「潔さ」は日本の伝統文化では?
日本人はよく「潔い(いさぎよい)」というコトバを使いました。具体的に説明しろと言われても、難しかったりするのですが、明らかにこれは誉め言葉です。もしかしたら、最高の誉め言葉かもしれません。
学生の頃「英語には「潔い」というコトバはないみたいだよ」といわれて辞書を引いて、確かにそうかななどと思ったことがありました。
サラリーマンになって、偶々飲み会で、そんな話をしましたら、職場の友人(因みに東京大学法学部卒)が「俺はこう教わったぞ、to be a good loser でいいんじゃないか」と答えてくれました。
これは名詞で、潔いは形容詞ですが、確かに近いかなと思ったことを覚えています。
今、「潔い」の適訳をネットで探しても、やっぱりありませんから、日本独特の感覚(だった)のでしょうか。
ところでこれからが本題ですが、日本人でも潔くない人が増えているような気がしてなりません。
ニュースで何か事件が起きるたびに、気を付けて見ていますと、捕まった人が犯人だと明らかのような場合でも、私はやって居ませんとか、知らないとか、黙秘とかいうケースが多くなったように感じます。
0.1%でも逃げおおせる可能性があれば、粘りに粘るというのは全く潔くないのですが、そういう日本人が増えてきているのでしょうか。
そういえば、総理大臣でさえ、国会で厳しい追及を受け、答弁の中で「法に違反するようなことはやっておりません」などというのを聞いていますと、やっぱりかなり危ないこともやっているのかななどと勘繰ってしまいます。
昨今、ここまで潔くないのかと感じてしまうのはニュースで見る元法務大臣夫妻の公職選挙法違反に問われている件です。
取り調べ進行中ですから、発言すべきではないというべきなのかもしれませんが、結果はどうなるかは別としても、夫妻の言動から「潔さ」のかけらも見られないのは、日本人も変わったなと感ぜざるを得ない所です。
当事者が元法務大臣というのも、出来すぎたシチュエーションですが、一般市民の私共としては、西洋にもノブレス、・オブリージュというコトバがあるではないですか(これも古語になりつつあるようですが)、広辞苑で「潔い」というコトバを引いたら、かっこつきで(古語)などと書いてあるような日本にならないことを願う所です。
日本人はよく「潔い(いさぎよい)」というコトバを使いました。具体的に説明しろと言われても、難しかったりするのですが、明らかにこれは誉め言葉です。もしかしたら、最高の誉め言葉かもしれません。
学生の頃「英語には「潔い」というコトバはないみたいだよ」といわれて辞書を引いて、確かにそうかななどと思ったことがありました。
サラリーマンになって、偶々飲み会で、そんな話をしましたら、職場の友人(因みに東京大学法学部卒)が「俺はこう教わったぞ、to be a good loser でいいんじゃないか」と答えてくれました。
これは名詞で、潔いは形容詞ですが、確かに近いかなと思ったことを覚えています。
今、「潔い」の適訳をネットで探しても、やっぱりありませんから、日本独特の感覚(だった)のでしょうか。
ところでこれからが本題ですが、日本人でも潔くない人が増えているような気がしてなりません。
ニュースで何か事件が起きるたびに、気を付けて見ていますと、捕まった人が犯人だと明らかのような場合でも、私はやって居ませんとか、知らないとか、黙秘とかいうケースが多くなったように感じます。
0.1%でも逃げおおせる可能性があれば、粘りに粘るというのは全く潔くないのですが、そういう日本人が増えてきているのでしょうか。
そういえば、総理大臣でさえ、国会で厳しい追及を受け、答弁の中で「法に違反するようなことはやっておりません」などというのを聞いていますと、やっぱりかなり危ないこともやっているのかななどと勘繰ってしまいます。
昨今、ここまで潔くないのかと感じてしまうのはニュースで見る元法務大臣夫妻の公職選挙法違反に問われている件です。
取り調べ進行中ですから、発言すべきではないというべきなのかもしれませんが、結果はどうなるかは別としても、夫妻の言動から「潔さ」のかけらも見られないのは、日本人も変わったなと感ぜざるを得ない所です。
当事者が元法務大臣というのも、出来すぎたシチュエーションですが、一般市民の私共としては、西洋にもノブレス、・オブリージュというコトバがあるではないですか(これも古語になりつつあるようですが)、広辞苑で「潔い」というコトバを引いたら、かっこつきで(古語)などと書いてあるような日本にならないことを願う所です。