走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

チームワーク力、ニッポン!

2012年08月05日 23時58分53秒 | ちょっといい話

 オリンピックまっさかり。

 男子400mメドレーリレーは感動した。
 私たちのヒーロー、北島康介が無冠に終わるかと思えた今大会。
 最後の最後に銀メダルがとれた。

 メダルが取れたということよりも彼にメダルを持って帰らせたいというチームメイトの心意気に泣けた。

 水泳といえば、なんとなく個人スポーツというイメージが強い。
 そういう中で、メドレーリレーはチームワークを必要とする。
 他国では、予選では実力者は参加しない。
 いい場面だけで登場する。
 表現はよろしくないが、予選メンバーは使い捨てのようなもの。
 彼らには、スポットライトが当たらない。

 それぞれの国で戦略があるのだろう。
 だが今回よく感じたのがメダル、特に金メダルだけをとることだけが国の至上主義になっているような気がする。
 それが国力だと言わんばかりに

 日本人は体力的に劣る場合が見られる。
 それを互いが補完しながら結集することで目標を目指す。

 これこそが、日本人のパワーである。
 一人では無理でも、力を結集することで無限大の力に変える。

 このことを私たちは忘れていないだろうか。
 このことを私たちの代表であるアスリートたちが教えてくれる。

 私たちは、もっともっと自信と誇りを持つべきである。

 

 

リーダーの言葉

2012年07月28日 00時28分05秒 | ちょっといい話

 まだ、オリンピックの開幕前だというのにサッカーは既に盛り上がっている。
 なでしこジャパンに引き続き、やまとジャパン(勝手に命名)も半分以上諦めていたスペインに勝利した。
 ついつい期待してしまう。

 こんなことをよそになでしこが勝利した後のインタビューで
 「普段どおり」という言葉が何回も繰り返されていた。
 勝利に浮かれないよう平常心を保つという意図があるのか。
 それとも、淡々と勝利を積み重ねるだけといった思いなのか。
 ただ、彼女たちがどのように考え、どのような姿勢で試合に臨んでいるのかを次のようなエピソードでうかがい知ることができる。

 試合前のロッカールーム。
 円陣を組んだ選手の輪の中でキャプテンのMF宮間あやが言った。
 そしてチームメイト全員が彼女の言葉に奮い立った。

 「ここに立てるのは選ばれた18人だけ。大切な思いや大切な人たちがいて、私たちは戦っている。ここからの6試合、
  お互いのために戦おう」。

 彼女たちがいかに周りの人たちに支えられ、それに感謝しながらサッカーをしているのかがよくわかる。

 私たちの代表は技術だけでなく、心も超一流なのである。
 例え、メダルが取れなくても彼女たちは私たちの誇りであり、この国の誇りなのである。

 がんばれ!なでしこジャパン
 がんばれ!やまとジャパン

 

題名のない音楽会

2012年05月13日 23時25分24秒 | ちょっといい話

 今夜、BSで「題名のない音楽会」の再放送(本来は5月6日放送)を観た。

 シロウトの喉自慢のような企画。
 だが、そこはクラッシクを基本においた番組であるので、選曲も童謡からオペラまで幅広く、しかもいずれも上手である。

 年齢は、小学二年生の女の子から87歳までのご婦人まで幅広い。

 その中でも、グランプリを受賞された87歳の冨田富美さんが歌われた「この道」は感動した。
 冨田さんが本格的にコーラスをはじめられたのは、80歳になってからという。
 審査員から、「なぜその年齢から始めようと思われたのですか」という問いに対して、「子どものころから歌うことは大好きでした。でも、戦時中だったために父親に反対され、ずっと我慢していたのですが、反対する人が居なくなったので始めました。」

 冨田さんが歌われた「この道」は子どもの頃聞いて以来だった。
 
 87歳という年齢なのに凛とした姿勢。
 母は、80歳前から腰が曲がっていた。
 ハリのある声。
 どうしてもお袋と重ねてしまう。

 涙が流れる。
 審査員の森公美子さんも、山口智充さんも、高嶋さち子さんも泣いている。
 司会の佐渡裕さんさえも

 冨田さんは自分のすべてを語ったわけではない。
 審査員が訊ねる前に歌を聴きながら本当に涙が出た。
 
 人は、その生き様が何を語らなくても立ち居振る舞いに現れるという。

 自分もこのような生き方ができるのだろうか...
 無理かなと、既に後悔の念に苛(さいな)まれる。

 どちらにしても、今宵は、素敵な歌を聴くことができた。 

 

 
 

失敗を褒める会社

2012年05月12日 17時10分41秒 | ちょっといい話

 産経新聞ニュースを見ていて、とても素敵なニュースだったので紹介しょう。

 半年に一度、優れた成果をあげた社員に対する表彰制度を設けている機械部品製造業の太陽パーツ(堺市北区)。
 同じような制度を設けている企業は珍しくないが、最も顕著な功績を挙げた社員に贈る「社長賞」とともに、「大失敗賞」を設けているところがちょっと違う。
 「大失敗賞」の受賞者も、社員全員を前に社長から表彰状を受け取るという。
 社員はいったいどんな気持ちで“栄誉”を受けるのだろう?

 「大失敗賞」はその名の通り、大きな失敗をした社員に与えられる賞。
 もちろん副賞もつく。
 金一封1万円。失敗をほめられたうえに1万円とは…。
 もっとも、ただ単に失敗すればもらえるわけではない。
 ここがこの賞の賞たるゆえんである。
 「大失敗賞」の選考基準は、何か新しいことに挑戦したうえでの失敗であること。
 たとえその失敗によって会社に幾ばくかの損失を与えたとしても、「会社は失敗を乗り越えるノウハウを得たことになり、今後の事業展開にとってプラスになる」との価値判断がこの賞のカゲにある。

 「もちろん挑戦して成功すれば一番いいのですが、何もしないよりは挑戦して失敗する方がいい」と総務部の山根数豊さん。
 「失敗したからといって、代わりの人材もいない。
 一度失敗しても、次は活躍してほしい」と話す。
 社員が少ない中小企業にとって、人材を大事に育てたいという思いも込められている。

 「大失敗賞」第1号は19年前の平成5年にさかのぼる。
 “栄冠”を手にしたのは、当時30代半ばの課長職の社員だった。
 彼は新たに自動車関連用品の事業を拡大しようと、自ら中心となって企画を練った。
 どんな商品がいいのか、どうやって売るのかなど思案を重ねた結果、車用の芳香剤やカップホルダーなどを製品化し、カー用品店に販売した。当初は大手用品店に販売が順調に進み、手応えを感じていたが、半年後、売れ残った大量の商品が返品され、あっという間に在庫の山ができた。
 この「大失敗」によって約5千万円という、当時の同社の1年間の利益が吹っ飛ぶような大損失を出してしまった。

 この「大失敗」の原因は、業界特有の商習慣を理解していなかったことだった。
 そして、このときの経験から、同社は新規事業に進出する際には、しっかりと事前に市場をリサーチするノウハウを得た。
 受賞した男性社員はこの失敗を見事に生かし、同社が中国に進出する際は現地法人のトップとして活躍するなど、その後、多くの功績を残した。
 現在、役員として経営の中枢を担う存在になっている。
 「大失敗賞」の授賞式の際には、城岡陽志社長が「これでチャラだからな」などと声ををかけてその場を笑い飛ばすなど、社員の性格や失敗の内容を考えながら、失敗を引きずらないように気をつけている。
 「この制度のおかげで、失敗を恐れず、挑戦する社風につながっています」と山根さんは話す。(産経新聞/阿部佐知子)

 ね、とても素敵な話でしょう。
 失敗を恐れない。
 むしろ、失敗を恐れて何もしなくなることを恐れる企業風土をつくろうとしている同社は、まだまだ成長することでしょうね。

本当の強さってなんだろう?

2012年01月27日 02時50分53秒 | ちょっといい話
 NHKの「ようこそ先輩」という番組を観ていて感動した。

 その日は、柔道家・鈴木桂治さんの番であった。
 番組の内容は、番組のホームページから引用すると次のようなものである。

 アテネオリンピック・柔道金メダリストの鈴木桂治さん。
 3歳で柔道を始め、これまでひたすら「強くなる」ことを追い求めてきました。北京オリンピックでは、まさかの1回戦敗退という屈辱を味わい、一時は引退も考えたといいます。
 しかし悩み抜いた末、このままで終わりたくない、と現役続行を決意。現在は、2012年のロンドンオリンピックを目指し、更なる「強さ」を追求し続ける毎日です。
 そこで鈴木さんが選んだ授業のテーマは、「強さ」について考えること。
 子どもたちは、柔道をアレンジした「ひざ立ち柔道」を通し、強くなることを目指します。
 初めは、力が弱いから勝てるはずがないと諦めていた子どもたち。
 鈴木さんの狙いは、「心の強さ」を持たせることにありました。
 そこで、北京オリンピック後に葛藤していた自分の気持ちを、真っ直ぐに子どもたちに語ります。
 更に、「自分の弱さ」というタイトルで、全員に作文を書かせることに。
 しかし、鈴木さんが作文の発表をうながしたところ、拒否する子どもたちが続出。
 そして、予想外の展開が…。
 果たして子どもたちは、強くなることができたのでしょうか。

 どうです、観たくなるでしょう。

 何が感動したかというと、鈴木さん自身が自分が負けた試合を子どもたちに見せるというシーンがあります。
 自分の弱さを自分の立ち居地よりも下の者にさらけ出す。
 これは一つの「勇気」だと思います。
 おそらく彼が常勝の柔道家だったとしたら、ひょっとしたらこのようなことも思いつかなかったかもしれない。
 己の「弱さ」を自覚したからこそできる行動であろう。

 そして、その弱さから脱却し、「心の強さ」を持つには己との戦いに勝つことしかないのである。
 「ひざ立ち柔道」において「勝つ」ということに執着しなくなった子どもたちがあまりにも増えたことにも驚かされたが、そのことによって自己研鑽をしなくなったことにも気付かされた。
 鈴木さんが、自分の消したりたいであろう過去をあえて見つめなおすことで、子どもたちに伝えたかった「本当の強さ」は子どもたちの心に届いたと思う。

 こんな鈴木さんを素敵だと思うし、ぜひロンドン・オリンピックに代表として出て欲しいものである。
 心から応援したい。


◆鈴木桂治(柔道家)プロフィール

 1980年茨城県生まれ。
 3歳から町の道場で柔道を始める。
 2004年アテネ五輪100キロ超級で金メダル獲得。
 翌年には重量級前人未到の3階級制覇を達成。
 しかし2008年の北京五輪では、選手団長を務め金メダルが期待される中、1回戦で敗退。
 一時は引退も囁かれたが、現役続行を決意。
 2011年全日本選手権で4年ぶりの優勝を果たした。
 現在、母校国士舘大学体育学部で教員の職につきながら、2012年のロンドン五輪を目指す。

コミュニケーションの難しさ

2011年12月06日 23時40分14秒 | ちょっといい話
 建築家・安藤忠雄さんの設計事務所の記事をある雑誌で読んだ。

 驚いたことに、安藤さんの事務所ではメールは禁止なのだそうだ。
 その理由は、メールは心が伝わらないコミュニケーション・ツールだからだそうだ。
 そのせいで、安藤さん自身、海外出張が多いが完全に音信不通状態になる。
 それで大丈夫なんですかという質問に対しては、「連絡なんてものは、緊急を要する事態にしかないものですよ。でも、海外にいたら対応なんて出来ませんから、最初から諦めるしかないんですよ」とキッパリ。

 そして、設計図などの精密な資料をFAXで送ることも禁止。
 
 さらに、電話は5台。
 各スタッフの机にはなく、安藤さんの前に5台まとめて置いてあり、昔、公衆電話が連なって設置しているところに人がたかるような感じで電話をするそうだ。
 そうすることで電話のやり取りを聞き耳を立てていると、顧客とトラブっていないかどうかがわかるそうだ。

 安藤さんがいうコミュニケーションの理想とは、あくまでも直接対面して、相手の顔色を見ながら駆け引きをすることで成長するとともに、こちらの気持ちも伝わると。
 それが出来ないといするならば、一歩下がって電話だが、それ以外は認めない。

 コミュニケーションは自分の心を伝え、相手の心を読み取ること。
 改めてそう感じました。

孤独なランナー

2011年12月04日 22時29分19秒 | ちょっといい話
 今日の福岡国際マラソンに埼玉県庁勤務の公務員ランナー、川内優輝(24)さんが日本勢トップの3位に入った。
 その勇姿は、9位からの猛烈な追い上げだった。

 最後は粘って2時間9分台を残り3秒というところでキープしてゴール。
 「前の選手を追っている間に、頭の中に日の丸が浮かんだ」と川内さんは言っていたという。

 彼には、実業団のような監督も選任コーチもトレーナーもいない。
 まさに、孤独なランナーである。

 そして、実業団の選手と比べると圧倒的に練習量が少ない。
 だから、通勤も練習にあてることもしばしばだそうだ。

 なによりも、実業団の選手が大きなイベントに参加するのが年に1~2本という中で、川内さんは月1回ペースで出場するという。
 来月の東京国際マラソンにも出場予定だとか。
 おそらく、招待選手ではないシロウト・ランナー(この表現は正しくないような気がするが...)にとっては、一回一回エントリー料を払っての参加だろう。
 それでも、実践で鍛えていく大切さと圧倒的な練習量不足を補っても余りある練習方法であることを彼はよく自覚している。
 実践で磨かれた野生的な勘はますます研ぎ澄まされる。

 ゴール直後、失神するほどの倒れこむ姿。
 全力疾走をした何よりの証拠。
 その完全燃焼の姿は感動を呼び、「何もそこまで」と思わせるような同情さえ誘う。

 人間的にも真面目で、何事にも一生懸命なのが見えてくる。
 同じ公務員として、見習わなければならないと思う。
 その不屈の精神は、「前に行ければ何とかなると思っていた」という言葉通り、歯を食いしばって、前だけを見つめる後半の力走からもうかがえる。

 そして何よりも、「ロンドン五輪で走れるよりも市民マラソンで走れるほうが楽しい」と言い切る彼は、とても素敵である。

花が咲くための時間

2011年10月05日 19時28分21秒 | ちょっといい話
三重県の山路さんのメルマガに素敵な話がありましたので引用させていただきます。

【花が咲くための時間】

 朝顔が朝咲くのは、夜明けの光とか暖かい温度のせいではない。
 夜明け前の、冷たい夜の時間と闇の濃さこそが必要なのだ。
 朝顔は、夜の闇のなかで花を開く準備をするんだな。

 こんなふうに思考を飛躍させ、そして、そのことで勝手に、しかし非常に感動しました。
 朝顔は、夜の闇のなかに咲くのです。

 人間も希望という大輪の花を咲かせるのは、かならずしも光の真っただなかでも、暖かい温度のなかでもなかろう。

 冷たい夜と、濃い闇のなかに私たちは朝、大輪の花という希望を咲かせる。
 夜の闇こそ、花が咲くための大事な時間なのだ、と、私はそう考えました。

 (「朝顔は闇の底に咲く」五木寛之著 東京書籍)
                        
 ~~~~~~~~~~~~ここまで引用~~~~~~~~~~~~~~

 何かを為すための準備の期間や様子は往々にして人の目に見えないものです。
 そしてそれは多くの場合、長く、つらいものです。

 例えば、綺麗な花を支えるのは枝、それは幹に支えられ、その幹は根っこに支えられていますが、根っこは目に見えません。
 また、白鳥の華麗な水上の舞は水面下の必死の水かきでできているのです。

 イチロー選手の言葉で、私が好きなものに、「小さなことを積み重ねることがとんでもないところへ行くただ一つの道」というのがあります。

 誰しも何をやっても、どれだけ努力しても、少しも結果が出ず、嫌になることがあると思います。
そんな時は「谷深ければ山高し」という言葉を思い出し、今は花が咲くための準備期間なのだと思い、あきらめないで努力を続けたいもので
す。  



 まったくそのとおりだと私も思います。

鎌倉シャツ

2011年08月20日 12時05分08秒 | ちょっといい話
 「ガイヤの夜明け」という番組を見ていて、東日本大震災で被害にあった縫製工場の話が紹介されていた。
その工場は、中国から研修生を受け入れていたのだが、震災後、その研修生が帰国してしまい3割生産能力が落ち込んだという。
誰も、この研修生を責めることはできない。

 そして、人件費などの事情から海外研修生を活用しなければならない中小企業の台所事情も垣間見える。
国際競争は、誰よりも中小企業を直撃している。
そこで、経営者は被災者の雇用に踏み切る。
 しかし、ゼロからのスタートなので生産能力はなかなか上がらない。
 
 話は変わって、「鎌倉シャツ(http://www.shirt.co.jp/)」というメーカーがある。
 この会社の創業者の貞末良雄さん(現会長)は、かのアイビーファッションの旗手「VAN」に入社し、独立した方である。

 実は私も、東京へ出張したときには丸の内ビルの地下にある店舗へ時間があると覗きにいったものである。
 そして、そういう事情(創業者がVAN出身であるということ)を知らないまま、自分の嗜好にあったファッションセンス(実は、私も一時IVYファッションに凝っていた時代がありました)の同店舗をお気に入りに登録していたのである。
 なによりもここのシャツは内側がすれないのである。
下着をきるのでわかりにくいのだが、ひどいシャツになると下着を通して肌がチクチクする時がある。
だが、ここのシャツはそれがしない。
価格は、5000円台だが縫製がしっかりしている。

 番組を見ていて知ったのだが、「巻き伏せ本縫い」という特別な仕様にしてあるというのである。
「それで着心地がいいのか」と思い当たる。

 この鎌倉シャツが、この縫製工場に手を差しのべた。
貞末会長は言う。「毎日支援することが大切」と

 そして、同社は「東北から、ありがとう」というタグを入れることにして、従来よりも多く追加発注した。
また鎌倉シャツ社員全員の応援ビデオレターをつけることで、ともにがんばりましょうと勇気づけたのである。
これを受けて縫製工場の社員の士気は上がる。
新人たちも、「がんばります」という言葉を言うようになる。

 この経営者は、日本人だけでがんばる大切さを感じ取っていた。

 日本のモノづくりの原点がここにある。
 利益だけを追求する従来の考え方では、誰も幸せにならないということを皆が早く気づくべきである。

 日本の細やかさを追求できる技術こそ、国際競争力なのである。
 

力の結集

2011年07月29日 01時16分12秒 | ちょっといい話
 27日に愛大医学部で地域遠隔子育て療育相談コンシェルジュ・サービス事業の協議会が開催されるので覗いてみないかと誘われたので同席させていただきました。

 同事業は、総務省の地域ICT広域連携事業に採択されたもので、受託されたのは「NPO ラ・ファミリエ」です。

 事業の内容は、簡単に言うと子育てや療育相談をテレビ電話でやろうというもので、昔でいうと電話交換手(古い言い方ですみません。同事業ではこの水先案内人を置くことを重視していて、コンシェルジュと呼んでいます)みたいな人たちが電話の向こうにいて、日頃の悩み相談や不満などを聴く一方で、会話の中から原因を掘り起こし、適切な治療先などを進めるのだそうです。

 本事業は、NPO理事の一人でもある西条中央病院の大藤医師(有能な小児科医でもあります)が療育相談にテレビ電話が活用できるのではないかという考えを持っておられ、実現したものです。
いつもながら、大藤先生の熱意と行動力は素晴らしいものがあり、実現する力に感心させられます。

 そして、その先生に促されるかのように多くの人たちが携わってくれました。

 当初は、西条市を核に愛南町と四国中央市を結び、トライアングルで行おうという計画でしたが、現実はそれを飛び越えて、東京、新居浜、伊予市、そして松山市に在住人たちと何らかの力を借りたということでした。
これもテレビ電話がなせる業(わざ)だったのでしょうか。
参加していただいた方は延べで80人を超え、短期間の実験にもかかわらず驚くほど多くの方が参加してくれたというのです。

 本事業のユニークなところは、「相談」というひとくくりで捉えがちなものを「専門相談」、「仲間相談」、「ちょっと相談」にクラス分けしたことです。
この真意は少しでも気軽に相談できる環境を整えるという中から出てきたものだそうです。

 そして、事例発表の中で、水谷さんという「ちょっと相談」を担当されたコンシェルジュの方が苦心された部分について、まず相談者の心を解きほぐすことだったそうです。
でも、それは難しいことをしたのではなく、世間話や相談者のヘアスタイル、ファッションについて話し始めると互いの情が湧いてきて、それを積み重ねていくと信頼関係につながるのだそうです。
 次に、ちょっとした会話の中から相談者の本意を汲み取っていきながら、困っていることに適した関係機関を薦めたというのです。

 例えば、「うちの子は、年齢の割りに言葉が遅いんですよ」という話を察知し、療育センターを訪ねてはどうかというアドバイスをします。
 そして、療育センターの担当者と直接テレビ電話を介して事前に話をしてもらうことで、しり込みしていたお母さんに勇気を与えたというのです。

 また、他の事例では、過去に骨折経験を持つ子どもさんのお母さんの緊急の相談に対して、医療機関とつなげたところ大事には至っていなかったので病院へ行かなくて済んだそうです。
このことは、増え続ける小児救急を支援する一助になり、さらに医療費の軽減につながる可能性がある感じました。

 そして、なによりも感動的だったのは、野本コンシェルジュの話です。
 難聴障害をお持ちのお母さんがいて、電話に対して恐怖心に近いものを持っていたそうです。
 しかし、テレビ電話によってそれが一気に解消されたというのです。
 相談者とコンシェルジュが小さなホワイトボードをもって筆談するというものです。
 相談者は会話を楽しめるようになったのです。

 これには副次的効果もありました。
 難聴障害をお持ちの多くの親御さんの子どもさんの多くに言語の遅れが見られるのだそうです。
 そして、それによって発達障害などへとつながる割合が多く、水際で解決することが大事だというのです。
 このご家庭の子どもさんにもその傾向が見られたため、野本さんは絵本の読み聞かせやにらめっこ(?)などをしながら、子どもが自然に言葉を発する機会を増やすよう努力されたそうです。
 野本さんは、「楽しみながら訓練することを専門の方から指導を頂いたので、私なりに試してみたのです」と謙虚に言われていましたが、「すごい!」の一言です。

 改めて本事業を見てみますと、大藤先生という監督がいて、さまざまなキャストや裏方がいて、そういう人たちがそれぞれのミッションを遂行されたことに成果の秘訣があったように思いました。

 一人の力は、本当に小さなものですが、それを結集すれば新たな道を切り拓く力になると、改めて感じました。

 そして、何よりもこの取組が地域社会システムとして取り入れられ、広がり、根付くことを願っています。

 


思い出をよみがえらせる絵画

2011年06月27日 23時56分37秒 | ちょっといい話
 日曜日の朝、テレビチャンネルを押していると「日曜美術館」で手が止まった。
雰囲気的に肖像画家の話であることはわかった。

 私が見始めたシーンは彼が悩み苦悩しているところからだった。

 そこで、前後をつなげるためにホームページから番組紹介記事を次のように引用する。

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 「亡くなった娘を絵画で蘇らせて欲しい」。
 1人の画家に来た依頼だ。

 画家は独自の写実表現で注目される諏訪敦。
 諏訪は以前、舞踏家の大野一雄を1年にわたり取材し、連作を描いた。
 そして7年後に100歳を迎えた大野を再び取材し描いている。
 諏訪は写実的に描くだけでなく、徹底した取材を重ねて対象となる人物と向き合い、人間の内面に迫ろうとする気鋭の画家だ。

 依頼したのは、2008年の5月、南米ボリビア・ウユニ塩湖で交通事故に遭(あ)い炎上死した、鹿嶋恵里子さん(当時30)の両親である。
 鹿嶋恵里子さんは結婚も決まり、結納式から10日後の突然の悲劇だった。
 依頼した内容は、諏訪の絵によって快活な娘を蘇(よみがえ)らせて欲しい、というものだ。
 亡き人を描くために彼はわずかな手掛かりを求め、さまざまな取材・手法から彼女の特徴を探っていく。

 自分の表現としての作品性と、依頼した両親の娘に対する思いをどのように1枚の絵画に描いていくのか。
 諏訪が悩み、葛藤していく様を撮影した。
 番組では6か月にわたり諏訪と依頼した鹿嶋さん家族を取材。
 親の思い・亡き人と向き合った彼の苦悩と完成までの軌跡を追った。

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 「私の描く絵は本当に実在した娘さんではない。
  写真から似せて描くことはできても本当の娘さんではない。
  そんな絵をご両親(遺族)が見たとき、かえって失望しないか」と悩み苦悩する。

 そして、思い悩んだ諏訪さんはあるNPOのドアを叩く。

 そのNPOは事故や突然の死でその事実と向き合えない遺族の心をケアする団体だった。
 彼は、自分の思いを伝える。
 相談に乗ってくれた団体の人は次のように語りかける。

「あなたが単に写真を描く人なら遺族には何も伝わらないでしょう。
 でも、あなたは描くために、遺族の方とたくさんの時間、その娘さんの話を聞いて描こうとしておられる。
 遺族の知らない娘さんがいたはずです。
 他人が知っている娘さんがいたはずです。
 だからあなたは、あなたが感じたままの娘さんを描けばいいんです。
 そして、それを見られたご遺族は新しい娘さんを発見でき、とても喜ばれると思いますよ。」


 諏訪さんは「お話をお伺いし気が楽になりました」と丁寧にお礼を言うと、その後、一気に肖像画を描ききります。

 その出来上がった絵を持って依頼主宅を訪ねました。
 箱の中から絵が出てくると、両親の目からは涙が湧いてきます。

 両親に時計をプレゼントされ、笑顔が出てくる直前の瞬間の絵です。

 父親は泣きながら、「この絵は現実ではありません。そして娘も今は現実ではありません。でもこの絵の娘は間違いなく私たちの娘です」
 
 きっとご両親は、残された人生において、ことあるごとにこの絵に語りかけることでしょう。
 そして、娘とともに生きた日々を思い出しながら、時に笑い、時に涙ぐむことでしょう。
 それは、ある人から見れば前向きな生き方にうつらないかもしれません。
 しかし、ご両親にとっては幸福な時間ではないかと思うのです。

 残された人生を、思い出とともに生きる。
 そして、語りかけることで生きる糧につながる、そんな人生もあっていいと思います。

 そして、世の中には数十億、数百億の値がつく絵画もありますが、ご両親にとっては、この絵がそれ以上の価値の絵になったことでしょう...

夕焼け小焼け

2011年06月19日 07時33分59秒 | ちょっといい話
 私が尊敬するNPO法人・農商工連携サポートセンター代表理事の大塚洋一郎氏のブログが感動的でしたので紹介します。

3.11大震災と童謡「夕焼け小焼け」 [2011年06月16日(木)]

 6月12日に開催された農商工連携フォーラムにおける藤田和芳理事(株式会社大地を守る会代表取締役)のお話のさわりを紹介します。

 僕は岩手県の生まれです。
岩手県の農村に生まれました。
そこには農村の暖かな人情、貧しいけれど質素、人々が助け合っていく...そういうものがあったと思います。
今回の震災で日本人の多くがかつて持っていた日本人の良さに触れたと思うのです。
あまりに大きな災害に直面したときに日本人が持っていたDNAがよみがえったのだと思うのです。

 幕末から明治にかけて日本は大きく変わるのですが、日本政府が雇った多くの専門家、医療の専門家、技術の専門家が日本に入ってきました。
彼らはあまりにも遠い東洋の野蛮な国に来たという気持ちを持って来るわけですけれど、日本に滞在し再び自分の国、アメリカ、イギリス、ヨーロッパに帰っていったときに、彼らが日本の印象について書いた本があります。
最初来たときには本当に野蛮な国に来たと思ったけれど、子供達は裸で走っているし、男と女が混浴しているというのは野蛮だけれど、よくみてみると必ずしもそうではない。
貧しいけれど質素だし、体はいつもきれいだし、治安は悪くないし、風景は美しいし、なんとこの国は人々が助け合って生きているのだろう。
村に行けば人々は笑って生活している、こんな国はヨーロッパにはどこにもないじゃないか。

 ある人は伊豆半島を旅して旅館に泊まったらとても親切にされる、帰りにまたここに泊まりたい、旅館の親父さんに予約金を払いたいと言うのですが親父さんはそんなことは要らない、どうか帰りに寄って下さいというのです。
でもどうしても予約金を払いたい、じゃあこの上に置いてくださいとお盆を出してきてその上にチャリンと置いたわけです。
自分の経験からいえばそれを金庫の中に入れるだろうと思っていたら入れない。
まぁ自分の責任じゃないからいいかと思って旅に出て、半月後に帰ってきたらなんと自分が置いたお金が半月前と全く同じ状態で残っている。
この店にはたくさんの人が出入りしているのに誰もそのお金を取ろうとしなかった。
なんという国なのだろうか、と日本と日本人の良さ、やさしさや親切をいろいろな本が書いています。
私はそれが東北に残っていた、そういうものにどうして私たちは気が付かなかったのかなと思うのです。

 最後に時間が来ましたけれど今日、私のタイトルは童謡の夕焼け小焼けについて語ることでありました。
夕焼け小焼けは「夕~焼け小焼けで日が暮れて」という歌ですね。
歌詞はおわかりかと思いますけれど、私はこれが日本の農村の風景、それから今申し上げた人々の気持ちを表現していると思うのです。
まず「夕焼け小焼けで日が暮れて」というのはどういうことを歌っているか?
私は子供の頃、奥羽山脈を見ると、奥羽山脈に夕焼けが真っ赤に出ると必ず明日は晴れるのです。
夕焼け小焼けの歌は「明日は晴れる」という明日に対する希望を歌っているのです。

 その次に「山のお寺の鐘が鳴る」は農村のコミュニティ、農村の美しい風景を歌っています。
そして「おててつないでみな帰ろう」。
おててをつなぐというのは人々が手をつないでコミュニティがしっかり生きていて、助け合って生きているということを歌っているわけです。

 最後に「からすもいっしょに帰りましょう」と歌います。
からすは今でも人間から見ると嫌われ者です。
でもその嫌われ者のからすとも仲良くしようということを最後のところで歌っている。
コミュニティがみごとに助け合って生物多様性を認めて生きていくという、他人を蹴落としてでも生きていく、自分だけが良い思いをするなんていうことはこの歌の中には無いわけです。
そういう風景をこの夕焼け小焼けは歌っている。
私たちは世界に誇るべきコミュニティをかつて持っていた。
そして世界に誇るべきひとつの文明のかたちを持っていた。
でも新時代といって狂おしいまでに効率と生産性を追い求め、そして競争社会をよしとして他人を蹴落としてでも自分が幸せになりたい、物とお金があったらそれだけで幸せになれるんだという社会を狂おしいまでにず~っと走り続けてきて、かつての文明のかたちを忘れてここまで走り続けてきて、それが3.11だと私は思うのです。

 もし私たちが新しい社会を復興しようというのなら、私は学生運動世代ですけれどヨーロッパの海外のイデオロギーと哲学を持ち込んで自分の国を良くしようと思うだけじゃなくて自分たちの足下の、先達がどういう社会を作ってきたか、どういうルールでどういう人間関係を作っていたかというところにもう一度立ち返ることこそが本当の意味での「復興」であり、新しい社会というのはヨーロッパの社会をまねするだけではない、私たちのご先祖さまが築き上げてきた人間関係とかコミュニティの姿をもう一度見つめ直すことから始めることが大事ではないでしょうか。

 長くなりました。ありがとうございました。



日本最高齢の助産師

2011年06月12日 23時45分44秒 | ちょっといい話
 今日のTBS「情熱大陸」の主人公は、坂本フジヱさん。

 1924年和歌山県生まれ。
23歳で出張スタイルのお産を専門とする「坂本助産所」を自宅に開業。
1997年に和歌山県田辺市に移転し現在に至る。

 出産以外にも子育て相談や中高生への性教育指導など、地域のよろず相談所として活躍する。
性教育もまっすぐ直球勝負。子どもたちは目を丸くしながら聞き入っている。
生物としての本能の中にある欲望をわかりやすく説明しながら、人としての「愛」の大切さを教える。

 わずか身長147センチの小柄な身体にみなぎるエネルギー・・・
どこから見ても「可愛いおばあちゃん」の坂本さんが手術着を着ると一変。
存在感も迫力も一気に1・5倍に増し、テキパキと指示を与える姿はまるで「不動明王」さながらだ。

 「自然なお産をしたい」と望む妊婦の間で話題となっている和歌山県の「坂本助産所」。
87歳の今も現役の坂本おばあちゃんは、66年の助産師生活で4000人もの赤ちゃんを取り上げてきた。 
 ある日、坂本おばあちゃんの元に一人の妊婦が訪れた。
「もう予定日なのに、旦那が入院しちゃって、ケンカもして・・・」
出産を間近に控え不安で心が押し潰されそうな妊婦を前に、坂本おばあちゃんは自らの亡き夫への想いを語り出した。

 「心残りはないが、もうちょっと話しとけばよかったと思う。会話というコミュニケーションじゃな・・・」

 生を取り上げる仕事をしながら、常に死というものを意識しているような気がした。
 それも自然体に
 人と人が支えあうためには、言葉というコミュニケーションが大切なんだよと教える。

 また、(赤ちゃんが)ご飯を食べないと心配して相談に来る母親。

 「心配せんでもええ、いつか食べるようになる。今は『食べる』ということに興味を持たせることよ。
  そして、何よりも親が大きな声で『おいしい、おいしい』と言いながら美味しそうにご飯を食べること。
  それをしっかり見よるから、食べるようになる。」

 まさに究極の親学であり、出産という神秘の現場を司る「87歳・カリスマ助産師」だからこそ言える言葉である。

この世は命のプール

2011年06月11日 16時25分18秒 | ちょっといい話
 歌手、加藤登紀子さんの人生は決して順風満帆なものではありませんでした。
彼女の夫は藤本敏夫さん。
彼と知り合ったのは1969年。
戦後社会が大きくうねった頂点の年に出会ったそうだ。
藤本さんは学生運動の指導者として、彼の言葉で数万の学生が動いたといわれています。

 そして、彼は獄中の人となります。

加藤さんは、すごい決断をしました。
獄中での結婚式。

 社会復帰をした藤本さんは農業へと自分の生き方を進めます。
その場所は、千葉県房総の鴨川。
彼は、加藤さんに一緒にいこうと誘います。

 加藤さんはかなり悩み、東京へ残る道を選択されたそうです。

そのときのことを加藤さんは次のように語っています。

「結婚の決断、東京に残ると決めたとき、人の心は振り子です。
思いは大きく左右に揺れ動きました。けれど、いつも人生の決断はひとつなのです。
あの時、私の心の振り子は、ひとつの答えを指しました。
そして、そのあとの人生を私は自分の責任で編み続けてきたつもりです。
 人生とはかくのごとく、のっぴきならない現実に向かい合うことの繰り返しです。
人は、その起こる現実に翻弄(ほんろう)されながらも必死で生きようとする。
そこに真に命の輝く瞬間があるのではないでしょうか。」と

 そして、娘のYae(ヤエ)さんは彼女と同じ歌手の道に進みながらも、父が選んだ鴨川に住んでいます。
その背景には、子どもの頃飼っていたハムスターが死に、埋める場所を探し回ったが見つからなかった悲しい思い出が、そうさせたのではないかと
 そして次のように続けます。

「都会で暮らす人々は、安全・快適・便利な生活のかわりに、約束ごとの多い社会で、あるべき姿に縛られながら生きています。
 一方、鴨川での暮らしも、毒虫に刺され、猪に襲われる危険性を常に覚悟する毎日。
自然において生と死はすぐに隣り合わせにあるのです。
 つまり、どちらの世界にあろうと、生きることは常に戦いをはらんでいます。
生きるとは本来、穏やかならざるもの。
そう悟ったなら、『どうしてこんなに心が波立つの?』と悩む度合いも減ると思います。
 それでもまだ苦しいならば、いっそハッキリと生きてみることです。
泣きたいときは泣き、困ったときは困ったと言う。
自分の心に素直に従うことが、結果的にはおだやかに生きることへつながるかもしれません。

 本来、人の心はゴムまりのように柔らかくて、しぼむように泣いたり、弾むように笑ったりするものです。
そのゴムまりをどんなに尖らせ、四角く見せても、人間の心はみな丸い。
そのことに気づく経験がありました。

 キャバレーで歌っていた頃のこと。
やくざの人たちがお客としてやってきました。
シャンソンを歌い始めた私に『そんな歌は歌うな、ひっこめ』と言う。
『じゃあ、何を歌えばいいの?』と私が聞くと、彼らは、『童謡を歌え』と言いました。
 私は『七つの子』や『かなりや』『シャボン玉』を一生懸命歌いました。
ふと見ると、やくざの人たちが泣いているのです。
誰にでも、愛しい人、大切な思い出やどうしても失いたくないものが心の奥底にあります。
彼らも、子どものように純なゴムまりの心を忘れていないのだと知りました。

 あの頃、私は現実を生き抜く人間の力に圧倒され、生きるとはどういうことかを教えられました。
今思えば、そうした経験が私に歌を続けさせてくれたのでしょう。
 心が揺れないと、歌は歌えません。
悲しみを知り、泣き、叫び、その末に笑った記憶がなければ、歌は聴く人の心に響きません。
 客席には心の振り子を揺らすまいと構える力もあります。
けれど、ふとした言葉や歌の間に、その方の表情が変わってきた時、私はその方を抱きしめたくなります。
その人のすべてが愛おしくてたまらなくなるのです。
 客席を眺めると、そこにはいのちのプールが見えます。
数え切れない人生の悩みや苦しみ、喜びをたたえたプールが目の前に広がっているのです。
 もし、あなたが悩み苦しんでいたとしても、そのあなたを愛おしく思い、抱きしめたいと思っている人はいます。
そしてまわりを見渡せば、あなたと同じように、悩みながらも生き続けている人ばかりだと気づくでしょう。

 この世は命のプール。

みんなで生きている。
あなたは、その中のひとり。
みんなの中のひとりなのです。」


 どうです?気が楽になりましたか。

スワルティ(よい知らせ)

2011年06月06日 19時58分45秒 | ちょっといい話
 赤十字新聞(第852号)を読んでいて素敵な話だったので紹介しよう。

 3月25日に発表があった第100回看護師国家試験で、インドネシアとの経済連携協定(EPA)に基づき姫路赤十字病院(兵庫県)で受け入れているスワルティさん(愛称スーさん、32歳)が、見事に合格したという。

 この試験はかなりの難関で、今回の国家試験を受験したEPA看護師候補は合わせて398人。
合格したのは16人で、なんと合格率は4%と超狭き門である。
 スーさんはインドネシアで看護専門学校や大学を経て8年看護師として働き、平成20年8月に「高い看護知識と技術を学びたい」と来日。
半年の語学研修のあと、平成21年2月から同病院で看護師助手として働きながら、勉強してきました。

 スーさんは来日当初を「勉強は楽しかったし、少しづつ日本語を覚えていくことが嬉しかった」と振り返る。
ところが、入職すると環境は一変。
「周りの人の言うことがわからず、仕事が終わると毎日泣きました」
「インドネシアに帰ろう」と思ったこともたびたびあったとのこと。

 2回目の受験となった昨年の試験では、他の病院で学ぶスーさんの友だち2人が合格。
「私も一生懸命勉強したのに、不合格。悲しかったです」と振り返る。
残されたチャンスはあと1回。
同病院の柴田由美子看護副部長と話し合って勉強方法をがらりと変えました。

 病院全体が応援する中、スーさんは「一生懸命に勉強しました。楽しいことは一つもしませんでした。いろんな人がサポートしてくれるのに、頑張らなかったら恥ずかしいから」と合格への誓いを新たにしました。
 試験前日、看護部長や副部長の激励を受け、当日も「みんなで祈ります。頑張って下さい」というメールをもらった。
「絶対できると思いながら試験を受けました」

 そして、このようなスーさんの姿勢は周りの職員にもいい影響を与えたという。
特に若い職員には彼女のフレンドリーで積極的な姿勢が(若い職員の)モチベーションアップにつなげたという。


 4月下旬、スーさんは兵庫県支部救護班に帯同し東日本大震災の被災地に入りました。
「2004年のスマトラ島での津波被害のときの恩返しがしたい」という思いから、国家試験合格の記者会見の席で湯浅志郎院長に直訴して実現しました。
「被災地で私がニコニコした顔を見せれば、みんな少しでもつらいことを忘れてくれるかもしれません」

 「スワルティ」とはジャワ語で、「よい知らせ」という意味。
スーさんの活動は被災地の皆さんにきっと「よい知らせ」をもたらしてくれることでしょう。

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 スーさんのような立場の人は、3回の受験チャンスしか与えられていません。
でも、彼女たちはそれを受け入れてなお、日本のために尽くしています。
さまざまな人がいるため、簡単にハードルを下げることはできないとは思いますが、彼女たちには日本語という壁があります。
他の言語にはない「阿吽(あうん)」の呼吸といったものを読み取る技術も必要です。
それでも、その壁を泣きながらでも、楽しいことを我慢してでも人の役に立つために頑張っています。

 この話で救いだったのは、スーさんの職場の人たちが彼女を温かく見守り、応援してくれていることでしょう。
彼女たちは、いつの日か自国帰り、自国の人たちのために献身的に働くことでしょう。
彼女たちこそが、歴史や文化の異なる国同士を絆でつなげてくれる人たちだと信じます。