走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

少しだけ笑ってください。

2005年10月31日 23時29分55秒 | その他
コメディアンの三宅裕司氏の奥様はかなりユニークな人らしく次のようなエピソードがある。

エピソード①
 三宅氏がまだ下積み時代の話。
 奥様は家計を助けるためパートに出ることになったそうだ。
 そして、そのパートの面接を受けに行ったときの話。
 面接官「家業は?」
 奥様「はい、カ・キ・ク・ケ・コ」
 面接官「??????」

エピソード②
 奥様とその友人が話しているときに、三宅氏が見えた。
 友人「あれ、ご主人じゃない?」
 奥様「ええ、あそこに立っているのが主人です。」と言おうとして、誤って
   「ええ、あそこを立てているのが主人です。」と言ったそうな。 

スーパー公務員塾(第3回)

2005年10月29日 23時53分12秒 | その他
今回の内容は経済財政政策担当大臣秘書官の岸 博幸氏とベンチャーアライアンス協会の廣川 章氏の講演と政策提言のための研修でした。
岸氏からは政策を立案していくポイントとして、次の5つの「せ」が重要と言われました。
 ①専門性
 ②戦略能力
 ③説明責任
 ④センス
 ⑤正 義
廣川氏からは、経済産業省の公募型事業への挑戦の仕方について、実例を挙げながら説明をしていただいた。
また、政策と一言でいっても実は、その位置づけが参加者の立場でかなりちがうような気がしたので、さしでがましいと思ったが、政策についてのすりあわせを行った。
スタッフが若いこともあり、つたないところも見受けられる講座だが、本人たちは必死でがんばっている。
その根底には、地方をよくするためという理想や夢を掲げ、それを実現するための高邁な志をもって取り組んでいる。
しかも、自分の子供のような年代の子がである。
それに対して、私たち大人がどれだけ答えることができているのか、自問自答した。
地方が変わるためには、まず人づくりが重要である。
そして、地域全体として、お芝居のようにさまざまな役回りの人がそれぞれの立場で仕事を行う。
また、それがうまくかみ合うことで観客が感動するお芝居が出来上がる、そんな風にまちづくりを行わないといけないんだと、改めて感じた研修だった。

元気の素

2005年10月28日 12時04分40秒 | その他
人はときに元気でなくなることがある。
たぶん、がんばりすぎていると神様がわざとブレーキをかけるからかもしれない。
きっと、がんばり過ぎると、どんな優秀なエンジンも悲鳴をあげるように。
松山にはまちの真ん中に堀の内という公園があり、そこの銀杏並木はまさにこれから一年の内で最もきれいになる。
黄金色に色づき、さらに散り始めると、自分が映画の主人公になったような気分になる。
平素の忙しさを忘れさせてくれる。
特等席は、愛媛県立美術館の喫茶から望むロケーション。
翌日へのがんばりにつなげるために、なにもせず、ボーと充電する。
そうなのである。人も充電しないと壊れてしまう。
皆さんは、自分でそんな充電の仕方持っていますか?
それと、私は元気が少なくなると、必ず元気な人と話をするようにします。
そして、時に自分が反対の立場になることもあります。
持ちつ持たれつ、元気の素を探しながら、時に自分も元気の素になりましょう。

松山市のまちづくりについて

2005年10月27日 23時19分53秒 | その他
松山市では、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を題材としたまちづくりを行っています。
 でも、決して小説のような軍国主義的な思想を持ち込もうとしているのではなく、その小説のテーマをまちづくりの理念にしたかっただけなのです。
そのテーマとは、坂の上に広がる青い青い空に浮かんだ雲を目指す必要性を市民一人ひとりに訴えかけたかっただけなのです。
その雲とは、まさに「夢」であり、「目標」なのです。
 そして、なぜそのことを訴えたかったのか。
それは、このまちの人たちは誰かに後押しされなけれど進めない人ばかりだからです。
 また、この「坂の上の雲」の直前に、同氏は「峠」という小説を書いています。
「峠」を読むと「坂の上の雲」を同氏が書きたかった理由が見えてきます。
その一説を紹介します。
 「志は塩のように溶けやすい。男子の生涯の苦渋というものは
  その志の高さをいかに守りぬくかというところあり、それを
  守り抜く工夫は格別のものではなく、日常茶飯事の自己規律
  にあるという。
  ものの言い方、人との付き合い方、息の吸い方、息の吐き方、
  酒の飲み方、遊び方、ふざけ方、すべてがその志を守るが為
  の工夫によって貫かれておらねばならぬ。」
  というのが継之助の考え方であった。
 
 このことからも、人は、まず夢をもち、志というエネルギーで突き進むことが重要である。

バイオ国際シンポ2005を終えて

2005年10月24日 23時54分22秒 | その他
今回のシンポジュームで本市が得をしたこと。
昨年まで、大学に派遣していたU君が4月にうちの部署に帰ってきて、かわりにS君が大学に行った。
少し若いせいもあり、大丈夫かなと思った。
おとなしい性格である。
でも、うちのシンポの担当をU君でなく、これも新任のD君に委ねた。
S君もD君も戸惑っていた。よくわかった。
でも何も口出しをしなかった。
彼らを束ねるのはNリーダー。
彼は経験者、でも2回目。
だんだん本番が近づくと、U君も、D君も、担当ではないけれど同じチームのST君までも忙しくしている。
Nリーダー率いるチームは一丸となった。
そして、本番の日がやってきて、粛々とスケジュールが進む。
無事終了。
最後の交流会で大学側のスタッフから、S君に対するがんばりを評する言葉をさまざま聞いた。
私としては、自分が褒められるよりもうれしい。
S君がたくましく見える。
そして、Nリーダー率いるチームワークが頼もしくもあり、うれしかった。

人と人がつながる

2005年10月24日 23時38分04秒 | その他
春から手がけていた企業誘致の案件に前進があった。
担当スタッフは、本当によくがんばってくれた。
企業誘致の場合、水面下のやり取りが続く。
いかに相手の欲していることを把握し、提案できるかが決め手になる。
でも、それ以上に大事なのが互いの信頼関係である。
なぜ、我々が優位に立てたのかを聞いてみた。
まず、行動が早かったこと。
そして、うちの担当者を好きになれたこと。
ありがたかった。
何よりも賛辞のほめ言葉である。
こんな部下の上司になれたことに感謝。

バイオ国際シンポ 2005 の開催

2005年10月23日 22時59分08秒 | その他
松山市では、愛媛大学工学部の遠藤先生の無細胞タンパク質合成技術を核としたバイオテクノロジー分野の創出拡大を目指しています。
そして何よりも、遠藤先生の技術が広範かつ奥深いものであることを知るたびに、私はその技術に魅了されます。
その技術は、これからの科学に大きく影響を与えるものであり、人類の生命と可能性を高めるものであります。
そして何よりも、遠藤先生の人間性に触れるたびに、遠藤先生を大好きになっています。
少年のように純粋な心、どこまでも真理を求めようとする探究心、でも研究とマーケティングを融合できる姿勢は、いつも驚かされます。
そんな先生が、少しだけ気にされていることがあります。
それは、このシンポジュームです。
「すぐに結果は出ないよ。」
なにをおっしゃいますか。
世界のタンパク質のトップレベルの科学者たちが、この小さな国の小さな都市へわざわざやってくるのは、すべて遠藤先生のお力です。
そして、このシンポがずっと続けることができれば、本当にすごいことです。
世界のタンパク研究の拠点都市として、この松山が世界へ向けてアピールできるのです。
これは、松山にとって、とっても誇りに思えることですし、いつの日にか第二の遠藤先生が生まれるきっかけにもなることです。
人類の未来を担われている先生のお手伝いができること、とっても幸せだと知ってます?
イイことのお手伝い、最高ですよ。

また、ノーベル賞候補にあがっても、われ関せずの様子。
私なら、どこかで期待するのに、まったく本当に気にしていない。
もらえればもうけもの程度しか、思っていないのか。
私など、毎年、発表の時期になるとついそわそわしてしまう。
でも、最近、ノーベル賞候補になる人物とよく出会う。
中村さん、山海さん、みんなノーベル賞がとれればいいのに。
なぜなら、みんな少年のように科学にすべてをかけ、そして何よりも人を慈しまれる人たちばかりだから。

バイオ国際シンポ2005での出来事

2005年10月23日 20時27分16秒 | その他
シンポジュームの第一日目、一般の部で車椅子の女性が出席してくれた。
関係者としては、満員の会場のどこに着席してもらおうか考えた。
施設は、バリアフリーにはなっていない。
施設は扇形のすり鉢状になっている。
講師の入る前から入れば階段がないので楽に入れる。
部下が、「下から入ってもらいますか?」と聞いた。
でも、満員の会場の出席者の目がすべて彼女に注がれる。
自分だったらどうかと考えた。
その視線はイヤだと思った。
「いっぱいですので、一番後ろでもいいですか?」と聞いた。
彼女は不安そうに「ハイ。」と答えた。
スタッフを呼んで、みんなで階段を抱えて上がった。
途中で「不便はないですか?」と聞いた。
同伴の男性も彼女も「はい、大丈夫です。」と答えた。
講演が終わると、彼女は同伴の男性と受付にいた私のところに、わざわざ来てくれて、「ありがとうございました。」と言ってくれた。
なんとなく心が通じ合えたような気がした。

感謝して、嘘も方便

2005年10月21日 22時52分24秒 | その他
東京に行ってきた。
時間が少し余ったので久しぶりにホテルのマッサージを頼む。
ドアのノックがしたので、空けてみると初老の婦人が立っていた。
瞬間的に「大丈夫かな?」と思った。
マッサージが始まると、これが驚くばかりのパワーである。
そして、何よりもよくしゃべる。
私は、マッサージを受けていると、普通はそのまま深い眠りに入ることが多いので最初に支払を済ましておく。
でも、よくしゃべるから眠れない。
「お客さん、最初に私を見たとき、大丈夫かなと思ったでしょう。」
「わかった?」
「わかるわよ。大概のお客さんはそう思うからね。
 そしてさあ、次に思うのが、私のこの力よ。」
力が入るところで、アクセントが変わる。
「うん、驚いてる。」
「お客さん、私、何歳に見える?」
この場合、失礼がないように、思っているよりも少し若く言うようにしている。
「60歳くらい?」
「よく言うよう、72歳よ。」
少なからず、驚いた。
「お客さんは、何歳?」
「49歳。」
「干支は?」と確かめるように言った。
「申(さる)」
「申、ふ~ん。」何か確かめているようだった。
「じゃあ、あと一つで50歳だ。それじゃ2つ、いいことを教えてあげるよ。
 まず、1つ目は50になったら60まで、今まで以上に世の中のためになることを一生懸命、やんなさい。
 そしたら、60からとってもイイことが始まるよ。
 だって、60は還暦て言うでしょう。還暦て言うのはね、歳がもとに戻ることなんだよ。
 だからさあ、それまでにうんとイイことしときなさい。」
ご婦人は、私の職業を知らない。
「でも、元気じゃなきゃあ、イイことしようと思ってもできないよ。
 元気になるコツは、サボることよ。
 でも、だらだらサボっちゃだめ。身体がさ、悲鳴を上げそうになったらサボるのよ。
そのときに、感謝して、嘘も方便て思ってサボりなさい。」
まさに、名言である。そして、ご婦人の話は続く。
「2つ目は、人を信用しなさい。
 でも、この世には悪いやつもいるからさ、見極めが大事よ。
 そのコツはさ、初対面のときに年齢を聞くのよ。
 歳をごまかしたり、はぐらかす奴はね、自分の年輪に自信を持ってない奴だからさ、信じちゃだめよ。」
なるほどである。それじゃ、さっき歳を聞かれたのは試されたのか....。
でも、どうやら、このご婦人に気に入られたようである。
本当に人生の師匠はどこにでもいるもんだなあと、思った。


喫煙が見つかった日

2005年10月19日 00時44分52秒 | その他
 人より早めにタバコを始めたせいか、今はすっかりやめてしまっている。
やめる直前は、ロングピースを一日2箱も空けていた。
 でも、なぜそこまでのヘビースモーカーがいとも簡単に禁煙できたのか。
そのわけは、その当時やっていたスポーツですっかり持久力が続かなくなり、すっかり自信を喪失したからである。
 そういえば、はじめて親に喫煙が見つかったのは、だいぶたってからである。
なぜ、そんなに長く見つからなかったのか未だに不思議である。
本当は、既にわかっていたのだが見ないふりをしていたのか、それとも両親とも喫煙していたため気付かなかったのか、わからない。
とにかく、見つからないよう吸殻の後始末はまめにやっていた。
 そんなある日、友人が遊びに来ていて、外に出かけることになった。
お袋は、仕事に出ていたので、まだ帰ってくる時間ではない。
吸殻の後始末は帰宅してからすることにして、出かけたのである。
 そして、帰宅するとお袋が吸殻をじっと凝視していた。
お袋は寂しそうな声で
 「お前、吸いよるんか?」
私は早く楽になりたい気持ちがどこかにあった。
 「ああ..。」
 「ふ~ん、やめられんか?」
 「無理やなあ。」
 「いつから、吸いよるんぞ?」
 「つい最近...。」
それ以上、お袋は無理強いをしなかった。
お袋は、新しいタバコを取り出し、封を切って、タバコを取り出し、差し出した。
私は、安堵した。
これで大平にタバコが吸える。
本当に安堵感でいっぱいであった。
タバコをくわえると、お袋がすかさず火をつけ、私の前に差し出した。
私は、その火にタバコを差し出し、火がつくと大きく吸い込んだ。
なによりも幸せな顔をしたと思う。
安堵感がなせる業だった。
そのとき、お袋が私の一連の動きを観察していたことに気付いた。
しまった。
しかし、時すでに遅し。
お袋は、すかさずこう言い放った。
 「お前、それが最近タバコをはじめた吸い方か!?」
 「・・・・・。(無言)」
参りました、お袋様。

親父に言われたこと

2005年10月18日 01時04分58秒 | その他
 10月18日は死んだ親父の誕生日である。
 なぜこんなことを覚えているかというと、実はお袋が20日が誕生日で19日にいつもあわせて誕生祝い(祝いといっても赤飯やいつもよりご馳走が出るくらい)をしていたからである。
 親父とは今まで生きてきた人生の内、17年間しか付き合わなかったから、約三分の一程度の付き合いしかない。
しかも、物心付いてからということになると、本当に短い期間である。
 大正生まれの親父は、古いタイプの人間で、絶対に人前で涙を流さず、弱音を吐かず、文句を言わない人であった。
また、付き合いが短かったせいか、多くのことを教えてもらえなかった反面、言われたことをよく覚えている。
 中学生のときに、親父の前で友人の悪口を言っていると、口の重い親父の口がめずらしく開いた。
 「お前、手のひらを見てみろ。」
 「なんだよ、いきなり。」と言って親父に従った。
 「手の甲が見えるか。」
 「なに言ってんだよ、手のひらを見ろと言っただろう。手の甲が見えるわけなかろうが。」
 「そうだろう、人には手のひらと甲のように、いいところと悪いところがある。
  悪いところばかり見てると、その人のいいところが見えなくなる。お前は、
  悪いところを一つ見たら、いいところを二つ見るようにしろ。それが、人と
  うまく付き合うコツだ。」
 最近、この教えを忘れていたような気がする。
 皆さんはどうですか?

「モノ」と「コト」

2005年10月16日 21時29分27秒 | その他
 本日、2回目のスーパー公務員講座がありました。地元から2人の方が講師として選ばれ、楽しい話をしてくれました。
 一人目が旧双海町(現在は伊予市)で「夕日」をキーワードに町おこしをされた若松さんです。若松さんの話はいつ聞いても楽しく、勇気が湧いてくるものでした。
 そして、二人目が松山市の池田和広さんでした。彼は、松山市のまちづくりの理念や取り組みについて話をしていただきましたが、特に彼が仕掛けた「コトバの力」事業や「俳句甲子園」事業について具体的な話があり、苦労話や裏方のドラマなど魅力のあるものでした。
 そういえば、「モノ」と「コト」のちがい、わかりますか?
モノは形あるもの、コトは形のないものが一番わかりやすい違いです。
モノは形あるものですから、誰が見ても理解してくれるわけですが、コトは自分の心を精一杯伝えなければ伝わらないものです。
「コトバ」は「コト」から生まれ、形ないものです。心を精一杯のせて話をしなければ伝わらないということです。
そして、その一つ一つをかみ締めながら、発しないといけないなあと思うのは、秋が深まっているからでありましょうか。

民俗学はおもしろい!!

2005年10月15日 16時20分18秒 | その他
 今日、NHK松山放送局のイベント「NHKスペシャル/新シルクロード」に参加してきました。講演は、国立民俗学博物館教授の小長谷有紀さんでした。
 彼女はもともとモンゴルについての専門だそうですが、シルクロードの西夏という都市が砂に消えたことについて研究をされているそうです。
その話を聞きながら、民俗学は単にそれだけに止まらず、環境学や生物学、経済学まで造詣が深くなければならない学問だということを改めて気付きました。
その話は、本当に興味を抱くもので、中国の変遷や現代中国の有り様、さらには中国の未来まで見えるような気がします。(ちなみに、氏の著作に「中国の環境政策」があるそうです。)
 また、モンゴルにもふれ、例えば「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」というのが日本だが、モンゴルでは「赤信号、気をつけて渡りましょう。」という風土らしい。つまり、厳しい自然の中で移動しながら生きていくためには、すべからく自己責任という考え方が中心なのだそうです。
 そして、彼女はこうも付け加えました。「これから、よりボーダレス社会が進んだとき、国を背負って活動するには限界があり、国を超えた自己責任の下での活動の方が現実的になるでしょう。そういう意味では、私たちはモンゴルの人々から多くのことを学べると思いますと。

食文化て...

2005年10月14日 01時32分25秒 | その他
私の母が広島出身のため、私は子供の頃からよく広島に行っていました。
今考えると生活が苦しく、口減らしだったのかもしれないと思えるくらい、かなり長期で私ひとりだけ広島に行かされておりました。
でも、私はというと、食生活では自宅とは比べようもないくらいのご馳走にありつけたのと親戚の近所にたくさんの友人ができたこともあり、毎日が楽しくてたまらなかったような気がします。
 その時に、街の角かどにお好み焼きさんがあって、毎日といっていいほど食べに行っていたためか、私は相当のお好み焼き好きになってしまいました。
今でも主食がお好み焼きといってもいいくらいです。
 そして、それに拍車をかけたのが、私の住んでいた三津浜という地域が、広島との海の玄関口だったということです。
三津浜は広島からさまざまな影響を受けており、食文化も例外ではありませんでした。事実、三津浜地域が松山の中で一番、お好み焼き屋密度トップであります。
 でも、同じお好み焼きでも、決定的にちがうことがあります。
広島のお好み焼きには入っているけれど、三津浜のお好み焼きには入っていないもの、それは「もやし」です。
そのためか、広島のお好み焼きはジューシーですし、また広島のお好み焼きは裏返してから、丸型の大きな文鎮みたいなやつで力をかけますから、蒸し焼き状態になり、より一層うまみ成分が混じっておいしくなります。
どうです、あなたも食べたくなってません?

いわれたままに生きていないか

2005年10月11日 23時25分37秒 | その他
人は強い信念をもち、それを行動に移せる人がどれだけいるのでしょうか。
日本のシンドラー「杉原千畝」のドラマを見ていて、そう感じました。
戦争という大きなうねりの中で、自己の所属する組織に逆らってでも、正義と人道的な行動を貫ける人はほとんどいないでしょう。
自己を振り返ったとき、地域のためならば、組織に逆らってでも行動できるのか、改めて自己反省をしたところであります。
新たな取り組みや変革を行おうとしたとき、必ずといっていいほど、軋轢や障害が生まれます。乗り越えなければならない壁はたくさんあります。
その壁は正攻法だけでは解決できないことがたくさんあります。でも、それが正攻法でないからとあきらめられるのか、常に自問自答をしています。
地域のために本当によいことなのかどうなのかを考え、地域の福祉や幸福につながることを最優先したいと考えます。
どんなに自分が貧乏くじをひこうとも、自分の信念で、やっぱり突き進みそうです。なぜかそんなことを考えてしまう初秋の夜長でした。