権力集中の行方は多様
安倍政権は権力の集中に熱心でしたが、その咎めが出たようです。一方、中国では今回の全人代で、中国は習近平国家主席の任期を撤廃する憲法改正を圧倒的多数で可決しました。
報道によれば、建国の父である毛沢東主席が晩年「文化大革命」で、中国の発展を大幅に遅れされるといった誤りを犯したことへの反省から任期5年、2期まで(最長10年)という制限を設けていたとのことです。
勿論この憲法改正は習主席の意向であり、それを是とする(あるいは忖度する)人民代表が多かったということでしょう(反対2、棄権3)。
習主席は、かつては中国で一般的と言われた汚職の摘発を徹底しているようです。13億の人口を有する巨大な国を徹底してクリーンな国にしようというのでしょう。容易なことではありませんが、これは国づくりの基礎でもあります。
こうした新しい中国を作るという意思は、かつて中国経済の「 新常体(ニュー・ノーマル)」という概念を打ちだした時から、何となく感じられたように思います。
おそらく、これを徹底するには、「愚公山を移す」ではありませんが、気の遠くなるような長い時間がかかるでしょう。習主席は、それを含め、中国を本当の意味で一流国にしたいと考えて、そのための時間を計算したのでしょうか(そう思いたいですね)。
世界は広いですが、同じ漢族のリーダーを戴くシンガポールは、人口560万ほどの小さな国ですが、リクァンユー首相の長期政権のもとで、マレーシアに見限られた状態から、今は、1人当たりGDPで日本を大きく超える先進国です。
かつて清朝末期に、中国では「開明専制(君主)論」が論じられたことがあるようですが、シンガポールのリクァンユー首相については、まさにこれが当嵌まる稀有の人物という見方もあるようで、出来得ればこれが最も先進国への近道という意見もあります。
習主席が、その心の中で何を考えているのか知る由もありませんが、もしそうした考えを持っていれば、いつかは結果が出ると期待したいと思います。
昨年の文化の日、 「争いの文化」と「競いの文化」 を書きました。「争いの文化」は相手を滅ぼして自らが天下を握り、「競いの文化」は相手と共存しつつ切磋琢磨する文化です。
戦争は「争いの文化」で、 オリンピックは「競いの文化」 でしょう、競う相手がいなくなった時、人間の成長は止まり、腐敗や堕落が始まるのはよくあることです。
今回の中国の憲法改正をどう受け取るかについては、それは習主席の「心」次第という事になるのでしょう。習主席の心中は、本人にしかわかりませんが、毛沢東の例にも見られますように、将来の習主席の「心の中」は、若しかしたら、今の習主席にも解らないのかもしれません。
絶対権力の行方は、権力者本人次第であり、本人の心自体が「うつろう」ものであるとすれば、行方は誰にもわからないものという事なのかもしれません。
安倍政権は権力の集中に熱心でしたが、その咎めが出たようです。一方、中国では今回の全人代で、中国は習近平国家主席の任期を撤廃する憲法改正を圧倒的多数で可決しました。
報道によれば、建国の父である毛沢東主席が晩年「文化大革命」で、中国の発展を大幅に遅れされるといった誤りを犯したことへの反省から任期5年、2期まで(最長10年)という制限を設けていたとのことです。
勿論この憲法改正は習主席の意向であり、それを是とする(あるいは忖度する)人民代表が多かったということでしょう(反対2、棄権3)。
習主席は、かつては中国で一般的と言われた汚職の摘発を徹底しているようです。13億の人口を有する巨大な国を徹底してクリーンな国にしようというのでしょう。容易なことではありませんが、これは国づくりの基礎でもあります。
こうした新しい中国を作るという意思は、かつて中国経済の「 新常体(ニュー・ノーマル)」という概念を打ちだした時から、何となく感じられたように思います。
おそらく、これを徹底するには、「愚公山を移す」ではありませんが、気の遠くなるような長い時間がかかるでしょう。習主席は、それを含め、中国を本当の意味で一流国にしたいと考えて、そのための時間を計算したのでしょうか(そう思いたいですね)。
世界は広いですが、同じ漢族のリーダーを戴くシンガポールは、人口560万ほどの小さな国ですが、リクァンユー首相の長期政権のもとで、マレーシアに見限られた状態から、今は、1人当たりGDPで日本を大きく超える先進国です。
かつて清朝末期に、中国では「開明専制(君主)論」が論じられたことがあるようですが、シンガポールのリクァンユー首相については、まさにこれが当嵌まる稀有の人物という見方もあるようで、出来得ればこれが最も先進国への近道という意見もあります。
習主席が、その心の中で何を考えているのか知る由もありませんが、もしそうした考えを持っていれば、いつかは結果が出ると期待したいと思います。
昨年の文化の日、 「争いの文化」と「競いの文化」 を書きました。「争いの文化」は相手を滅ぼして自らが天下を握り、「競いの文化」は相手と共存しつつ切磋琢磨する文化です。
戦争は「争いの文化」で、 オリンピックは「競いの文化」 でしょう、競う相手がいなくなった時、人間の成長は止まり、腐敗や堕落が始まるのはよくあることです。
今回の中国の憲法改正をどう受け取るかについては、それは習主席の「心」次第という事になるのでしょう。習主席の心中は、本人にしかわかりませんが、毛沢東の例にも見られますように、将来の習主席の「心の中」は、若しかしたら、今の習主席にも解らないのかもしれません。
絶対権力の行方は、権力者本人次第であり、本人の心自体が「うつろう」ものであるとすれば、行方は誰にもわからないものという事なのかもしれません。