多様な社会の共存を考えよう
前回は鳥の巣箱についてか書かせていただきました。その中で、鳥の巣箱の専門家の方が、人間は巣箱の方が絶対環境がいいと思って作っても、鳥には鳥の事情があって、すぐに入るとは限らない」言われたとご紹介しましたが、写真の通り、我が家でも巣箱は空き家で、「こんな所に」と思うようなところに、現実に小鳥は巣作りをしていました。
小鳥と人間では、考え方が違うのは当然ですが、人間の間でも、考え方は違います。ブータンの国王ご夫妻が来られて「国民の最大幸福」について語られました。多くの日本人が強い共感を感じました。やはり人間の本質に触れたものだからでしょう。
共感しつつも、我々の多くは、ブータンの人々のような生活をしようとは思わないでしょう。そして、それはそれでいいのではないでしょうか。我々はブータンの人にない生活を持っています。しかしブータンの人は我々にない生活を持っています。
お互いにそれを尊重し合い、尊敬しあい、理解しあって共存することこそが、本当に意味のある、最も大事なことでしょう。
生物多様性については、近年、人間は理解を深めてきたようです。人間社会の多様性については、もともとアジア人はそれなりの理解を持っているように思います。
ところが残念なことに、世界のリーダーであるアメリカの最近の様子を見ると、どうも世界を皆アメリカのような社会にしないと気が済まないような、異常な執念を持っているように思えてなりません。
日本は戦後、アメリカに多くを学んで来た国です。そのアメリカが戦後から随分変質しながら、その変化に世界中を従わせることに余りにもこだわっているように見えてなりません。
日本は小泉政権以来の規制緩和で、社会の質がかなり変わり、一部には強い反省の機運があります。しかし今回のTPP問題に見るように、アメリカは日本にさらなる規制改革の徹底を迫りたいようです。
しかし社会が違えば、人間の意識も違い、生活様式も違う中で、すべてアメリカ流がいいと言い、それを強いるのは、些か異常でしょう。
アメリカをそうさせるものが、アメリカの行き過ぎた親切心なのか、それとも切羽詰ったアメリカの焦りなのか、十分に読み取る必要はありましょう。
その上で、これは日本の判断として、我々の学んできた本来のアメリカは、も少し違った国ではなかったかと、忠告するぐらいの意識を持ちたいものです。
前回は鳥の巣箱についてか書かせていただきました。その中で、鳥の巣箱の専門家の方が、人間は巣箱の方が絶対環境がいいと思って作っても、鳥には鳥の事情があって、すぐに入るとは限らない」言われたとご紹介しましたが、写真の通り、我が家でも巣箱は空き家で、「こんな所に」と思うようなところに、現実に小鳥は巣作りをしていました。
小鳥と人間では、考え方が違うのは当然ですが、人間の間でも、考え方は違います。ブータンの国王ご夫妻が来られて「国民の最大幸福」について語られました。多くの日本人が強い共感を感じました。やはり人間の本質に触れたものだからでしょう。
共感しつつも、我々の多くは、ブータンの人々のような生活をしようとは思わないでしょう。そして、それはそれでいいのではないでしょうか。我々はブータンの人にない生活を持っています。しかしブータンの人は我々にない生活を持っています。
お互いにそれを尊重し合い、尊敬しあい、理解しあって共存することこそが、本当に意味のある、最も大事なことでしょう。
生物多様性については、近年、人間は理解を深めてきたようです。人間社会の多様性については、もともとアジア人はそれなりの理解を持っているように思います。
ところが残念なことに、世界のリーダーであるアメリカの最近の様子を見ると、どうも世界を皆アメリカのような社会にしないと気が済まないような、異常な執念を持っているように思えてなりません。
日本は戦後、アメリカに多くを学んで来た国です。そのアメリカが戦後から随分変質しながら、その変化に世界中を従わせることに余りにもこだわっているように見えてなりません。
日本は小泉政権以来の規制緩和で、社会の質がかなり変わり、一部には強い反省の機運があります。しかし今回のTPP問題に見るように、アメリカは日本にさらなる規制改革の徹底を迫りたいようです。
しかし社会が違えば、人間の意識も違い、生活様式も違う中で、すべてアメリカ流がいいと言い、それを強いるのは、些か異常でしょう。
アメリカをそうさせるものが、アメリカの行き過ぎた親切心なのか、それとも切羽詰ったアメリカの焦りなのか、十分に読み取る必要はありましょう。
その上で、これは日本の判断として、我々の学んできた本来のアメリカは、も少し違った国ではなかったかと、忠告するぐらいの意識を持ちたいものです。