今日は12月8日ですね」と言っても、「え、何かの記念日ですか?」という答えしか返ってこない事が多くなりましたが、今日は太平洋戦争の開戦、1941年、日本がハワイの真珠湾にアメリカの太平洋艦隊の撃滅を目指して奇襲作戦を敢行した日です。
明治で大政奉還が成って以来、日本は「富国強兵」を合言葉に列強に追いつくことが悲願だったのでしょう。戦争を繰り返す中で、日本は軍の独裁の国になって来ていました。
「殖産興業」という言葉もあって、これは民間産業界のスローガンでしたが、軍の独裁は、産業も軍事力増強のためという独裁国に猛進したようです。
その最終結果が太平洋戦争突入という暴挙となり、82年前の今日が、軍国主義の軍独裁国家日本の「終わりの始まり」の日となったのです。
1945年の8月15日、日本の国土は廃墟となり、列強の連合軍に降伏、北海道、本州、四国、九州の4島中心の小さな島国の平和国家として生き残ることになりました。
近代国家への道を軍国主義から平和国家に切り替え、それから「本来の」日本としての発展が始まったとこのブログは考えています。
「本来の」というのは、日本文化の起源である1万余年の縄文時代、日本には戦争も奴隷制度もなかったという実証研究をベースにしたものです。
そして、平和、自由、民主主義を是とした日本は、経済・社会の順調な成長発展を記録、世界第2位の経済大国にまでになったのです。
もともと日本人はその環境条件のせいか勤勉でエネルギー・レベルが高いと思われます。因みに、H.G.Wellsも、かつて「世界文化史概観」の中で明治維新以来の日本の発展の速さを記しています。
太平洋戦争開戦の日、当時国民学校の2年生だった子供は、今、卒寿を迎えてブログを書いています。
戦争は勝つと教え込まれ、現実は焼夷弾の下を逃げまどい。食糧難の中で畑を耕し、貧しい暮らしから高度成長期をサラリーマンとして満員電車で通勤し、1人当たりGDP世界ランキング4位に達成感を感じ、そして今、年金生活の老人として、その後の30年の日本経済の沈滞の中で人生の終局に居るのです。
この有為転変は何だったのか、日本という国の失敗と成功が織りなす環境変化の中で、矢張り、何が問題なのか考えてみなければならないのでしょう。
最も深い感慨は、国民の生活は、大きくリーダー次第という事ではないでしょうか。
「富国強兵」を信奉するリーダーたちの長期的存在が国を廃墟に導きました。大正・昭和時代にも石橋湛山のような人はいました。しかしその声は抑圧されるだけでした。
高度成長期のリーダーたちは、平和維持と経済発展に強い意欲を持っていたように思います。戦争の破壊、そして廃墟の実体験から建設と発展への意識の強さを感じるところです。
2度の石油危機を乗り切って「ジャパンアズナンバーワン」と書かれた日本の針路を狂わせることになったのは中曽根政権の時です。1985年の「プラザ合意」と言われる日本の円高容認要請でした。出席者は竹下蔵相と澄田日銀総裁です。総理と財政、金融の日本のリーダーが認めたのです。もし安易に受け入れていなければ、日本経済は、全く違ったものになっていたでしょう。
しかし、現実は円高容認という経済外交の大失敗で、日本は国際競争力を完全に失いました。その対応策としての麻薬の役割を果たした中曽根政権下の金融緩和→バブル経済、そしてその崩壊によるダブルデフレ。(澄田氏前任の前川日銀総裁のリポートの影響が大きい)
更には、その克服に努力の途上で起きたリ-マンショックへの対応の遅れ(いち早く金融の徹底緩和策のFRB(バーナンキ議長)に対し7年遅れた日銀(白川総裁まで)です。
黒田総裁の異次元金融緩和で日本経済回復かという期待を裏切った安倍政権後の日本のリーダーたちでしょう。
安倍長期政権以来、日本のリーダーたちは、日本経済社会のためより、自己の政権の長期化を優先するようになり、この自己中心主義は急速に政界に拡大したようです。
最後に、こうして到達した現状を見れば、年ごとに零落する日本の国力の現状になすすべもなく、空洞化した政策の看板だけを掲げ、中身の活動は自己の地位と権益の維持に最大の関心という様子が丸見えです。
振り返って、つくづく感じるのは、一国のリーダーの立場というものは、その国の命運を左右する力が「現実にある」という事だったような気がします。
明治で大政奉還が成って以来、日本は「富国強兵」を合言葉に列強に追いつくことが悲願だったのでしょう。戦争を繰り返す中で、日本は軍の独裁の国になって来ていました。
「殖産興業」という言葉もあって、これは民間産業界のスローガンでしたが、軍の独裁は、産業も軍事力増強のためという独裁国に猛進したようです。
その最終結果が太平洋戦争突入という暴挙となり、82年前の今日が、軍国主義の軍独裁国家日本の「終わりの始まり」の日となったのです。
1945年の8月15日、日本の国土は廃墟となり、列強の連合軍に降伏、北海道、本州、四国、九州の4島中心の小さな島国の平和国家として生き残ることになりました。
近代国家への道を軍国主義から平和国家に切り替え、それから「本来の」日本としての発展が始まったとこのブログは考えています。
「本来の」というのは、日本文化の起源である1万余年の縄文時代、日本には戦争も奴隷制度もなかったという実証研究をベースにしたものです。
そして、平和、自由、民主主義を是とした日本は、経済・社会の順調な成長発展を記録、世界第2位の経済大国にまでになったのです。
もともと日本人はその環境条件のせいか勤勉でエネルギー・レベルが高いと思われます。因みに、H.G.Wellsも、かつて「世界文化史概観」の中で明治維新以来の日本の発展の速さを記しています。
太平洋戦争開戦の日、当時国民学校の2年生だった子供は、今、卒寿を迎えてブログを書いています。
戦争は勝つと教え込まれ、現実は焼夷弾の下を逃げまどい。食糧難の中で畑を耕し、貧しい暮らしから高度成長期をサラリーマンとして満員電車で通勤し、1人当たりGDP世界ランキング4位に達成感を感じ、そして今、年金生活の老人として、その後の30年の日本経済の沈滞の中で人生の終局に居るのです。
この有為転変は何だったのか、日本という国の失敗と成功が織りなす環境変化の中で、矢張り、何が問題なのか考えてみなければならないのでしょう。
最も深い感慨は、国民の生活は、大きくリーダー次第という事ではないでしょうか。
「富国強兵」を信奉するリーダーたちの長期的存在が国を廃墟に導きました。大正・昭和時代にも石橋湛山のような人はいました。しかしその声は抑圧されるだけでした。
高度成長期のリーダーたちは、平和維持と経済発展に強い意欲を持っていたように思います。戦争の破壊、そして廃墟の実体験から建設と発展への意識の強さを感じるところです。
2度の石油危機を乗り切って「ジャパンアズナンバーワン」と書かれた日本の針路を狂わせることになったのは中曽根政権の時です。1985年の「プラザ合意」と言われる日本の円高容認要請でした。出席者は竹下蔵相と澄田日銀総裁です。総理と財政、金融の日本のリーダーが認めたのです。もし安易に受け入れていなければ、日本経済は、全く違ったものになっていたでしょう。
しかし、現実は円高容認という経済外交の大失敗で、日本は国際競争力を完全に失いました。その対応策としての麻薬の役割を果たした中曽根政権下の金融緩和→バブル経済、そしてその崩壊によるダブルデフレ。(澄田氏前任の前川日銀総裁のリポートの影響が大きい)
更には、その克服に努力の途上で起きたリ-マンショックへの対応の遅れ(いち早く金融の徹底緩和策のFRB(バーナンキ議長)に対し7年遅れた日銀(白川総裁まで)です。
黒田総裁の異次元金融緩和で日本経済回復かという期待を裏切った安倍政権後の日本のリーダーたちでしょう。
安倍長期政権以来、日本のリーダーたちは、日本経済社会のためより、自己の政権の長期化を優先するようになり、この自己中心主義は急速に政界に拡大したようです。
最後に、こうして到達した現状を見れば、年ごとに零落する日本の国力の現状になすすべもなく、空洞化した政策の看板だけを掲げ、中身の活動は自己の地位と権益の維持に最大の関心という様子が丸見えです。
振り返って、つくづく感じるのは、一国のリーダーの立場というものは、その国の命運を左右する力が「現実にある」という事だったような気がします。