走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

京町家とコミュニティ

2012年05月19日 18時56分23秒 | 考え方

 今、京町家に興味があって勉強している。
 別に京町家の建築技術を学んでいるわけではない。

 京町家の「しきたり」に関心があるからだ。
 例えば、京町家のどの家も家訓など先祖の言い伝えを重んじる。

 その内容の多くが世間様に迷惑をかけない、贅沢は厳に慎むべきなどの家庭内のルールをつくり、代々受け継いでいる。
 前に「自立」は、まず「自律」から始まると書いたが、よくよく考えると地域のルールを作る前に各家庭のルールをしっかり作るというのが何よりも大切だと思う。

 核家族化し、それらの家訓がなくなってしまった。
 食卓に家族が集まらなくなってきたため、その家訓も継承する機会が減ってしまった。

 また京町家では、「門掃き」という暗黙のルールがあり、なによりも世間づきあいを大切にする風習がある。
 この根底には、世間づきあいを大切にすべしというしきたりなのである。

 さらに木造建築である京町家は密集して並んでいるために「火の用心」について念入りだという。
 各家庭には「火用心」という版木があり、常に火への恐れといさめを代々継承している。


 ここまで書くと気付かれると思うが、コミュニティの崩壊は地域全体が一気に壊れていき始めたのではなく、各家庭の中から壊れ始め、総合的に地域の崩壊へとつながったと考える方が自然のような気がする。
 相手を思う、人を思う気持ちがあり、その大切さを家族で伝え合う。
 そして、それをできることから少しづつ行動に移して行く。

 そのことが遠回りのようだが、地域コミュニティ再生の早道かもしれない...

はんなり

2012年05月18日 20時16分28秒 | 地域散策
 「はんなり」とは京都弁で、「明るくものやわらかなさま、はなやかなさま」という意味です。
 そして、地域を散策していて川の土手で黄色い花が咲き誇っていたので近づくと金雀枝 (えにしだ)の群生でした。
 まさに春の季節にふさわしい「はんなり」としたひと時でした。












ハートが必要

2012年05月17日 19時08分29秒 | 地域情報/その他

 生石地区には放課後子ども教室として「生石子どもいきいき教室」がある。

 松山市の放課後子ども教室の原点が生石小学校にある。
 公民館とも密接にかかわっていて、こういうケースは少ないという。

 同教室の実行委員会の会長であり、公民館長の角田さんが、今回、その活動をまとめ発表をするという。
 事前にいただいた資料について意見を求められていたので、自分なりに好き勝手に意見を言わせてもらった。

 角田さんのすごいところは、好き勝手に言う私の意見に真摯に耳を傾けてくれるということ。
 物静かだが、うちに秘めたる情熱は凄いものがある。

 同教室の年間活動日数は177日。
 協力ボランティア数が延べ1,261人。
 しかも協力ボランティアが増えているというのである。
 このことは、この教室を支える女性スタッフの皆さんの地道な活動にある。

 そして、愛媛大学教育学部の学生の皆さんが「地域連携学習」に位置づけ、協力してくれていることも大きい。
 当然、それに理解を示し、学生の皆さんを指導してくれている先生方もりっぱである。

 成果として、子どもたちは「学校へ行くのが楽しくなった」といい、保護者の皆さんは「地域の子どもや施設などの関心が高くなった」という。
 さらに、協力をいただいている地域の人たちからは「感謝」され、時に「感動」をし、自己の「成長」を感じるという。そして何よりも「子どもたちから学ばせてもらっている」という。
大学生の皆さんにとっては「学びの実践」になっており、「未来の先生の学びの場」にもなっているのである。

 昨今、「モンスターペアレンツ」という保護者のクレーマーが増える中、この教室にはたくさんの感謝の言葉が寄せられるとともに、ノークレームというのは凄いことだ。

 角田さんに秘訣を訊ねたところ、「ハートですかね」と返ってきた言葉が印象的だった。
 
 すべからく、「ハート」が必要なのである。

収益性と社会性

2012年05月16日 19時02分24秒 | つぶやき

 戦後、高度成長期にかけて私たちは必死で所得を上げるために邁進してきたような気がする。
 そして、それは企業の収益性を追求することで成り立ってきた。

 それは、美徳にすらみえた。

 しかし物質文明に満たされると、物欲のない世代が台頭し始めている。
 例えば、今の若者が車やバイクに興味を示さなくなったという。

 メーカーは、必死でデザインを変えるなどの努力をしているが報われていない。
 価値観が多様化し、過去のようにマスで捉えられなくなってもいる。

 企業自体が大きな転換期に来ているのだろう。

 何をどうすればいいのか、まさにお手上げ状態だ。

 しかし、一方で爆発的に人気が出るメガヒットなる商品も現れる。
 本当に不思議な社会になったものである。

 だがぶれない企業も多い。
 その多くに通じるのが、「世のため、人のため」を最優先に掲げている企業。
 先日も、地元の小さな企業の社長さんとお話していて、思いつきのような話をし、「社会貢献活動として協力いただけませんか」と投げかけると、「うちも決して楽ではありませんが、そういうことをしなければならない時期に来ていると思い始めてましたから、協力できる範囲、協力させていただきますよ」という返事。

 投げかけておいて失礼な話だが、意外であった。

 「この国も、企業人もまだまだ捨てたもんじゃないなあ」と思った。

 収益性から社会性へと脱皮できる企業が、生き残り、成長するのかもしれないと改めて思った。

 

元気になる方法

2012年05月15日 21時29分10秒 | 激励

 心が萎えそうな時、
 やるせない時、
 悲しい時、

 母は天真爛漫に振舞った。

 私が元気をなくしていると、
 必ず、とろろ昆布の入った「素うどん」を作ってくれた。

 母のこだわりは細めん。

 太麺は、品がないというのである。
 よくわからなかったが、その影響か、私もうどんはもちろんのこと、ラーメン、パスタなど、どんな麺も細い方が好きになった。

 なぜ、元気がないときに「うどん」なのかというと、人間、元気がないときには、まず腹の中から温めないかんということのようだ。
 そして、満腹感がないと、人に優しくなれないというのが母の持論だった。

 子どもにはそう説きながら、自分優先を貫いた人でもある。

 なぜなら、うどんを食べている横で、平気でステーキを食べれる人だった...

 

 

就職活動に失敗してもくじけちゃいけない!

2012年05月14日 21時37分13秒 | 激励
 今朝の新聞で就職活動に失敗したために150人の若い命が自殺によって絶たれたという。
 なんとも痛ましいことである。

 ご両親やご家族の失意を思うといたたまれない。

 本人にとっては、努力してもかなえられなかったことに悲嘆し、明るい未来を感じられなかった覚悟の自殺であろう。
 このことを、私たち大人は、「仕方ない」ですましてはならない。

 当人にとっては、そこまで覚悟するのに、本当にもがき苦しみ、それでも成就しない不条理ともいえる現実に対して、恨みにも似た気持ちで「死」という道を選んだのかもしれない。

 しかし、もし、同じような選択をしようと考えている若者がいるとしたら、早まってはいけない。
 この世で最も尊いのは命である。

 その命を自ら断ってはいけない。

 本当に、今は苦しいだろう。

 しかし、君たちが中堅幹部になる頃、会社という組織自身がなくなり始めるかもしれないからである。
 それは、恐らく大小関係なしにである。

 ライフサイクルは商品やサービスだけでなく、組織にも存在する。
 どのように栄華を極めようと、草創期・成長期・成熟期・衰退期と、いつかはなくなる運命にある。

 終身雇用制や年功序列制がわが国から消え始めた時点から、「学歴社会」は壊れる運命にあった。
 その証拠に、「彼は東大出」といわれて驚かれて重宝がられていた時代から、「へぇ~」と一瞬、驚いても、彼がそれなりの実績を示していなければ消えてしまう時代になった。

 そして、会社のライフサイクルが異常に短くなった。
 経済部門にいた頃、会社年齢は30年といわれていた。
 しかし、それから10年、今は10年も持たないといわれている。

 何が言いたいかというと、これでは人が育たないのである。
 今までのようなプロジェクト方式では、最低、人が育ったと思われる時間としては6年から8年くらいはかかる。
 なぜなら本当に育てるためには、ゼロからスタートさせるプロジェクトに参加させ、苦労させて初めて通用し始める人材に仕上がる。
 そして、経営幹部に育てるための教育にいたる頃には、会社自体がなくなる可能性が出てきているということである。

 これは小さな会社だけではない。
 そうなると、どうなるか。

 会社という組織がなくなるのではないかということ。
 プロジェクトごとに、それを達成できるスキルを持った人材がそのプロジェクトのためだけに集まり、行動を起こす。
 そして、達成すれば消滅する。
 あとは、パッケージ化できるので会社という形態も必要なくなる可能性がある。
 そんなことはありえないと思われている方は、あなたの子どもや孫の時代に、それが現実となっていることに驚かれることであろう。
 雰囲気的には映画「ミッション・インポシブル/スパイ大作戦」みたいな感じである。

 そこで、就職が決まらずに悩んでいる若者に提案する。
 どうだろう、まず居直ってみては。

 そして、居直ってアルバイトをしながら、ボランティア活動をしてみてはどうか。
 時代は、収益性から社会性へと移行している。
 社会性を持たない企業ほどライフサイクルはより短い。
 そしてなによりも、社会という「現場」を見ることができる。
 君のキャリアの中にボランティア活動やNPO活動というキャリアがあなたの明るい未来を創ることになる。

 それから、英語と中国語をしっかりマスターすべきである。
 これだけで人類のほとんどの人たちとしゃべれることになる。
 つまり、君はそれだけで国際人の入り口に立つことになるのである。

 これからのビジネスの形態は、世界人になること。
 決して企業人になることではない。

 人のために頑張れる人になれば、神様は決して君を見捨てたりはしない!
 

題名のない音楽会

2012年05月13日 23時25分24秒 | ちょっといい話

 今夜、BSで「題名のない音楽会」の再放送(本来は5月6日放送)を観た。

 シロウトの喉自慢のような企画。
 だが、そこはクラッシクを基本においた番組であるので、選曲も童謡からオペラまで幅広く、しかもいずれも上手である。

 年齢は、小学二年生の女の子から87歳までのご婦人まで幅広い。

 その中でも、グランプリを受賞された87歳の冨田富美さんが歌われた「この道」は感動した。
 冨田さんが本格的にコーラスをはじめられたのは、80歳になってからという。
 審査員から、「なぜその年齢から始めようと思われたのですか」という問いに対して、「子どものころから歌うことは大好きでした。でも、戦時中だったために父親に反対され、ずっと我慢していたのですが、反対する人が居なくなったので始めました。」

 冨田さんが歌われた「この道」は子どもの頃聞いて以来だった。
 
 87歳という年齢なのに凛とした姿勢。
 母は、80歳前から腰が曲がっていた。
 ハリのある声。
 どうしてもお袋と重ねてしまう。

 涙が流れる。
 審査員の森公美子さんも、山口智充さんも、高嶋さち子さんも泣いている。
 司会の佐渡裕さんさえも

 冨田さんは自分のすべてを語ったわけではない。
 審査員が訊ねる前に歌を聴きながら本当に涙が出た。
 
 人は、その生き様が何を語らなくても立ち居振る舞いに現れるという。

 自分もこのような生き方ができるのだろうか...
 無理かなと、既に後悔の念に苛(さいな)まれる。

 どちらにしても、今宵は、素敵な歌を聴くことができた。 

 

 
 

失敗を褒める会社

2012年05月12日 17時10分41秒 | ちょっといい話

 産経新聞ニュースを見ていて、とても素敵なニュースだったので紹介しょう。

 半年に一度、優れた成果をあげた社員に対する表彰制度を設けている機械部品製造業の太陽パーツ(堺市北区)。
 同じような制度を設けている企業は珍しくないが、最も顕著な功績を挙げた社員に贈る「社長賞」とともに、「大失敗賞」を設けているところがちょっと違う。
 「大失敗賞」の受賞者も、社員全員を前に社長から表彰状を受け取るという。
 社員はいったいどんな気持ちで“栄誉”を受けるのだろう?

 「大失敗賞」はその名の通り、大きな失敗をした社員に与えられる賞。
 もちろん副賞もつく。
 金一封1万円。失敗をほめられたうえに1万円とは…。
 もっとも、ただ単に失敗すればもらえるわけではない。
 ここがこの賞の賞たるゆえんである。
 「大失敗賞」の選考基準は、何か新しいことに挑戦したうえでの失敗であること。
 たとえその失敗によって会社に幾ばくかの損失を与えたとしても、「会社は失敗を乗り越えるノウハウを得たことになり、今後の事業展開にとってプラスになる」との価値判断がこの賞のカゲにある。

 「もちろん挑戦して成功すれば一番いいのですが、何もしないよりは挑戦して失敗する方がいい」と総務部の山根数豊さん。
 「失敗したからといって、代わりの人材もいない。
 一度失敗しても、次は活躍してほしい」と話す。
 社員が少ない中小企業にとって、人材を大事に育てたいという思いも込められている。

 「大失敗賞」第1号は19年前の平成5年にさかのぼる。
 “栄冠”を手にしたのは、当時30代半ばの課長職の社員だった。
 彼は新たに自動車関連用品の事業を拡大しようと、自ら中心となって企画を練った。
 どんな商品がいいのか、どうやって売るのかなど思案を重ねた結果、車用の芳香剤やカップホルダーなどを製品化し、カー用品店に販売した。当初は大手用品店に販売が順調に進み、手応えを感じていたが、半年後、売れ残った大量の商品が返品され、あっという間に在庫の山ができた。
 この「大失敗」によって約5千万円という、当時の同社の1年間の利益が吹っ飛ぶような大損失を出してしまった。

 この「大失敗」の原因は、業界特有の商習慣を理解していなかったことだった。
 そして、このときの経験から、同社は新規事業に進出する際には、しっかりと事前に市場をリサーチするノウハウを得た。
 受賞した男性社員はこの失敗を見事に生かし、同社が中国に進出する際は現地法人のトップとして活躍するなど、その後、多くの功績を残した。
 現在、役員として経営の中枢を担う存在になっている。
 「大失敗賞」の授賞式の際には、城岡陽志社長が「これでチャラだからな」などと声ををかけてその場を笑い飛ばすなど、社員の性格や失敗の内容を考えながら、失敗を引きずらないように気をつけている。
 「この制度のおかげで、失敗を恐れず、挑戦する社風につながっています」と山根さんは話す。(産経新聞/阿部佐知子)

 ね、とても素敵な話でしょう。
 失敗を恐れない。
 むしろ、失敗を恐れて何もしなくなることを恐れる企業風土をつくろうとしている同社は、まだまだ成長することでしょうね。

中学校のキャリア教育

2012年05月10日 22時53分13秒 | びっくり

 今日、市内の中学校のキャリア教育の講師を頼まれた。
 その中学では、熱心にキャリア教育に取り組まれているということで、まず子どもたちに「将来、どんな職業につきたいか」と訊ねるそうである。

 景気が悪いせいか、公務員志望が100名もいたというのである。
 そのため、2時限にわけ、2回同じ話をして欲しいということであった。

 志望する職業はさまざまで、どの職業もその職についている人たちが講師になって話をするそうである。

 ということは、私が公務員の代表??

 私が選ばれた理由を訊ねると、声をかけてくれたNさんが、「公務員といえばあなたの顔が真っ先に浮かびました」と気分がよくなる返答。
 つい、ずにのって、「ぜひやらして欲しい」といった内容の返答をしてしまう。

 いつもながら、勢いで返しておいて時間の経過とともに後悔する。
 「またやってしまった...」
 
 「何か決め事はありますか?」と訊ねたところ、「お任せします」という返答。
 なんと大胆というか、思い違いをしているというか、暴走しますよ...

 持ち時間は50分×2時限

 改めて学校の先生の凄さを感じる。

 子どもたちの夢を壊さないような話ができればいいと思っている。
 将来の優秀な後輩たちをリクルートするつもりで頑張ろうと思う。

玉に瑕(きず)

2012年05月09日 21時29分21秒 | 読書
 若い友人たちと二週間に一回ペースで早朝に読書会を行っている。

 要領は、小難しい本を選び、各章ごとに担当を決め、その内容をわかりやすく整理しレジメを作成、その担当者が発表するというものである。
 今回もなかなか難解であった。

 最年長ということもあり、若い友人ほど理解できない(もともとデキがよくないせいか...)
 自分の番が回ってきたときは、咀嚼できないため、一ヶ月くらい待たせてしまった。

 それでも十分に理解できていなかったような気がする。
 本当に申し訳なかった。

 でも、気づいたことがある。

 以前だと、わからないときでもわかったようなフリをしていたが、年を増してくると正直に「わからないから待ってください」と正直にゲロできるようになった。
 本当に不甲斐ないとは思うが、いたしかたない。
 わからないことは、わからないと正直に言うことにしている。

 弱音や本音を言える。
 どうやら若者の特権というよりは、年寄りの特権かもしれない。

 なんとか若い友人たちについて行くというよりも、引っ張ってもらいながら、もう少し勉強をしようと思っている。
 残念なことに、成長の跡が見えないのが「玉に瑕」である。

ターニングポイント

2012年05月08日 22時06分48秒 | つぶやき
 この連休間にいつものごとく、まとめて読書をした。
 家にいたほうがいいだろうと思ったからである。

 母の関係の残務整理もできたようで進まない。
 つまり、やる気がないのである。

 とくに、残った母の荷物をひも解くのは気乗りがしない。
 そんな時、手元にある本に、つい手を伸ばしてしまう。

 そして、本を読んでいて、ふと気づいたことがある。
 独学で、さまざまな分野の社会的課題について、自分なりに分析していたことがしっかりと検証され、書かれてあることに。
 そして、それが的を外していなかったことに、もっと驚く。

 最近では、この国のありようが、あと2~3年で大きく変わるのではないかということである。
 私は預言者ではない。
 だから、予言するつもりはないのだが、なんとなくそんな気がするのである。
 ひょっとしたら、国家という体を成さなくなるくらいの大きな変化である。

 でも、それは政治ではないような気がする。
 例えば、さらなる大震災。はたまた、中国や米国の経済破綻などなど
 とにかく不条理な要因によって変わる可能性があるような気がする。

 そして、そこがターニングポイントになり、この国は再生への階段を歩み始めるような気がする。
 一部の人たちは、この国が終わったかのように語るが、ヘタをすると世界を引っ張るようなけん引役になる可能性がある。
 例えば、ジャパン・サービスは心地よく、世界のあらゆる人が支持してくれ始めた。

 そのルーツは、お茶を茶道という文化にまで高め、わびさびという究極の削る文化を確立しながら、一期一会を背景としたおもてなしという心地よい文化へと浄化させた。
このことは、この国が地の果てに位置し、最終的にすべての文化を消化することが必然的であったためかもしれない。

 この国も、まだまだ捨てたものではない。

 そして、この国が再生する時、求められるのは組織ではなく、スキルを持った個のコミュニティのような気がする。
 そのコミュニティは固定化したものではなく、アメーバーのようにプロジェクトごとに急に生まれ、時に分離したり統合したりしながら、ミッションが完結すれば消滅する。そんなコミュニティなのである。

 そのためには、このスキルアップを高めていく必要がある。
 私自身にとっても、今がまさにターニングポイントなのである。




不思議なヤツ

2012年05月07日 23時56分06秒 | すばらしい出会い
 ずっと年下だが、私にはたくさんの友人がいる。
 例えば、Y君。

 母の葬儀のときに花を贈ってくれた。
 通夜も葬儀の日時も場所も教えていなかったのに。

 通夜もひと段落し、そのY君にお礼の電話をかけた。

 すると、電話の向こうで泣いているのである。

 「あ!私。お花届いたよ。ありがとう。」

 鼻水をすすりながら、
 「なんでこんな時に電話してくるんですか。」

 「いや、なんでてうれしかったから...」

 「お礼の電話なんかいいですから、お母さんに付いといてあげてください。」
 怒られた。そして、電話を切られた。

 Y君は、私の母親と一度も会ったことがない。
 でも、彼とは世間話をよくした。
 
 にしても、自分の親が死んだわけではない。
 でも、自分のことのように泣くのである。

 だからといって、通夜や葬儀に顔を見せるわけではない。
 不思議なヤツである。

 きっと、悲嘆にくれた私を見たくなかったのであろう...
 でも、葬儀の間、畑に出て天を仰ぎ見ながら涙するヤツである。
 まさに、子どもである。

 憎めないヤツである。
 腐れ縁というやつか...

 自分は恵まれているとつくづく思う。
 
 

まとめて言うていきんさい

2012年05月06日 22時43分33秒 | 家族の出来事
 母が亡くなって2週間という時が流れた。
 「時」というのは、ときに残酷で、ときに寛容である。

 振り返ったとき、ああすればよかった、こうすればよかったと悔恨の情ばかりが残るということでは残酷である。
 しかし一方で、そういった悔やみも含めて故人の思い出をゆっくりと消し去っていくということでは寛容である。

 私も、そろそろ立ち上がらなければならない。
 特に、この四ヶ月間、ある意味苦しかった。
 あるときは、何もできない自分に対して不甲斐なさを飛び越して、母の問いかけに対しただ黙るしかなかった己を責めた。

 葬儀の時、次のようなエピソードを紹介させていただいた。

 私が大学に行く前夜の出来事です。
 父が仕事中の不慮の事故で死んで一年しかたっていなかったため、母のことが心配で後ろ髪を引かれる思いでした。
 そんな私の思いを母は察知していたようです。
 真面目な顔をして、「ここに座って、私に『さようなら』を言うていきんさい(母は、怒ったり、真面目な話をするときに、出身の広島弁が出た)」という。

 あまりの真面目な顔に、母の前に正座をしました。
 母はこう切り出しました。
 「明日、お前は私の元から旅立つ。その時に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  そして、四年後、お前は就職でこの地に帰らんかもしれんよねぇ。その時に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  次に、お前が嫁さんをもろうた時、私はお前に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  そして、年の順でいったら私が先に父ちゃんのところに行くんじゃけん、やっぱりその時に『さようなら』を言わんといけんじゃろう。
  面倒くさいけん、まとめて『さようなら』を言うていきんさい」
 そういう母の真面目な顔に、私は「じゃあ、さようなら」といって深々と頭を下げた。

 畳に涙がいっぱい落ちた。

 母の思いが嬉しかった。
 顔を挙げると、不思議と肩の力が抜けたような感じがした。
 あの時から、私たち親子は特別な関係になったと思う。

 私は、あの時、あなたに「さようなら」を言ったので、今日はもう言いません。
 38年ぶりに会いたがっていた父に会ってください。

 負けず嫌いの母は、妙に気位が高く、自尊心の塊のような人だった。
 自分にはとても厳しく、小さい時から家事一切をさせられた。
 だから、一人暮らしをはじめても何も困らなかった。
 洗濯どころか、シャツのアイロンがけまでできた。

 生ゴミを出すのは私の当番だったので、大学時代の4年間、週2回の下宿のおばさんのゴミ出しを手伝った。
 そのおかげで、そのおばさんにえらく感謝された。
 「下宿生だからといってえらそうにしてはいかんのよ。自分の親だと思って手伝えることは手伝ってあげんさい。」
 普通のことを普通どおりする。
 それだけを教えてくれた母親だった。

 今回の母の死に際しては、たくさんの方々からご厚情をいただいた。
 人の優しさをしっかりと受け止めるようにと、母に教えられたような気がする。

 そのお返しに、
 今の自分にできること。
 人のためにできること。
 そのことを見つめなおすいいタイミングかもしれない。

 次のステージに向けて、幕が開いたような気がする。