走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

あの日がやってきた

2014年03月11日 22時28分32秒 | 東日本大震災

あの時、私は道後支所にいた。

なにやら東日本で大きな地震が起こったらしいというニュースが飛び込んできた。

テレビのスイッチを入れると、まもなくして大きな濁流が見えた。

津波だった。

それがただごとでないのは誰の目にも明らかだった。

ただ呆然と立ち尽くす、という言葉が当てはまるあまりにも悲惨な光景だった。

時は無常にも人の記憶を風化させる。

しかし、あの日、あの時、あの地震と津波と原発事故に遭遇した人たちの心の傷は、恐らく最期まで消えない。

私たちがどれだけ心寄せ合っても、その悲しさは大きすぎる。

悲しみや苦しみの大きさは、それが大きければ大きいほど心の傷として刻み込まれる。

そして、さっきまで元気だった人の顔が一瞬のうちに消え去ってしまった現実と向き合って生きている人たちの心の傷は、あまりにも深すぎる。

目の前で自分の手の先から愛する人たちが津波に飲み込まれた人たちは、恐らく、今もその光景がフラッシュバックされ、熟睡したことがないかもしれない。

悔やんでも悔やみきれない。

何度天を仰ぎ見て、尽きることのない涙を、何度も何度もぬぐいながら、その焦燥感を埋め尽くせない気持ちを押さえ切れず慟哭したことか...

なんと運命は無常で儚いことかと...

今も、これからも私のできることは、この日を忘れないために黙祷をささげるだけ。

その御霊が安らかんことを祈りながら


生まれ変わったら

2014年02月19日 19時18分23秒 | 東日本大震災

友人のNさんから先日行われた公演の感動した話を聞かせてもらった。

内容は、次のようなものであった。

東日本大震災の時に多くの自衛隊員が捜索活動に携わったことはご存じであろう。

ある地区で、路頭に迷った婦人がおられた。

おそらく、来る日も来る日も誰かを探し、さ迷い歩いている様子だったという。

明らかに憔悴(しょうすい)しきっており、放っておけば倒れるまで探し続けることは誰の目にも明らかだった。

自衛隊員の士官が、その婦人にやさしく声をかけた。

「どうされましたか?」

我に返ったように婦人は応えた。

「息子が、息子が見つからないんです。」

「私たちが捜しましょう。休んでおいてください。」とやさしく声をかけた。

そして、士官はその婦人から息子さんの特徴や着ていた衣服の特徴を聴くと全員に伝え、捜索するよう命じた。

その捜索は簡単ではなかったという。

湿地帯のようなぬかるんだところに身体を半分以上つかりながら、重い瓦礫を取り除く作業が何日も続いた。

死臭と下水道のような臭いが入り混じった中での作業は過酷そのものであったという。

そして、それらしき子どもの遺体をがれきの下から見つけたとき、損傷が激しく、それは無残な状態だったという。

それでも、自衛隊員は水道水でその遺体をきれいに洗い、やさしく毛布に包んだ。

そして、衣服がそれとわかるように腕だけを出し、母親にその遺体を差し出した。

母親にその顔を見せるにはあまりにも忍び難かった。

母親はその衣服と遺体の大きさから、「まちがいありません、私の息子です。」と告げた。

そして、その遺体を受け取った母親は帰らぬ息子にやさしく語りかけたという。

「よかったね、自衛隊の皆さんが見つけてくれたよ。今度、生まれ変わってきたらお前も自衛隊に入り、人の役に立つ人間におなり...」と。

その周りにいた自衛隊員全員が天を仰ぎ慟哭したという。

今、国会では戦争ありきで議論がなされている。

何が正しいか、正しくないのか私にはよくわからない。

ただ、私たち日本国民はそれほど馬鹿ではない。

「平和ボケ」と言われようと、どの民族よりも平和をこよなく愛している。

そして、被爆二世として核の怖さと悲惨さを知っている。

そんな国民が戦争を望むであろうか。

戦争の道につながることを望むであろうか。

しかし一方で、たとえ戦争をしたくなくても自国の利益しか考えない隣人がいて、戦争を仕掛けてきたとしたら、いったい誰が守るのであろうか。

そういったことを日本国民として一人ひとりが真剣に向き合い考える時期に来ているのは確かだと思う。


東松島市の復興状況

2013年04月24日 21時47分02秒 | 東日本大震災

 今朝、久しぶりの朝勉(朝の勉強会の略)を行った。
 テーマは、宮城県東松島市に派遣されていたG君が帰ってきたというので報告会的な内容になる。

 当時の悲惨な状況をリアルに伝えてくれた。
 泥だらけの遺体を飲み水を減らしてでも洗浄水に回したこと。
 泥を落として、初めて自分の身内だと気づいた時の深い悲しみ。

 今だに、遺体安置所になっていたセンターに足を運ぶことができない職員もいるという。
 簡単に「わかる」と言えない状況の話ばかりであった。

 テレビなどの一部報道から伝わらなかった現実と対峙してきたG君は、これから先の職員生活の中で貴重な体験をしてきたことだろう。
 
 勉強になる点も教わった。

 同市は震災瓦礫を当初から分別していたおかげで、後々の処分費が分別しなかったところと比べると大幅に少ないという点である。
 震災直後は、さまざまなことが重なり、冷静かつ客観的な判断が難しい。
 だからこそ、司令塔になるリーダーの裁量は大きい。

 まちがってもセクト主義や前例踏襲主義を持ち込むと、その時点で機能しなくなり以後に遺恨を残しかねない。
 そのことは、市民への影響として直結する。

 どのような状況下でも、しなやかでしたたかな視点と行動力が大切であることを改めて学ばさせていただいた。

花は咲く

2013年03月11日 22時09分15秒 | 東日本大震災

 東日本大震災から早二年。
 被災者にとってはあっという間の二年だったかもしれません。
 そして、まだ帰り来ぬ人を待つ人にとっては長い二年だったかも知れません...

 亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。


 花は咲く
 花は咲くプロジェクト

 作曲:菅野よう子
 作詞︰岩井俊二

 歌詞

 真っ白な 雪道に 春風香る
 わたしは なつかしい
 あの街を 思い出す

 叶えたい 夢もあった
 変わりたい 自分もいた
 今はただ なつかしい
 あの人を 思い出す

 誰かの歌が聞こえる
 誰かを励ましてる
 誰かの笑顔が見える
 悲しみの向こう側に

 花は 花は 花は咲く
 いつか生まれる君に
 花は 花は 花は咲く
 わたしは何を残しただろう

 夜空の 向こうの 朝の気配に
 わたしは なつかしい
 あの日々を 思い出す

 傷ついて 傷つけて
 報われず 泣いたりして
 今はただ 愛おしい
 あの人を 思い出す

 誰かの想いが見える
 誰かと結ばれてる
 誰かの未来が見える
 悲しみの向こう側に

 花は 花は 花は咲く
 いつか生まれる君に
 花は 花は 花は咲く
 わたしは何を残しただろう

 花は 花は 花は咲く
 いつか生まれる君に
 花は 花は 花は咲く
 わたしは何を残しただろう

 花は 花は 花は咲く
 いつか生まれる君に
 花は 花は 花は咲く
 いつか恋する君のために

復興トマト、その後

2011年08月26日 21時25分31秒 | 東日本大震災
 嬉しいニュースです。
「復興トマト」のパートナー、株式会社マイファーム(西辻一真代表取締役)は、復興トマトで実証された「塩分を分解する微生物を活用した
塩害土壌改良材」の本格生産を開始します。
販売は9月から。

 更にNTTドコモ、NECと提携して環境・農地用センサーにより改良材の効果測定を実施します。

  http://www.myfarm.co.jp/soil/
  http://www.myfarm.co.jp/newcontents/soil.html

 復興トマトの技術がいよいよ被災地の農地回復に向けて本格稼働します。
岩沼の復興トマトは、すばらしい技術の初めての実証になったわけですね。
 とても嬉しいです。

 今年4月、となりの部屋にあったマイファームのオフィスで
 「大塚さん、塩トマトって知ってますか?」
 「西辻さん、こりゃおもしろいね。やろう、やろう!」ということで始まり、その後東京大学の石川幹子先生のご紹介、岩沼ロータリークラブのご支援で実現した「復興トマト」の植え付け、育成、収穫。
物事が進むときは進むものですね。

 西辻社長は更に海外の展開を視野に入れています。海外には塩害に困っている農地が日本の何倍もあります。
岩沼発の技術が海外で花開く...夢ではないかもしれません。

 次の実証試験は9月11日の「復興キャベツ」植え付けです。皆様もこの機会にこのプロジェクトに参加しませんか?残席9です。

  http://www.npo-noshokorenkei.jp/nsc/business/experience/cabbage0911.html

 復興キャベツ募金もよろしくお願いします。

  http://bit.ly/pzyXeB

 復興トマトについてはこちら↓

  http://blog.canpan.info/noshokorenkei/archive/68

 

 大塚先生、順調に進んでいるようでよかったですね。
 このような被災地復興もあるということを一人でも多くの人たちに知っていただきたいと思いました。

ゆかたプロジェクト

2011年07月25日 06時47分34秒 | 東日本大震災
 農商工連携サポートセンターの大塚さんから次のようなお願いが来ています。
ご協力いただける方は、ぜひお願いします。


 福島県相馬市の大石ゆい子さんを覚えていますか?
3月末に皆様に支援の募金をお願いしました。
たくさんの募金が集まり、彼女に送られました。ありがとうございました。
「皆さんから送っていただいた募金は、お金というよりは皆さんの思い
の塊のようで。私を支えてくれているお守りのようなものとなっています。」
というのが彼女の述懐です。大石さんは被災地の状況に応じてその後、女性のための移動カフェの開催、飯舘村の全村避難の引越のお手伝い、
他地域からのボランティアなどの動きの窓口など奮闘されています。

その大石さんが8月14日に相馬市で開催される「相馬盆踊り」のため、「ゆかたプロジェクト」を募集しています。
津波などにより全てを奪われてしまった被災者の方々は、浴衣や帯がないのです。

 プロジェクトの詳細はこちら↓

  http://madeilife.jp/

 プロジェクトのチラシはこちら↓

  http://micanbako.com/imgs/blog/A4_ohisama_yukata.pdf

 皆様、浴衣、帯、下駄の寄付をどうぞよろしくお願いいたします!
 目標は1000着です。

 皆様の温かいお心をお待ちしております...


優しさ

2011年07月02日 10時17分02秒 | 東日本大震災
 皆さんは「イタバシニット」という会社をご存知だろうか。
私自身、プレジデント2011 7.18号を見ていて知ったのだが、本社は東京・渋谷にある。
そして、縫製工場は宮城県・気仙沼にある。

 気仙沼といえば、津波で重油タンクが湾内に流され、夜になると火災が発生し、まさに火の海になったことをご記憶されていることだろう。
その地に同社の縫製工場があったのだ。

 震災直後から連絡がつかない。

 工場ももちろんのこと、従業員のことが心配になり、吉田康宏社長は社員一人と奥様を同乗し、溢れんばかりの救援物資を積んで北へと車を飛ばす。
そして13時間かけてたどり着いた先は信じられない光景だった。
工場の中は津波により壊滅状態で工場内にあった2トン近くもあるドイツミシンが100メートル先まで流されていたという。
当然、工場の中の機器類は全滅である。

 おそらく、ただただ立ち尽くすしかなかったであろう。
内心は、「これで全て終わった」と思われたのではないかと思う。

 そして、長靴に履き替えた吉田社長は避難所を回り始める。
吉田の姿を見つけた女性従業員が「社長・・・」と目に涙をためて駆け寄ってきた。

 「私たち、どうしたらいいんでしょう」

 そんな姿を見て吉田社長は「人生のアドレナリン」が噴出したという。
工場長の今泉さんに再開してすぐに「工場を再開する」と告げたという。

気仙沼工場には、吉田社長も思い入れが深い。
工場の立地から自身が家族を連れて赴任までし、地域の人たちとの絆も深かった。

 工場を再開してからの吉田社長の行動はすばやかった。

 そして何よりも励まされたのは取引先からの熱いエールだった。
 同社の工場が復帰するまで受注を増やしてくれたのである。
 特に阪神・淡路大震災を経験したワールドはとりわけ親身になってくれたという。
 リンク・セオリー・ジャパンは、原料のイタリア製布地をすぐに手立てしてくれたという。
 また、金融機関もすぐにつなぎ融資をしてくれたいうのである。

 こうして、同社は震災から僅か二ヵ月後の5月16日に工場を再開した。

 そして、今、その工場には一人の犠牲者を除く従業員が復帰している。

 今回の大震災は本当に大惨事であったが、このように何らかの形で応援できるということに気づかされる。
義捐金も必要である。
しかし、明日につながる明るい未来のためには働ける場所が何よりも必要である。

 自社の利益を度外視してでも、仕事を回してくれた企業こそ社会に貢献する企業だと改めて思った。
日本の企業はすばらしい...


備えあれば憂いなし

2011年05月26日 02時07分43秒 | 東日本大震災
今回の東日本大震災は本当に悲惨なことばかりだったが、その中でも「良かったね」と思わせる話を聞いた。

 昨日の朝の番組で、ある保育園の園児が全員助かったという話である。
その保育園は海の近くにあり、当然、つなみで跡形もなくなっている。

 しかし、自己判断のできない、歩くこともおぼつかない子どもたちが一人も命を落とさなかったというのである。

 近いところに避難する高台があったからか...

そうではない。
地震が来た瞬間、保育士の先生方がすぐにマイカーをとりに行き、(子どもたちを)乗せれるだけ乗せたと同時に出発したそうだ。
割り振りする時間もおしんで、乗せたそうだ。

 その基本には、すぐに出発する。

最後の車が先の車に乗せすぎたために空っぽになったとしてもかまわない。
迅速に行動を起こす。

 このことは、簡単にできるようでとっさの時にできることではない。

 園長先生は説明する。

 「平素の訓練でそのような行動が取れるよう訓練していました。
  ですから、地震が来た瞬間、車を取りにいく担当の先生は駐車場の方に全力でかけていました。
  そして、到着する車ごとに子どもたちをどんどん詰め込んでました。
  乗り切れなくなったところで、すぐに車を出発させる。
  (保育士の先生方)一人ひとりが自分の役割を理解し、適切に行動してくれたおかげです」

 凄い!!

そう思いませんか、みなさん。
尊い命、これから輝かなければならない命を、平素の訓練を怠らなかった先生方の行動がそれを救ったのです。

 行政に携わるものとして、この精神と行動に感服するとともに、見習わなければならないと思いました。

 命の大切さ、重さを常に感じる。

 まさに「備えあれば憂いなし」です。

光の追悼

2011年05月02日 22時57分45秒 | 東日本大震災
 友人の米田さんが松山の中央商店街やJC等の志ある人たちが、東日本大震災に見舞われた方々に追悼と売上金を寄付するイベントを開催したのでぜひ紹介してほしいということなのでご紹介します。
告知は時間がなかったのであまりされなかったにもかかわらず、たくさんの方が参加いただいたということでした。
また、米田さんの力(?)でこの光イベントが広がりそうな感じです。
ぜひ、私たちもと思われた方は、行動を起こしてください。

 

 

☆キャンドルの器には、それぞれがメッセージを書いてあります。

選手宣誓

2011年03月23日 23時35分26秒 | 東日本大震災
今日から全国高校野球が始まった。
開会式の宣誓は創部2年目で出場した創志学園(岡山)の野山慎介主将(2年)君。
その宣誓があまりにもかっこよかったので紹介します。
初戦で敗退しましたが、その清々しさは皆さんの心に残ったと思います。


「宣誓。
  私たちは16年前、阪神・淡路大震災の年に生まれました。
 今、東日本大震災で、多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。
 被災地では、全ての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。
 人は仲間に支えられることで、大きな困難を乗り越えることができると信じています。
 私たちに、今、できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。

 「がんばろう!日本」。

 生かされている命に感謝し、全身全霊で、正々堂々とプレーすることを誓います。

       平成23年3月23日

       創志学園高等学校野球部 野山慎介主将 」

 どうです?かっこいいでしょう...

救援物資の受付スタート

2011年03月22日 21時38分54秒 | 東日本大震災
 今日から松山市でも東北地方太平洋沖大震災の義援物資の受付を開始しました。
内容については次のとおりです。

 ☆受付開始日時  3月22日(火) ~ 当分の間(土・日・祝日含む)

 ☆受付時間    午前9時 ~ 午後7時まで

 ☆受付場所    本庁及び各支所

 ☆受付品目

  1 水・お茶(ペットボトル、サイズは自由)
  2 保存食
  3 粉ミルク
  4 生理用品
  5 紙おむつ(幼児用)
  6 高齢者用おむつ
  7 尿失禁用パッド
  8 マスク
  9 トイレットペーパー
  10 ボックスティッシュ
  11 ウェットティッシュ
  12 使い捨てカイロ
  13 乾電池(単一~単四)

 ※注意:「生もの」及び「使用・賞味期限が1ヶ月以内」のものは受付できません。

 ご協力のほど、よろしくお願いします。

雨ニモマケズ

2011年03月22日 00時05分25秒 | 東日本大震災
 私の大好きな宮沢賢治、彼の代表的な詩である「雨ニモマケズ」は東北の厳しい自然風土の中で培われた力強さが現れた作品である。

彼は、郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の理想郷に、「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov、イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。
そして、彼が愛した郷土が深く傷つき、そこに住まわれている人たちが未来をなくしかけている。
彼の詩は、日本のどこよりも辛抱強く、粘り強く、がんばる人たちを応援する詩ではなかろうか。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


身内の被害の把握より、助けを求めている人の救命を優先

2011年03月20日 08時35分29秒 | 東日本大震災
【東日本大震災】

 東日本大震災では、救出作業に当たる警察、消防署員も被災した。庁舎がなくなり、連絡がつかない署員は多い。殉職者も出た。それでも「目の前の人命救助を最優先したい」と黙々と作業を続けている。

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福島・南相馬で300世帯安否不明
記事本文の続き 「庁舎があるはずの所に何もなかった」。大津波に襲われた岩手県陸前高田市。応援部隊を派遣した一関市消防本部によると、陸前高田市の消防本部は姿を消し、署員数十人と連絡が取れない。防災課の岩淵正司・士長は「友人らの安否も気になるが、救助活動に専念するだけ」と語る。

 津波被害が大きい福島県沿岸部の相馬署と南相馬署は、警察電話も通じなくなった。だが沿岸部出身者もいる福島北署の署員は「身内の被害の把握より、助けを求めている人の救命を優先する」。宮城県名取市消防署員は「仲間の中にも親族を失った者がいるようだが誰も話をしない。黙々と働いている」と話す。


温かいおせっかい

2011年03月19日 10時11分39秒 | 東日本大震災
 東日本大震災の義援金のお願いを玄関横に張り紙をしていたところ、絵手紙をやっておられる「なごみの会」の人がやってきて、「あんな文字だけやったら誰も見んわい(見ない)。私が描いてきたけん、これ貼っとき!!」

 なるほどである。
 とっても嬉しかった。

 すぐに玄関ドアに見えるように張った。
なんでもないようなことに注意を払ってくれる。
素敵な「おせっかい」である。

 今回の大地震はとっても悲しいことだけど、日本という国が、日本人というものが一つにまとまる千載一遇のチャンスかもしれない。
今回の地震は日本全体で復興する必要がある。

 まさに、「がんばろう、日本」である。

「惨状、桁違い」=極寒、必要なのは暖房器具―現地入りした日赤医師

2011年03月19日 02時20分36秒 | 東日本大震災
  時事通信 3月18日(金)20時24分配信より

 東日本大震災の被災者を救援するため、日本赤十字社医療センター(東京)から宮城県に派遣された平塚圭介医師(35)が18日、時事通信の取材に応じた。現場で目にしたのは、経験したことのない惨状と感謝の心を忘れずに必死に生きる人々の姿だったいう。

 平塚医師は地震発生2日後の13日から16日まで、同県石巻市の石巻赤十字病院で診察に当たった。最初に目に飛び込んできたのはフロアにあふれる約500人の被災者の姿。「本当に悲惨としか言えない状況で、桁違いだった」。床に横たわる人、ジャージーに革靴の男性―。津波で運ばれて来たヘドロや汗のにおいが鼻をついた。

 まず、正面玄関のひさしの下にテントをつくり、自力歩行が可能な軽傷患者の診察を始めた。中には点滴などで使用するベッドを四つ置き、常時10人以上を受け入れた。時折、救急搬送のヘリコプターの音で、患者の声すら聞こえなくなった。

 明るい話題もあった。孤立化した地域から助け出された子どもが、わが子を捜していた両親と病院で数日ぶりに再会した。周りの歓声を聞きながら、泣くまいと涙をこらえた。

 一番つらかったのは、診察が終わって患者を送り出すとき。「この人たちはどこにも連れて帰ってもらえないんだ」。そう思うと胸が張り裂けそうになった。寒さもこたえた。日赤のユニホームの上に防寒着を着込んで対応したが、テントとはいえ屋外での診療。患者だけでなく、医師らの体力も奪った。「一番必要だったのは暖房器具と燃料」。そう振り返る。

 「こんな遠くまで来てくれてありがとうね」。平塚医師は、診察を通じて幾度となくお礼を言われたという。こちらも何か言って励ましたい。だが、「頑張って」とはとても言えなかった。「ここにいるから、いつでもいらしてくださいね」。そう言うのがやっとだったという。