現代は誰かが何かを発言・発信すると、必ず何処かから批判・反対の動きが生じる。それが大きなトラブルに発展する場合もある。特に有名人にはその傾向があり、迂闊な意見表明は極めてリスキーな行為として認識されつつある。
若年層の人々は喫驚するかもしれないが、昔(1990年代中頃以前)はSNSどころかそもそもインターネットというものが無かった。著名な人が意見や情報を発信する場合はマスメディア(電波・出版物、等々)に取り上げてもらうしか世の中に伝えることは出来なかったのだ。そして、この時代には著名人の意見を批判したくても一般人がその意思・意見を表明するメディアは無かったのである。
だが、やがてインターネットの普及に依り誰もが世の中に対して情報発信や意見の表明ができるようになった。個人の意見を発信する術を得たのであり、公に物申すハードルが下がったとも言えよう。そうした一方の胎動と同時並行して人間が「より自由であること」を欲する種々のムーブメントが盛んになっていったのもこの時代である。いや、そうしたムーブメント自体は1960年代後半から出始めていたのだが、1990年代後半からのインターネット黎明期~普及期になってより勢いが付き広範に見られるようになっていったのだった。
「自由を求める」「自由を得る為の闘争」と言えば聞こえは良いが、時として伝統の中で培われた価値観、慣習、或いは一般常識や礼儀といった互いに異なる考え方を持つ人々が同じ社会で暮らしてゆくための最低限のルールすら破壊する方向に向かうようなムーブメントも遺憾ながらあった。
そもそも人は皆同じ、ではない。みんな各々異なるのだ。異なるから喧嘩もするのであり、それのスケールが大きなものが戦争である。それぞれが違う価値観を持っている以上は必ず摩擦が生じてトラブルになるのは必定なのである。それでも人々は一緒に社会を構成してやっていかなければならない。そこで最低限必要になる概念が「常識」というものだ。「常識を持つ」ということは「同じ価値観を共有する」ことである。これが一つの社会をまとまりのあるものにする為のベースになるものだ。
実は現代社会で最も欠けているのは、この「価値観の共有」ではないだろうか。人が皆それぞれ異なる価値観を持ち互いに否定し合うような関係になっていたとしたら、それはまとまらないだろうし、基本的に受け入れられないケースが増えるであろうことは想像に難くない。ある人が全く悪意無く話をしても、別の人が聞けば悪意に満ちた話に聞こえる、という事例もあり得る。一人一人の価値観が看過できないほどかけ離れてしまっているケースが出てきたのだ。日本社会のまとまりが緩くなってきている、ということであり、やや恐怖を感じる社会の変化である。
こうした価値観の共有が崩れてきている事に依る変化といえば、例えば「お笑い」の世界にもそれが見られる。芸人が「これが面白い」と思ってパフォーマンスしても、受け取る視聴者は面白くないどころか「不愉快」だったり「激怒する」場合も少なくない。芸人達はこうした変化について、(特に昔との比較の上で)「やりにくい時代だ」としてため息をつく。しかし上述の社会の変化と価値観の変容の流れを考えるならば、やりにくく感じるのは当然のことだ。
本来、「笑い」が成立するためには「同じ価値観」または「極めて近い価値観」を皆が共有している事が前提になる。しかし、現代社会は上述の「自由に、もっと自由に」を推し進めた結果として、人々が持つ価値観は千差万別になってしまった。従って「面白さ」の着地点は共有されず笑いは成立しない。笑いどころか、時には憤りさえ呼び覚ましてしまう始末である。私も貴方も皆さんも同じ価値観を持っていたからこそ成立していたものは今では失われたのである。それは「笑い」に対する感覚だけではなく「常識」と呼ばれる領域にまで達しているのだ。
「常識」は多くの人々が互いになんとか上手くやっていけるように社会の中で培われた共有される「共通の価値観」である。「常識」は英語で「コモンセンス」と言う。「コモン」は「共通の」であり「センス」はこの場合は「知識」といった意味なので「共通の知識」である。こうした多くの人に共有されるべきベースになるものが失われているのが現代社会であり、従って社会の各層で混乱やトラブルが頻発するのも必然と言えよう。意見の表明がしにくい時代になっている、ということだ。
気になるのは、「自由に」の御旗のもとに「常識」を崩壊させ、価値観を破壊するムーブメント(運動)を仕掛ける人々、いわばフィクサーのような立場にいる人たちがどことなく左翼系の匂いが強いような気がすることだ。価値観の多様化と無分別な自由の追求は結果として日本社会を分断する方向に導いているようにもみえる訳で、推測だが、彼らの目的である日本という国家の崩壊を進める為の一つの手段(戦略)として「常識の崩壊」「価値観の破壊」が静かに進められているとしたら・・・最近は「サイレント・インベージョン」(静かなる侵略/Silent Invasion)が話の俎上に上がることも少なくない時代であり状況である。こうしたムーブメントに意識的でなければならない必要を感じている。
若年層の人々は喫驚するかもしれないが、昔(1990年代中頃以前)はSNSどころかそもそもインターネットというものが無かった。著名な人が意見や情報を発信する場合はマスメディア(電波・出版物、等々)に取り上げてもらうしか世の中に伝えることは出来なかったのだ。そして、この時代には著名人の意見を批判したくても一般人がその意思・意見を表明するメディアは無かったのである。
だが、やがてインターネットの普及に依り誰もが世の中に対して情報発信や意見の表明ができるようになった。個人の意見を発信する術を得たのであり、公に物申すハードルが下がったとも言えよう。そうした一方の胎動と同時並行して人間が「より自由であること」を欲する種々のムーブメントが盛んになっていったのもこの時代である。いや、そうしたムーブメント自体は1960年代後半から出始めていたのだが、1990年代後半からのインターネット黎明期~普及期になってより勢いが付き広範に見られるようになっていったのだった。
「自由を求める」「自由を得る為の闘争」と言えば聞こえは良いが、時として伝統の中で培われた価値観、慣習、或いは一般常識や礼儀といった互いに異なる考え方を持つ人々が同じ社会で暮らしてゆくための最低限のルールすら破壊する方向に向かうようなムーブメントも遺憾ながらあった。
そもそも人は皆同じ、ではない。みんな各々異なるのだ。異なるから喧嘩もするのであり、それのスケールが大きなものが戦争である。それぞれが違う価値観を持っている以上は必ず摩擦が生じてトラブルになるのは必定なのである。それでも人々は一緒に社会を構成してやっていかなければならない。そこで最低限必要になる概念が「常識」というものだ。「常識を持つ」ということは「同じ価値観を共有する」ことである。これが一つの社会をまとまりのあるものにする為のベースになるものだ。
実は現代社会で最も欠けているのは、この「価値観の共有」ではないだろうか。人が皆それぞれ異なる価値観を持ち互いに否定し合うような関係になっていたとしたら、それはまとまらないだろうし、基本的に受け入れられないケースが増えるであろうことは想像に難くない。ある人が全く悪意無く話をしても、別の人が聞けば悪意に満ちた話に聞こえる、という事例もあり得る。一人一人の価値観が看過できないほどかけ離れてしまっているケースが出てきたのだ。日本社会のまとまりが緩くなってきている、ということであり、やや恐怖を感じる社会の変化である。
こうした価値観の共有が崩れてきている事に依る変化といえば、例えば「お笑い」の世界にもそれが見られる。芸人が「これが面白い」と思ってパフォーマンスしても、受け取る視聴者は面白くないどころか「不愉快」だったり「激怒する」場合も少なくない。芸人達はこうした変化について、(特に昔との比較の上で)「やりにくい時代だ」としてため息をつく。しかし上述の社会の変化と価値観の変容の流れを考えるならば、やりにくく感じるのは当然のことだ。
本来、「笑い」が成立するためには「同じ価値観」または「極めて近い価値観」を皆が共有している事が前提になる。しかし、現代社会は上述の「自由に、もっと自由に」を推し進めた結果として、人々が持つ価値観は千差万別になってしまった。従って「面白さ」の着地点は共有されず笑いは成立しない。笑いどころか、時には憤りさえ呼び覚ましてしまう始末である。私も貴方も皆さんも同じ価値観を持っていたからこそ成立していたものは今では失われたのである。それは「笑い」に対する感覚だけではなく「常識」と呼ばれる領域にまで達しているのだ。
「常識」は多くの人々が互いになんとか上手くやっていけるように社会の中で培われた共有される「共通の価値観」である。「常識」は英語で「コモンセンス」と言う。「コモン」は「共通の」であり「センス」はこの場合は「知識」といった意味なので「共通の知識」である。こうした多くの人に共有されるべきベースになるものが失われているのが現代社会であり、従って社会の各層で混乱やトラブルが頻発するのも必然と言えよう。意見の表明がしにくい時代になっている、ということだ。
気になるのは、「自由に」の御旗のもとに「常識」を崩壊させ、価値観を破壊するムーブメント(運動)を仕掛ける人々、いわばフィクサーのような立場にいる人たちがどことなく左翼系の匂いが強いような気がすることだ。価値観の多様化と無分別な自由の追求は結果として日本社会を分断する方向に導いているようにもみえる訳で、推測だが、彼らの目的である日本という国家の崩壊を進める為の一つの手段(戦略)として「常識の崩壊」「価値観の破壊」が静かに進められているとしたら・・・最近は「サイレント・インベージョン」(静かなる侵略/Silent Invasion)が話の俎上に上がることも少なくない時代であり状況である。こうしたムーブメントに意識的でなければならない必要を感じている。