走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

自分の境遇を嘆く人へ

2013年07月15日 23時50分41秒 | 悩める君へシリーズ

 自分は不幸だと口にする人がいます。
 それは、自分の評価があまりにも低いからでしょうか。

 “逆境”という言葉がありますが、どのような境遇、環境に置かれたとしても生き生きと生きている人がいます。

 それは、なぜでしょうか?
 おそらく“生き方”の問題なんじゃないかと思うんです。

 鉄は何度も熱い火の中に入れられ、何度も固い金槌で叩かれ、はじめて剣に仕上がります。

 つまり、逆境にさらされているということは、ありがたくない経験を積める絶好のチャンスということなのです。
 そして、その経験の数々が輝かしい未来の自分を創ってくれる。
 
 そう考えると、とてもウキウキしてきますよ。
 
 
 

動きながら考える

2013年07月14日 22時23分31秒 | 悩める君へシリーズ

 よく仕事の中で、「時期尚早」ということでお蔵入りする案件がある。
 
 特に上司が口にすることが多い。
 部下は、何が準備不足で“時期尚早”なのか明確な説明がないまま止められることもある。
 上司としては、危機管理上、なんとなく嫌な感じがするだけでやりたくないと思い始めると、その思いの方が強くなる。
 こうなると、「まず一歩進めてみませんか」といっても進む気など起こらない。
 明確な説明がないまま、不完全燃焼している部下のモチベーションはどんどん下がっていく。

 きっと、その上司は「準備ができていない」と自分を納得させ、「いつか準備ができたあかつきには」と考える。
 しかし、こういう場合、「いつか」はいつまでたってもやってこない。

 では、その準備とはどういったものなのか。

 十分な知識、道具、技術、資金、人材、やろうという気力、いけるという予感、やりきれる体力、やるべきタイミング、そのすべてが完璧にそろうこと。

 私の経験では、まずこれらすべてがそろう時期は未来永劫やってこない。

 大切なことは、まず一歩踏み出す勇気を持つこと。
 一歩踏み出すとさまざまな問題点に気づく。

 踏み出さない人たちの多くは、それを見ながら「そら見たことか」と嘯(うそぶ)く。

 しかし、これらの問題点にぶつかってこそ、はじめて改善方法を見いだせる。
 そして成功に向けて近づける工夫をする。
 この工夫こそが、成功への道なのである。

 よく行動する人は、知識は最低限でいいということを知っている。
 先輩からは、「一に体力、二に気力、三に知力でええ」と教えられた。
 自分はよき先輩たちに巡り合えたと感謝している。
 その先輩は、「まず行動せよ」ということを言いたかったんだと解釈する。
 おそらく、実際に動く前に、わかることなどほとんどないということをよく知っていたからであろう。

 何かの本で、人間の脳は、自分の行動を正当化するようにつくられているというのを読んだことがある。
 小さくとも、「一歩踏み出す」行為さえ続けていければ、脳が勝手に「なぜこれがただしいのか」という理由を勝手に認識し始めてくれるというのである。

 大切なことは、不安をなくすことではない。
 いかに早く、多くの失敗を重ねることができるかである。
 そして、その失敗を学習して、バグをつぶしていくように成功へ近づけていくことである。

 そうすれば、「未来はいくらでも自分の手で生み出すことができる」という自信を、休むことなく生み続けることができるようになる。

 “がんばれ上司”である。 

 
 

欠点が魅力

2012年12月05日 20時12分55秒 | 悩める君へシリーズ

 人にはさまざまな欠点がある。

 中には完全無欠な御仁もいるかもしれない。
 だが、私は欠点だらけである。

 そして、私自身、若い頃、人の欠点が許せなかった時期がある。

 本当に青く、稚拙だったと思う。
 今思うと、顔が赤くなる。

 いつの頃か...

 多分、チャレンジの子どもたちと接する機会が増えてきたおかげからか。

 誰しも欠点はある。
 でも、それがその人の魅力なんじゃないかと思えるようになった。

 そう思えるようになってから、自分の欠点や失敗を人に話せるようになった。
 本当に肩の力が抜けた。

 人より優れている点ばかりを主張していた自分がいる。
 恥ずかしいと思えるようになった。

 至極、当たり前になった。

 人の悪口や中傷をする前に、一度、咀嚼(そしゃく)し、自分のものとし、飲み込んで欲しい。
 人を傷つけても何も得るものはない。

 上手くいかないとき、それは人や世間が悪いのではなく、自分に責任があると思えば、きっと新たな自分が生まれる。

「どうして」から「どうすれば」へ

2012年12月01日 11時30分47秒 | 悩める君へシリーズ

 人は、失敗続きやがんばっても報われないとき、フッと「どうして」と思いがちである。
 そして、どんどんマイナスの方向に自分を向けていってしまう。

 すると、何をやってもうまくいかなくなってしまう。

 周囲の人たちもそんな様子を見ていて少しづつ離れていく。
 すると、さらに「どうして...」と思うようになる。

 冷静に見ると、すべて自己の問題に帰着する。

 そんなとき、「どうして」という(自己への)問いかけを「どうすれば」にスイッチを切り替えるだけでずいぶんと変わる。

 「どうすれば」には、自己への挑戦がある。
 自己に打ち勝つ。
 ここからすべてが始まる。

 だからといってうまくいくわけではない。
 だが、常に「どうすれば」へと切り替えることができれば、少しづつ切り拓けていく。

 人は一生懸命な人を応援したくなる。

 打開策は自分以外の人によるところが大きい。
 ただ、がんばっているとどうしても人の力を受け入れにくい。
 そういう時、もう一度、「どうすれば」という言葉を心の中でつぶやけばいい。 

 そうすれば、肩の力が抜ける。
 人の力を借りれることも大切だとわかる。

 決して無理をする必要はない。
 大切なことは、目的や目標を達成すること。

 ただ、それだけである。

どう叱る?どうほめる? 変わる社内コミュニケーション

2012年09月13日 22時02分31秒 | 悩める君へシリーズ

 今夜のNHKのクローズアップ現代は、次のような内容であった。(ホームページから引用)

 部下の叱り方やほめ方を教える研修が全国各地で人気を集めている。
 若手とのつきあい方を見失った管理職が増えているためだ。
 上司が軽く注意したつもりでも、それが原因で会社を辞める若者が後を絶たず、厚生労働省の調べによると“パワハラ”に関する部下からの相談件数は、この10年で6倍に増加している。
 しかし一方で、“ほめる”だけの、厳しさのない職場では、人材が育たないと危惧する企業も増えている。
 叱るのか、それとも、ほめるのか。
 上司の苦悩の背景には、成果主義の導入、年功序列の崩壊、雇用形態の複雑化など、会社の構造が変化し、これまでにないコミュニケーションが企業社会の中で求められていることがある。
 部下の指導に悩む管理職や、新しい人事システム導入を試みる企業の取材を通じて、現代に求められるコミュニケーションのあり方を探る。

*************************

 実は、このことに悩んでいるのは管理職だけではない。
 なんと10歳くらい離れた先輩でも新入社員の考えがわからないという。

 その一方で、入社三年目までの若者たちも悩んでいる。
 ゆとり教育で育ち、怒られないままにきた若者たちが、いきなり否定されるのである。
 時には全否定されるのである。
 今まで普通に考えていたことが、普通じゃないんだと気づいたときのショックを思うと、そういう教育をしてきた私たちにも責任があると思う。

 運動会で一位を決めない競技をしていて、いきなり「勝ち残らないと生きていけない」と言われたらどのように思うだろうか。

 少し話がそれるが、先日、一回りちがう後輩が尋ねてきてくれた。
 彼曰く、「最近、怒られないんですよ。怒らずにおいて、陰口を言われる。聞こえてこなければいいのに、耳に入る。正々堂々と直接言ってくれればいいのに...」

 私は、彼をいつも烈火のごとく怒っていた。
 職場の裏の駐車場で、天を仰ぎ見て涙する彼を見た者もいる。
 そして、その悔しさをバネに挑んできた彼がいる。

 時代は変わったというが、変わらないものが一つだけある。

 その人のことを思い、その人の将来を思うこと。

 そこが、ほめるか、怒るかの境界線のような気がする。
 
 私も昔とちがって、ずいぶんと怒らなくなった。
 立ち居地がちがってきたせいか...

 でも、めったに怒らないが、その人のためを思うとつい怒ることもある。
 そのときの例は、

 「君は、すごいと思う。
  何々もできて、何々もできるからね。
  でも、そんな君にも二つのことができていないと思っていた。
  一つ目は、何々。二つ目は何々。
  その一つ目は、注意したよね。
  そうしたら、君はできるようになったよね。
  じゃあ最後の一つ、これもできるよね。
  それさえできれば、君は完璧だ。
  そして、君ならできる」

 やり方は色々とあると思う。
 でも、真剣にその人と向き合っているかどうか。
 昔の親が見ていないようで、誰よりもわが子を見ていたように、その人を常に見守り、その人の未来も含めてどういう道筋をつけてあげるのがいいのか、真剣に向き合っていれば、怒るべきか、ほめるべきかなど悩まなくてもいいような気がする。
  
 

成長するとは

2012年03月14日 23時43分38秒 | 悩める君へシリーズ

 自主研究会は楽しい。年齢、職責関係なしに議論できるからである。
 若いエネルギーも吸収できる。
 一生懸命学べば学ぶほど誰しも一過言持つ。
 熱くなる。
 熱くなるのは成長の証でもある。
 心の中では「がんばれ!」と思っているのだが、齢を重ねると、つい意地悪になる。
 そして、何よりもズバッと本質を突いてみる。
 相手は余計に意地を張る。
 この「意地を張る」というのは議論をしていて大切なことである。
 何度か切り返しながら、本質に迫っていく。
 (相当、意地が悪い)
 そこで相手が気付けばしめたもの。
 でも、第三者がいればなかなか引き下がれない。
 それも頼もしい。

 ただ、私たちは地域社会を担う立場である。
 「気付き」がなければ、成長も進歩もない。

 そして、珍しく、私のような者の考え方も一理あるといった内容のメールが送られてきた。
 そこで、以下のようなメッセージをつけて参加者全員に返した。


 皆さんへ

 私たちは、真摯に仕事をしていればいるほど本質を見失うことがあります。
 大切なことは、少し時間を置いたり、俯瞰的視野から物事を見つめなおすことが大事です。
 そのためには、年齢、職責関係なしに常に謙虚に自問自答することから始めることです。
 自分の弱さや欠点を自己認識するというのは怖いものです。
 しかし、それができてこそ、はじめて「聴く耳をもつ」力を有することができます。
 だからこそ、何よりも成長するために傾聴力を持つことです。
 そして、それを実践する行動力を持つことです。

 私たちは地域社会システムをつくる権限を有しています。
 その権限の使い方しだいでは、地域社会の人や企業等、さまざまな人たちを幸せにしたり、不幸にします。
 だからこそ、柔軟な思考をもち、しなやかな行動をとることが大事なのです。
 私たちは、豊かで幸せな地域社会をつくる使命を担っています。
 
 自己の個人的なプライドを捨てられるかどうかが、崇高なプライドにつながると私は信じています。
 
 君たちは、私よりも優秀です。
 だからこそ、学びの柔軟性を持ち、いいものも、そうでないものも一度口に入れてみて、よく咀嚼し、
 それから飲み込むか吐き出すかを判断してみてください。
 毒だと口に入れた時点で死ぬかもしれないと思われるかもしれませんが、その覚悟がなければ、
 地域を担う資格はないと思います。
 自分が傷つくことを恐れていていけません。

 勇気を出して、一歩、一歩前へ出る勇気を持ってください。
 そのことが、絶対に市民のためになります。
 お願いします。

 

部下に辞めたいといわれた君へ(Part 2)

2011年12月11日 19時35分49秒 | 悩める君へシリーズ

 久々の「悩める君へシリーズ」である。
 一度、「部下に辞めたいといわれた君へ」というのを書いたことがあるが、今回は部下がそこまでにいたる経緯について考えてみよう。

 まず、自分が部下だったとして、仕事をどのように捉えているかである。

 「仕事が楽しい」と思っていたら、まず辞めない。
 「今の仕事はやりがいがある」と思っていたら、まず辞めない。

 例え、休みが少なくとも、残業続きでも、給料が安くともである。

 つまり、辞めたいと思うときは「楽しくない」、「やりがいがない」と思っているときである。
 ひとことで言うと「つまらない」のである。

 では、なぜそこに至ったのか?

 1. 本人が仕事の本質を見極めることが出来ず、イヤイヤ仕事を継続してやってしまったため。
 2. 本人は頑張っているつもりでも上司が適正な評価をしないため、モチベーションが低下したため。
 3. 本人の実力以下の仕事をさせられ続けたために、モチベーションが低下したため。
 4. 職場の人間関係になじめず、孤独感や焦燥感が積み重なったため。
 5. 理想と現実のギャップの大きさに気づき、その溝が広がり続けたため。
 6. 常にオーバーワークを強いられ、肉体的にも精神的にも限界に来たため。

 これらが考えられる主な要因であろうが、現実的にはこれらが複雑に絡み合っている場合の方が多いであろう。
 こうなると、率直に言って、(辞職を止めようとしても)止めても無理だと思う。

 本当に部下のことを思うなら、温かく送り出してやることだろう。


 私も早55歳。
 第二の人生を考えなければならない時期に来ている。

 若い頃から、コスト意識を持ち、コストメリットを計算し続けてきた。
 勝手な胸算用では、私がいただける生涯賃金の数百倍は貢献した自信がある。
 
 客観的に自分を見つめなおす日々が多くなった。
 組織の中でイノベーションを起こすことで、地域社会に変革を起こせると信じていた。
 ただ、社会変革(勝手に「ソーシャル・イノベーション」と読んでいる)は自らが現場に赴き、自らの手を加えないと変わらないというジレンマに陥る日々が多くなった。

 また、新たな自分に挑戦したいという思いもある。
 今まで積み上げたスキルやノウハウを活かせるフィールドが他にもあるのではないかと感じ始めてもいる。
 55歳という年齢が早すぎるのか、遅すぎるのかはわからない。
 ただ、組織に対しては充分すぎるくらい貢献したという、満足感に近い思いが正直あるのも事実である。

 組織が社員を見切るように、これからは(社員が)組織を見切る時代が来ていることに私たち上司は早く気づくべきである。 

楽をしたいと考えている君へ

2011年09月07日 18時26分22秒 | 悩める君へシリーズ
 ある企業のオーナーから次のような話をお聞きした。

 先日、国の関連の事業の推薦をもらいに市役所にお願いに行ったというのである。
 事業の説明や有効性についてお話をしたところ担当者からは「預からさせてください」と言われたので、置いて帰ったというのである。
 県内の他の市町にもお願いしたところ、それぞれ温度差があり、病院や医師が減り続けている市町ほど理解があったということであった。

 ある市では、電話で説明したところ、関係資料と推薦状の様式をパソコンに送ってくれたらすぐに送り返しますと言われたそうだ。
その人は、内心「大丈夫かな」と思ったらしいが、送り返してくれた推薦状は感動するくらい充実した内容だったそうなのである。
そして、その迅速さは締め切りが迫っていたので大層うれしかったといわれていた。

 反面、ある市ではなしのつぶてでレスポンスが悪く、電話で問い合わせたところ、「うちでは必要性が認められないので推薦できません」ということもなげの回答であったと、立腹されていた。
その腹立ちを収めていただくために、「誠に申し訳ありません」と私が謝る始末。

 それでも、まだ腹の虫が収まらない様子で、
「なんなんですかねえ、別に悪い事業をしているわけではないんですよ。むしろ、子どもたちや子育てママにとっては有意義な事業なんです。行政が取り組んでいないから、私たちが立ち上がっただけなのに、必要性が認められないと一刀両断ですよ。とても、真剣に事業精査をしたとは思えない。社会的課題に行政の大きい小さいがあるとは思えない。とても仕事をヤル気があるとは思えない」と続く。

 内心、「そのとおり」とは思ったが、ただ「すみません」と謝るしかない。

 事例は異なるが、今、市民や市民活動をしている人たちから異口同音同じような声を耳にする機会が増えた。

 私たちの仕事は、私たちのためだけにしているのではない。

 市民のために仕事をしているのだ。

 そのことを理解して仕事をしているのか。

 有能な後輩たちだからこそ、声高にいいたい。

 君たちは、本当に市民を思い、市民のために仕事をしているのか。

 常に、市民にとって最良の道を探し続けているのか。

 自分が楽をしたいと、あまりにも考えすぎていないか。

 世の中、楽なんてありはしない。

 楽をした途端に、そのしっぺ返しは必ずやって来る。

 市民の声なき声が、私は怖いと思っている。

 上手くごまかせたと思った瞬間、君は既に市民から見限られていると思え!

 市民は、そんなに甘くない。

 楽を選びたいなら、行政という仕事をやめればいい...

 お願いです。決して楽な道を選ばないでください。

失敗を恐れる君へ

2011年09月04日 00時12分02秒 | 悩める君へシリーズ
 若い仲間たちと話していると、無防備な発言を聞く機会が多い。
そして、その発言に対して根拠を求めていくと簡単に行き詰まってしまう。
その発言のほとんどが思いつきの場合が多いためか...

 後で後悔する。
なぜなら、その友人たちにとって私はただの陰険なオヤジとしか映らないからだ。

でも、怯(ひる)むつもりはない。
なぜなら、ものごとを詰めていく時にどういった手順で考えていくかは、自分自身が身をもって体感しないと身につかないと思っているからだ。
 しかし、最近、この手法では若い人たちにはダメージが大きいということがわかってきた。
なぜなら、その若者たちは指摘されることを恐れて、危険を冒さなくなってくるからだ。
そして、危険を冒さなくなると、「楽だ」と気づく。
余計に危険を冒さなくなる。

 不思議なものである。
危険を冒さないということは、新たな喜びが絶対にこないということを引き換えにしていることに気づいていないからだ。
こういう時、自分の失敗談をいっぱい話すことにしている。

 失敗したから今の自分があるということをわかってもらうために。
私はスーパーマンでもヒーローでもない。
失敗ばかり続けているただのオヤジであることをわかって欲しい。

 だからといって同じ失敗をして欲しいと思っているのではない。
むしろ、そういう失敗をひとつでも多く事前にクリアできれば、もっと有効な行動が取れるはず。

 そして、失敗をしたからといって法治国家のわが国では命までとられることはない。
大切なことは、失敗しないことではなく、失敗を恐れて何もしなくなるということだ。


上司と反りがあわずに悩んでいる君へ

2011年09月02日 01時01分38秒 | 悩める君へシリーズ
 前にも書いたかもしれないが、人には器の大きさがあり、人それぞれでその大小があるような気がする。

 そして、人間関係で難しいのは、その器に大小があることだろう。
 何が言いたいかというと、大きな器には小さな器を収めることは可能だが、小さい器に大きな器を収めようとしても無理だということである。

 これが上司と部下の関係になるとややこしい話しになる。

 私は部下に見限られるタイプの上司なので、私より小さな器の部下を探すほうが難しい。
 かわいそうなのは、部下たちである。
 「この程度の上司」と早々に諦めていただき、次の異動まで我慢していただきたい。

 ただ一言いいたいのは、その憤懣やるせない思い(ガス)をためていては身体やメンタル的によくないということである。

 自分なりのガス抜きができないと、病気になってしまう。
 これだけ複雑かつ多岐におよぶ問題が発生する世の中で、ガス抜きができないと致命傷にまで発展する可能性もある。

 では、どうするか。

 上司の悪口を全部言ってしまえ!!

 ただし、身内や仕事と何のゆかりもない友人にである。

 そして、大声で笑え!!

 笑い転げて、苦しいくらい笑いまくるのである。

 そんなことはできないというなら、私みたいなやつと付き合えばいつでも笑わしてあげます(キッパリ)

 最後に悲しい現実を申し上げておきます。
 人の器は、広げることも大きくすることもできません...(残念!!)

もがきつづける君へ

2011年08月16日 22時30分15秒 | 悩める君へシリーズ
 今夜、久しぶりに役所の後輩と「メシ会」をした。

 時間が過ぎるとともに、愚痴に近い本音が出てくる。
 彼の年齢は、40歳。
 孔子はこの歳を「不惑」といった。

 しかし、自分も経験があるが、とてもてとてもそんな領域に達することはできない。

 彼を迷わしているものは何か?

 恐らく、彼自身だと感じた...
 彼自身、人生でいうと、大きな分岐点に差し掛かっている。
 なにかわからないが、「このままでいいのか」という自分と「このままでいいんじゃないか」という自分がいて、
 「もっとやれるはずだ」という自分と「もうやれないのか」という自分が激しくぶつかり合っているのかもしれない...

 つらいのであろう、苦しいのであろう。

 自分が置かれている立ち居地が、不満なせいもあるのかもしれない。

 全てのものを受け入れて、飲み干す度量を持つにはもう少し時間が要るのかもしれない...

 場面は変わって
 同じような年齢の中小企業の社長から電話がかかってきた。

 悩みを聞いてほしいというもの。

 内容は、5年前の自分と今の自分がちがうんだろうかというもの。
 というのは、5年前なら攻撃的に挑戦していたことが、今はサービス評価よりも金額的評価が高くなり、その精神が薄れている自分がいる。
 この変化は、なんなんだろうという悩みである。

 この相談には、価格競争に巻き込まれサービスの品質が落ちてしまうのではないかという恐怖感にも似た心理が働いているのではないかというアドバイスをした。
 また、現状の中でも、コストパフォーマンスをもっと突き詰められるところがあるのではないかと。

 行政改革を担当していたときに、贅肉を落とすためにぎりぎりの戦いがあった。
 しかし、やりすぎると筋力まで落としかねない状況が起こる。
 その境目が難しかった。
 だから、時間があれば、その担当課まで出向き、状況などを聞く。
 当然、相手は何を削減したがっているかすぐにわかってしまう。
 でも、わざとそうした。
 第三者が削減するよりも、まず担当に努力をして欲しかったからだ。
 なかには、居直って「やれるものなら、やっとうみゃ」といった人がいたので、思い切りやらせていただいた。
 嫌われるどころか、怨念にも近い反発も受けた。

 
 変わることは、怖い。
 だからといって変われない自分をそのままにしておくと、成長なんかあるわけがない。

 今の壁を打ち破るには、変わりたくないという深層心理を打ち砕かない限り前進はできないのである。

 「常に、自分は変わるんだ」という強い信念をもつことが大切なのである。

 昨日よりも今日、今日よりも明日。
 ちがう自分を自分自身の手で創りあげない限り、その答は見出せないであろう...
 
 

単調な仕事がいやになっている君へ

2011年08月15日 19時21分32秒 | 悩める君へシリーズ
 人というのは不思議なもので、単純な作業をしていると作業時間がだんだん早くなるという。
 そして、それが単調すぎるといやにもなる。

 そこで、いやでもその仕事を辞めないのは、「自分の時間を売っている(労働対価)のだから仕方がない」と諦めるからか...

 コンピュータが日常に入る前から仕事をしているので、その変化について驚く一人である。

 昔は、大量定型的な仕事が山のようにあった。
 それを人海戦術でやっつけるのである。
 若い頃、その単調な仕事を朝から晩まで、何日も繰り返してやらなければならなかった。

 それだけじゃない。
 選挙管理委員会時代、選挙人名簿は手書きカード方式で、それを綴ったフォルダーがキャビネットに保管してあった。
 そして、そのキャビネットはおびただしい数があって、当然それには施錠するようになっていた。
 新人(正確には一番の下っ端)は、この施錠を毎朝開け、帰りには閉めて帰るというルールがあった。

 なによりも、これが苦痛だった。
 「なんでこんな作業をしなきゃいけないのか...」
 来る日も、来る日も、そう考えながら作業をしていた。
 結局、5年という歳月が流れる...

 でも、天は見放さなかった。

 選挙人名簿の電算化である。
 幸運(?)にも担当として電算化を任される(先輩たちが嫌がっただけであり、事実は押し付けられたような感じ)。

 この仕事をしてよかったのは、それまでの業務を科学的に分析し、システム設計に近い仕事ができたことだろう。
 その過程の中で穴のようなものを見つけたこともある。
 そのことで改善点が見えてきた。

 また、電算化するということは現実の仕事と全く同じにはできないということがわかってくる。
 コンピューターというやつは、融通がきかない...

 そう思うと人間様の方がエライということもわかった。
 この経験が、コンピュータ崇拝主義から、ツール主義へと転換した。

 ただ、現実の仕事をコンピュータの仕事にどう近づけるか妥協案を見つけ出すことだった。
 先輩に相談すると、「なんとか、せえ!」の一点張り。
 泣きそうなときもあった。

 その時に出てきた答えのほとんどが、手作業で仕事をしていたときに「ここはこうした方がエエのに...」という思いだった。
 そして、「コンピュータはこうしかできませんが、私たちの作業を少しだけこう変えれば上手くいくと思います」という進言をすると、かなりの確立で受け入れられるようになり、それが重なると「お前の好きなようにせえ」となった。

 つまり、どのような単調な仕事でも、完成度の高い仕事でも、改善の余地は必ずある。
 それを探していきながら、発見すると楽しくなる。

 そして、その時に、心の中でこう呪文を唱えるのである。

 「いつか、自分が変えてやる!」 
 
 

夢をなくしてしまった君へ/下町ロケット Ⅱ

2011年08月13日 21時42分44秒 | 悩める君へシリーズ
 悔しいけれど「下町ロケット」を昨日、帰宅途中買ってかえって、読み始めると面白く一気に読んでしまった。

 Kさんの言うとおりである。

 読み進めるうちに、この主人公ほど私は素敵ではないぞと思いながら、Kさんがこんな風に私を見ていてくれているのかと思うとくすぐったくなった。

 中小企業の親父が必死でもがきながら、次から次へとやってくる試練に対して、夢を決して諦めない姿がいじましい。

 部下と立ち位置の違う社長の思いは、孤独感そのものであろうか。
しかし、そこから逃げることはできない。

 そして、この主人公が素敵なのは、自身が苦しい中、若い部下たちに「お前ら、夢あるか」と訊く。
状況は違うが、人事ヒアリングのときに部下たちに「君の夢は何か」と訊いたことがある。

 就職をすると、まして安定した職に就くと、「夢」なんてものは誰しも忘れてしまうものである。
 でも、「夢」をなくした人生なんてつまらないと思いませんか。

 子どもの頃の「夢」は、漠然としてて何の根拠もない。
だから、「夢」がころころと変わってしまう。

 そして、大人になって「夢」を見ようとしたら、今おかれている現状を無視はできない。
また、「夢」といってもかけ離れたものではいけないのかもしれない。
現実的な「夢」...
でも、それもつまらないような気がする。

 「夢」を実現可能なものに設定するか、実現できる可能性はあるがどこまでいっても奇跡が起こらないと無理なものに設定するかは個人の問題である。

 私は、いつも「夢」を見ている。
 私は、今でも「夢」を見ている。

 でも、その夢は絶対に私ひとりでは叶えられない。

 歳を重ねてきて思うようになったのは、自分の夢であっても一人では叶えられないということがわかってきたことだ。

 そして、夢を語り始めていると、理解者だけでなく協力者が現れるようになった。
そして「奇跡」を起こすには、協力者をどれだけ多く集められるかだと思う。
また、その協力者を集めるには、何よりも少年のような情熱も必要だということである。







思いを形にできない君へ

2011年08月09日 18時16分26秒 | 悩める君へシリーズ
 世間には、「口ばかりの人」というのが多いものである。
 それは、今に始まったことではない。

 コロンブスが大航海を終え、帰国したときに祝賀会が開かれた。
 その席で誰かが、「こんなことくらい私にだってできる」と豪語した人がいたという。
 コロンブスはそのことに触れず「この中で、このゆで卵を立てれる人がいますか?」と質問した。
 参加者の多くがチャレンジしたが、卵はコロコロ転げるばかりで誰も立てれなかった。

 それを見かねるように、コロンブスは「こうやるんですよ」と種明かしをする。
 そのゆで卵の底の部分をテーブルに叩き、そして立てたのである。
 彼は参加者に対して、
 「種を明かしたらなんでもないことです。誰にでもできることです。ただ、これを最初にやることに意義があるのです」と言い放った。
 これが世に云う「コロンブスの卵」である。

 元に戻すと、口ばかりの人は、必ずといっていいほど行動を起こしていない。
 だからこそ簡単に人のことをとやかく言えるのかもしれない。
 
 では、行動しないとはどういうことか...

 多分、失敗を恐れているのだろう。
 誰に対して恐れているのか。
 
 ホンダを「世界のホンダ」にした本田宗一郎さんは、「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」と云っていた。
 彼は、失敗を恐れなかった。
 失敗は尊い経験となり、成功の糧になるからだ。
 「人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことだ」、「失敗する勇気をもて」等とも云っておられる。

 また、頭でひらめいたことは、形にしてみる。
 ああしてだめなら、こうしてみようとあらゆる手段を尽くす。
 そのうち、予期せぬ結果が出ることがある。
 彼は理論を尊重しながらも、実証をそれ以上に高く評価していたというのである。 

 ここまで書くとだんだん見えてきたと思うが、思いを形にしようとするならば、まず行動力が必要ということである。
 「ヘタな考え休みにたえず」である。
 まず、行動をしてみる。
 ただし、事前に成功モデルを想像しておくことがポイントである。
 そして、それに対するリスクと対処方法も。
 それが2~3割レベルでもいい。
 それができたら、行動に移す。
 そして、残りは行動しながら考える。

 なぜなら、環境は常に変化する。
 その環境に逆らえば失敗する。
 「しなやかさ」と「したたかさ」をもって臨めば大抵は乗り越えられる。

 そして、次に大切なのは絶対に一人ではできないということ。
 成功までにどんな人的資源が必要かくらいは予測しておく必要がある。
 そして、ポイント、ポイントでその人的資源が機能しているかどうかチェックする必要がある。

 ただし、厄介なのがこの人的資源を自分のネットワークの中で平素から意識してキープできているかどうかだ。
 よく人の人的ネットワークをあてにする人がいるが、借り物は所詮借り物である。
 人と人の絆は付き合って始めてわかるもの。
 メッキはすぐはがれると同様に、人付き合いもその人がどんな人かはすぐにわかる。
 人的資源は他の資源とちがって、その絆の強さは比べようもない。

 つまり、平素から人を大切にしていないと、自分の思いは形にならないということである。

自分を変えたいと思っている君へ

2011年08月03日 00時05分04秒 | 悩める君へシリーズ
 人は行き詰まったり、思っていた結果が出ないとき、なんとか現状を変えようと努力します。
 しかし、行動を変えるだけでは、いい結果に向かい始めても、すぐまた、もとの木阿弥に戻ってしまうことがほとんどです。
それは、行動を変える前に、まず考え方自体を変えなければもとの行動に戻ってしまうからです。

 また、ベストセラー「7つの習慣」を著したスティーブン・R・コヴィー博士は、パラダイム(ある時代に支配的な物の考え方・認識の枠組み。規範。)の転換の例として、次のようなエピソードを交えて解説しておられます。

 日曜日の朝、静かな地下鉄の車内に一人の男性と子どもたちが乗り込んできたときのこと。
 子どもたちがひどく騒ぎ始めたのに、男性は目を閉じたままその状況にまったく気づかない様子だった。
 しびれを切らしたコヴィー博士が男性に子どもたちを大人しくさせるように控えめに促すと、彼はこう返事をした。
 「たった今、病院から出てきたところなんです。
  一時間ほど前に妻が・・・
  あの子どもたちの母親が亡くなったものですから、いったいどうすればいいのか・・・」
 その瞬間、イライラした気持ちは一瞬で消え去り、同情や哀れみの感情が自然にあふれ出て、コヴィー博士はこう申し出た。
 「それは本当にお気の毒に。
  何か私にできることはないでしょうか」

 このようにパラダイムが変わることで、男性に対する考え方や行動が一瞬で全て変わったというのであります。
私たちは、これまでに獲得した情報や考え方、立場などの枠組みでモノゴトを見ます。
そのため、同じものを見ても個々人で見え方はさまざまです。

 しかし、パラダイム次第でモノの見方は変わり、考え方が変わるのです。
そして、考え方が変われば行動が変わり、最終的な結果が変わります。(これを「変化のサイクル」といい、野志松山市長もこのフレーズを引用しておられます)

 また、小さな変化を望むのであれば、私たちの行動や考え方を変えればいいとも。
しかし、劇的な変化を望むのなら、私たちの持つパラダイムそのものを置き換えなければならないと言われています。

 特に現在のように先行き不透明な環境の中では、従来とは異なった行動や考え方が求められます。
パラダイムを置き換え、まったく違った視点からモノゴトを変えていかないと、望む結果にはつながらないというのです。

 つまり、今の自分を大きく変えたいなら、自分の持つパラダイムそのものを置き換える思考と、しなやかな視点からモノゴトを多面的に見る目を育てながら、迅速に行動に移すということでしょうか...

 (参考)「PRESIDENT 2011.08.15 号」より