
 そういう意味では、私に続く後輩たちは、ますます厳しい状況下に置かれることとなるのです。
 では、何をなすべきか。
それは、日頃の鍛錬に尽きます。
さまざまなものに興味をもち、我々は市民のためにあり、市民に支えられていることを忘れず、何事にも一生懸命になることでしょう。
そうすれば、それに共鳴する仲間が増え、支えになってくれ、一つづつ形になることでしょう。
 がんばる後輩がいれば、私のようなものでよければ、いつでもお役に立ちたいと思います。

新たな出会い

2006年07月18日 23時31分38秒 | その他
 今日、ある人の紹介でまちづくりに貢献しているDT社のNTさんとJAM社のNTさん(偶然にもイニシャルが同じ)にお会いしました。
 DT社のNTさんは、とても気さくな方で、パブリックな空間における広告のあり方について、真剣に考えておられる方でした。
 一方、JAM社のNTさんは、大学を卒業され、すぐにまちづくり関連の会社を起業されたそうで、「儲けは下手なんですが、まちづくりに携われるなら頑張れます。」といった奇特な御仁なのです。
 松山市との成り染めは、JAM社のNTさんが経産省の紹介でインタビューに来松されたところからスタートします。
その一回で、JAM社のNTさんは、すっかり松山のファンになっていただき、中央から松山の情報を上手に流してくれようとしております。
そして、それにDT社のNTさんが巻き込まれたような感じですが、彼自身も今ではすっかり松山に惚れ込んでいただいております。
 松山市をどう上手に売り込むかという会議を行いながら、話が弾みすぎて、食事を忘れるくらい、初対面にもかかわらず様々な話をいたしました。
しかし、本当のことを言うと、DT社のNTさんのお話が新鮮かつ面白く、知らない間に何度も頷いて、気が付けば聞き手にまわっていました。
 どちらにしても、今後とも東京からの視点で、松山を売り込むチエをいただけるとのこと。
こういう応援団が、これからも出てくれることを楽しみにしながら、まちづくりに打ち込もうと決意した一日でもありました。

♪ ケ・セ・ラ・セ・ラ ♪~♪

2006年07月17日 16時17分49秒 | その他
 今日、まちに出たときに三越のアトリューム・コートでJAZZカルテットの演奏をやっていました。
 その中で、「ケ・セ・ラ・セ・ラ」という曲が流れてきたのですが、NHKのある番組の話を思い出しました。
 その話は、以下のとおりです。
 あるごみ収集業をしている人にインタビューをしていたときの話です。

「なぜ、このような仕事をしているんですか。」

「わしゃあ、昔は悪(ワル)やってのう。
 少年院に入ったことがあるんじゃ。
 その時に、フと目にした本に、豚二頭から1千頭までした人の記事が出ておったんじゃ。
 わしは、『これじゃ!!』と思うって、少年院を出て、すぐにその人の弟子になったんじゃ。
 そして、独り立ちし、軌道に乗り始めたときのことじゃ。
 それまで、豚のえさになる残飯が(東京)都の美濃部(知事)さんが、生ごみで収集する
 ということを突然決めて、それから餌がただで入らんようになった。
 それで、生ごみを金を出して買うようになったんじゃ。
 そうしているうちに、地域の住民から豚舎がくさいけん、出てってくれと言われ始めた。
 迷惑施設ちゅうことじゃ。
 そうなると、豚舎はまちからどんどん離れて山奥にいかなならんようになった。
 そうなると、餌場からどんどん離れていき、採算が取れんようになった。
 それだけじゃ食えんので、事務所の紙ごみを集めるようになったが、おかげで睡眠時間は、
 一日三時間くらいじゃ。
 でも、俺たちは金持ちじゃない。
 別に悪いことをしとるわけでもない。
 誰よりも、働いとるが、銭なんか貯まらん。毎日食べるのがやっとじゃ。」

すると、かたわらにいた奥さんが口を継いだ。
「この人と一緒になるとき、(お金を)いっぱい稼いでやると約束してくれたんですが、
 いまだに約束を守ってもらえていないんです。」

 大将、かたわらにあった山のポスターを指差しながら、
「あんた、上りの後には必ず楽な下りが来ると言うじゃろうが、あれは嘘だよ。
 苦しい上りの後は、やっぱり苦しい上りしかないんじゃ。」

「じゃあ、なぜ、この仕事を続けられるんですか?」

「あんた、しんどい、しんどいと思って毎日過ごしとったら、何も楽しいことなんてありゃせんよ。
 苦しくても、楽しいと思いさえすれば、毎日が不思議と楽しくなるもんじゃ。
 人生、『ケ・セ・ラ・セ・ラ』じゃよ。ワハハハ・・・」