Altered Notes

Something New.

大都会の無神経な騒音

2018-02-10 04:02:25 | 社会・政治
都会の大きなターミナル駅近辺などではビルの壁面に巨大なディスプレイが設置されてビデオ型の広告(デジタルサイネージの一種)が流れている事が多い。以前ならサウンドは無しで映像だけを流す形式だったが、最近はサウンドも付加されて普通に映像+音声型の広告になっている場合がほとんどである。

しかしこれは随分と無神経な広告であると言える。なぜなら映像だけの形式ならば、見たくなければ顔を背けてその映像を見なければそれで済んでいたのだが、音声付き映像広告の場合はそうはいかない。映像は逃れられるが音声からは逃れられないからである。たとえそのサウンドを聴きたくなくてもそこで鳴らされている以上は無理やり聴かせられてしまう。大都会の壁面大型ディスプレイの場合、その巨大な映像に合わせて音声も大音量で流されるので、歩行者は嫌でも聴かなければならない立場に仕立てられてしまうのだ。

これは立派な「音の暴力」である。年月を追うごとに社会が無神経化し暴力的になっていくのに呼応するかのように巨大デジタルサイネージも凶暴化していたのだ。

さらに大都会の繁華街の場合はこうした巨大なデジタルサイネージは1つではない。1つの場所に複数の画面が設置されていて音声もその画面の数だけ同時に流れてくる事も普通にある。周辺を歩いている人々にはそれら複数のサウンドが渾然一体化した大騒音となって襲ってくることになる。音に鈍感な人ならいざしらず、音に対して普通か普通以上の感性を持っている人にはこれは苦痛でしかない。頭痛を抱えているひとならさらにきつい地獄の試練となるだろう。

デジタルサイネージを実施設計・デザインする人もまた無神経である。そうでなければ一つの場所で複数の音声を同時に大音量で流すことは考えられない筈だ。複数の音声が同時に流れるということは、それらが互いに打ち消しあって騒音と化してしまうので、そもそもの設計通りの音声として受け取ってはもらえないのだ。

このように社会の迷惑にしかならない「巨大壁面広告の愚」は社会の無神経化が進行する限り、今後ますます拡大化し加速化してゆくことだろう。