走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

食卓コミュニケーション⇒「食コミ」の普及活動

2009年10月29日 23時15分30秒 | 職場の出来事
 今朝、職場で従来からある組織の委員の任期が迫っているので後任人事について話し合った。
これに先立って、今までどおりでいいのか、新たな方向性へ進めるのか担当者たちと話し合っていた。
 考え方としては、社会環境が変化する中でこのままだと形骸化するのではないかという不安があり、変わることについては共通認識をしていた。
 そして、その考え方をすり合わせた上で、上司にネゴに行った。
上司の方も概ね理解してくれ、方向性としては柔軟な組織体制になる方向で合意が成された。
これに基づき、担当者は後任の人事案を作成してくれたのであるが、一点だけ気になったので注文をつけてしまった。

 それは、「食育」の考え方である。
 その理由は、服部幸應(はっとりゆきお)さんのお話を以前聴いたことがあり、そのお話がずっと頭の隅にひかかっていたからである。

 内容は「食育と家庭教育」だった。

 目からうろこだったのは、「家庭教育」と「学校教育」の果たしてきた歴史である。
 服部さん曰く「学校教育を色々と揶揄されますが、学校教育の歴史などわが国の歴史からみればたかだか300年くらいしかない」というお話でした。
 確かにさかのぼっても、学校教育の歴史は江戸時代の寺子屋あたりぐらいからだろう。
 では、それ以前はどうか。
 学校らしき形態は殆どない。

 改めてそう云われてみると、そうだ。
 なのに、日本民族は伝統文化の中で特異な道を歩み、それら一つ一つをすばらしいものへと形成してきたと思う。
その背景にはしっかりとした「教育」がある。

 では、学校もないのにどのように教育してきたか。
その役割を果たしてきたのが「家庭教育」だったのです。
わが国の家庭教育力は、世界水準的に見てもかなりレベルの高いものだったのでしょう。

 そして、家庭教育はどこで行われていたか。
 その殆どが「食卓」だったろうと思うのです。
そして、その内容はそれほど高等な教育がなされていたとは考えにくいのです。
 おそらく、自然や人としての生き方、人権の尊重など、当たり前のことを当たり前に教えていたに過ぎないのではないかと。


 今、その食卓から家庭教育力が消えようとしている。
 「食卓」こそ、教育として守らなければならなかった「場」だったのです。
父親は残業で遅くなり、母親は共働きで疲れ果て、子どもは塾や習い事で食卓を囲むという言葉は死語になりかけている。

 食事は身体の栄養をとる大事な行為だが、食卓は人としてどう生きるかを自ら考えさせる大切な場であったのである。
いまこそ、私たちはこのことに立ち返り、大々的なキャンペーンを打つ必要があると思い始めた。

娘が帰って来た

2009年10月28日 23時52分56秒 | つぶやき
 東京にいた娘が今日、帰ってきた。
 本当に帰ってきた。

 娘は詩(うた)を歌いたいと二年半前に私たちから巣立っていった(ハズ)

 そして、自身で選んだ専門学校に二年通い、この春から自活しながら詩(歌)をさらに勉強したいと言って東京に残った。
 その生活は簡単なものではなく、生活に追われ、夢を追いかけるなど夢のまた夢となっていた。
彼女なりによくがんばっていたと思う。
特にこの半年の彼女の成長には目を見張るものがあった。

 そして、優しかった彼女が、より優しくなった。

 東京には好きな人もいた。(現在進行形です)

 その人と別れてでも戻る決意をしたのは、家族のためである。
 小さいときから、娘は不思議な感性を持ち合わせていた。
 家族に亀裂が入りそうになった時、彼女は何よりも強力な接着剤となった。

 今回もそうである。

 娘が帰ったことで、妻が蘇った。
 母親にとって娘という存在は、父親のそれとは違うものだということを痛感している。
 母親にとって娘は特別なのである。

 娘に対しての「詩(歌)は少し休憩するの?」という問いには応えてもらえず、その回答がないのが諦めていない意思表示なんだとわかる。

 まだ20歳。これからである。
 人生、ときに休憩する時があってもいいんだということを娘から学んだ。

鳩山首相 所信表明②

2009年10月27日 17時28分27秒 | つぶやき
 先日、訪問させていただいたあるチョーク工場のお話を申し上げます。
 創業者である社長は、昭和三十四年の秋に、近所の養護学校の先生から頼まれて二人の卒業生を仮採用しました。毎日昼食のベルが鳴っても仕事をやめない二人に、女性工員たちは「彼女たちは私たちの娘みたいなもの。私たちが面倒みるから就職させてやってください」と懇願したそうです。そして、次の年も、また次の年も、養護学校からの採用が続きました。
 ある年、とある会でお寺のご住職が、その社長の隣に座られました。
 社長はご住職に質問しました。
「文字も数も読めない子どもたちです。施設にいた方がきっと幸せなのに、なぜ満員電車に揺られながら毎日遅れもせずに来て、一生懸命働くのでしょう?」
 ご住職はこうおっしゃったそうです。
「ものやお金があれば幸せだと思いますか。」続いて、

「人間の究極の幸せは四つです。
 愛されること、
 ほめられること、
 役に立つこと、
 必要とされること。
 働くことによって愛以外の三つの幸せが得られるのです。」

「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」、これは社長の実体験を踏まえた感想です。

 このチョーク工場は、従業員のうち七割が「障がい」という「試練」を与えられた、いわば「チャレンジド」の方々によって構成されていますが、粉の飛びにくい、いわゆるダストレスチョークでは、全国的に有名なリーディングカンパニーになっているそうです。障がいを持った方たちも、あるいは高齢者も、難病の患者さんも、人間は、人に評価され、感謝され、必要とされてこそ幸せを感じるということを、この逸話は物語っているのではないでしょうか。

 私が尊敬するアインシュタイン博士も、次のように述べています。

「人は他人のために存在する。何よりもまず、その人の笑顔や喜びがそのまま自分の幸せである人たちのために。そして、共感という絆で結ばれている無数にいる見知らぬ人たちのために。」

 とても素敵な演説だとは思いませんか。
 そして、首相として、がんばって働いている障がい者の人たちを「チャレンジド」と初めて呼んでくれました。(「チャレンジド」の命名は「ナミ姉」こと竹中ナミさんです。)
 どのような人にも、どのような立場の人にも、人間としての尊厳があると思うのです。
そのことをしっかりと語りかけてくれました。

 リーダーとして、その優しさを疑問に思っておられる方もおられるようですが、政治家が本来最低限有して欲しいものだと思うのです。

鳩山首相 所信表明①

2009年10月27日 17時20分36秒 | つぶやき
 昨日、鳩山首相の所信表明がなされた。
 マスコミは、具体性が乏しかったため不満だったようであるが、読んでいてとても人間くさかったような気がする。
 国家を背負っていく首相が、これほどまでに感情を表し、自分の信念や理念を語った所信表明があっただろうか。

 政治家というものは大義によって支えられるものであるということを痛感した。
 自分なりに感動した部分を抜粋する。

 私もまた、この夏の選挙戦では、日本列島を北から南まで訪ね、多くの国民の皆さまの期待と悲痛な叫びを耳にしてきました。
 青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を離そうとしない、一人のおばあさんがいらっしゃいました。息子さんが職に就けず、自らのいのちを断つしか途がなかった、その哀しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられたのです。毎年三万人以上の方々のいのちが、絶望の中で断たれているのに、私も含め、政治にはその実感が乏しかったのではないか。おばあさんのその手の感触。その眼の中の悲しみ。私には忘れることができませんし、断じて忘れてはならない。社会の中に自らのささやかな「居場所」すら見つけることができず、いのちを断つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしいかたちで立て直すことが、私の第一の任務です。

 かつて、多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してまいりました。大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただきます。

五感でコミュニケーションする

2009年10月26日 19時18分53秒 | つぶやき
 最近、仕事柄コミュニティについてよく考える。
 前にも語ったことがあるのだが、時代が緩やかに過ぎていた時代には、地域コミュニティが主流だった。
 しかし、時代は移ろい、個人のライフスタイルも多種多様化し、価値観でコミュニティが形成されるようになった。
その背景には、核家族化やモータリゼーションの発達、さらにはさまざまなモバイルの進化やブロードバンドなどの通信網の発達がある。

 そして、今、コミュニティの基本であるコミュニケーションの質の変化についても疑問を持ち始めた。
文明の発達に反して、コミュニケーションの中身が豊かになるよりも貧相になったと感じるからである。

 「なぜだろう」と自問自答する。

 そして、気づき始めたのがコミュニケーションは単に音声情報を伝達し続けたり、文字情報のみで成立させようとすると無理が出てくるということである。
つまり、五感全てを使って行うのが真のコミュニケーションではないかと。

 つまらない話に聞こえるが、実は人として、重要なものを欠如し続けると、当人以外にも影響が出始めるということである。
それが、今、地域社会の中で絆や互助機能が成立しなくなった要因ではないかと思うようになったのである。

 難しいことではない。
 ひたすら五感を使って表現しながら会話をするだけでいいのである。

 そうすれば、相手がいかに真剣で一生懸命なのかが伝わる。
 伝われば相手も何とか理解しようと努める。

 母が舌癌の手術後、舌の大半を切除したため、何を話しているか分からなかった。
お医者さんからは、「コミュニケーションが円滑にいかないと、本人のモチベーションが下がってきて認知症等になる可能性もありますので、なんとかがんばってコミュニケーションを取るようにしてください」と言われたことがある。

 そして、一生懸命話す母を観て、何が言いたいのかを理解しようと努めた。
 そのおかげで、今は聴き返すことなくコミュニケーションができるようになった。

 「五感でコミュニケーションする」大切なことだと思いませんか?





中島ふるさと体験学習

2009年10月24日 09時09分28秒 | 子ども体験学習
今年度最後の中島ふるさと体験学習。いざ出発です。

   中島・神浦港に到着です。

   よく説明を聴いて

   今日はみかんの採り入れのお手伝いです。

   次に選別作業のお手伝い

  荷造りも手伝います

 選別したみかんをほおばっています

   今度は糖度チェック

   思い思いの場所で写生会。私もつられて、付き合いました。

私は明日予定があるので途中で帰りました。ここからは、部下の網矢君からの報告です。

 中島の思い出や感謝の気持ちを作文に書いてます

 作文と歌の練習が終わり、順次お風呂に入ってます。前回より、落ち着いていてやりやすいです。一応、本日の予定は終了で、おとなしく寝てもらえれば言うことなし・・・。
※歌の練習は特に良かったです。少し感動しました。

 翌日は、お世話になった地域の人たちに感謝を込めて作文発表と歌のプレゼントをしました。

お袋の誕生日

2009年10月20日 23時36分38秒 | つぶやき
 今日はお袋の80回目の誕生日である。

 2年前大病を患い、諦めていた時期がある。
 しかし、元来の生命力の強さから奇跡的な回復を遂げた。
 まさか、80歳の大台まで生きていくのは難しかろうと誰もが思っていた。
そういうことでは、皆一様に驚いている。
ひょっとすると本人が一番驚いているかもしれない。
 
 そして、今日、記念すべき80代の最初の誕生日を祝おうと思っていた。
 でも、仕事で遅くなった。
 せめてケーキでもと思ったのだが、既に当てにしていたケーキ屋さんはクローズしている。
 
 どうしようか...
 しかも、柔らかでシンプルなケーキでないと食べれない。(口腔癌の手術後と食べ物にかなり制約を受けているため)
 スタバのケーキを思い出した。
 帰りかけていたスクーターを反転し、お目当てのスタバを目指す。

 陳列ケースには、お目当てのロールケーキとハニーケーキーが残っていた。
 「テイクアウトで」と言うと、
 応対の子が「誰かにプレゼントですか?」と聞いてきたので、
 「お袋の80回目の誕生日」

 笑われた。

 「バイクなんやけど」
 すると、ガサゴソとなにやら入れていた。

 バイクで帰宅し、「はいよ」とケーキを手渡した。
 「何?」
 「80回目の誕生日やろ」
 「覚えとったんかなあ」
 なんだか、うれしそうだ。

 ケーキの箱を開ける。
 倒れているだろうと諦めていたロールケーキが、倒れていない。
 箱のすき間に、小さな紙コップを伏せて入れておいてくれたおかげだ。

 お袋の誕生日に付け加えられた心配りだ。
 

レッドデータブック について

2009年10月19日 22時42分12秒 | 職場の出来事
 環境部門の若い職員と話していて、新たにレッドデータブックを市民参加でつくりたいという話が出た。

 こういう話こそ、公民館活動の真骨頂である。
すぐに頭の中に浮かんだのは、子どもたちの笑顔である。

専門家が地域に指導に来てくれるなら、子どもたちにレッドデータの説明をして、フィールドワークとしての「レッドデータ・マップ」を作成する。
身近なところから環境を考える、まさに「わかりやすく」、「楽しい」事業になりそうだ。

 そして、彼らにお願いしたのは企画が出来上がってこうして欲しいと持ち込むのではなく、企画の段階から我々を混ぜて欲しいとお願いした。

 地域社会の中で事業を立ち上げようとした時、もっと我々の力を信じて欲しい。

後記:写真は立岩ダッシュ村にきていただいた愛大の小田先生の奥様が作ってくれた作品です。

久米地区体育祭

2009年10月18日 13時02分07秒 | 地域情報/体育祭
 今日の締めくくりは久米地区の体育祭です。
 安永公民館長とは久しぶりでしたので、心なしか喜んでくれたような気がします。

ここの体育祭では、中学生がボランティアで60名手伝いに入っています。
こういったアイデアと実践は安永公民館長の真骨頂です。
 なるほど、なるほどです。

 また、「来年からはひょっとすると分館が一つ増えそうだ」と言っておられました。
 久米地区はまだまだ人口が増えそうです。
 市内の人口格差を肌に感じるお話でした。

  

素鵞地区体育祭

2009年10月18日 11時24分23秒 | 地域情報/体育祭
 第5弾は素鵞地区(http://www.matsuyama-people.jp/04/soga.html)の体育祭です。
ちょうど小学生のかけっこが始まるところだったのですが、驚いたのは子どもの多さです。
あまりの多さに、この種目だけでかなりの時間を要していました。
 味酒に引き続いての驚きです。

 リング回し競争に出させていただいたのですが、視るのとやるとでは大違い。
 難しい!!

 それから、あいさつ運動のパレードにも参加させていただきました。
このパレードでは標語のついた風船を放つのですが、過去にはこの風船が徳島まで届いたそうです。

  

  

  

 

清水地区体育祭

2009年10月18日 10時15分41秒 | 地域情報/体育祭
 第三弾の清水地区(http://www.matsuyama-people.jp/04/shimizu.html)の体育祭にやってまいりました。
 河本公民館長の傍にすわらさせていただき、競技を参観しながら地域情報の今後の手法についてお話をさせていただきました。
 このことについては、同館長はその必要性を理解していただいており、近々公民館の組織として新しく立ち上げてくれるということでした。
心底感激しました。

 そうなんです公民館として続けていただくためには、組織を立上げ、人を育てる仕組みをつくることなのです。
 地域ICTの利活用が地域の現場で少しづつ形になり始めた実感を感じました。

 今日の風はとても気持ちいい。

   

  

生石地区体育祭

2009年10月18日 08時12分20秒 | 地域情報/体育祭
 今日の第一弾は、生石地区(http://www.matsuyama-people.jp/04/syouseki.html)の体育祭からです。

 角田公民館長にとっては、はじめての体育祭でした。
 角田公民館長なりに色々とやりたかったようですが、今年はじっくりと見てみたいという思いから変えなかったようです。(但し、今年から競技案内などの放送は中学生に任せていました)

 もともと松山市小中学校PTA会長をされていた方なので、そういった経験も今後生かされるだろうと期待しています。
 以前は、どこの地域もPTA役員の方々が子どもの卒業とともに地域活動の方へ移行し、その人たちが今度は地域を支えるというケースが多かったようです。

 その復活は難しいと思っていますが、角田会長には大いに期待しています。