テレビ番組でよく聞く言葉の一つに「素人」がある。主に芸人が一般人を指して言うのだが、芸人によっては「素人さん」などとわざわざ「さん」付けで呼ぶこともある。たしかに「素人」はその道の「玄人」ではないので、位置づけとしての「素人」は間違ってはいない。
だがしかし・・・
「素人」には蔑視的なニュアンスも含まれる。芸人たちが一般人を「素人」と呼ぶ場合は多分に上から目線の感情がそこに含まれているように感じられる。”さん”付けで「素人さん」などと呼ぶ場合はなおさら見下しているニュアンスを強く感じる。
一般人は芸人から見下される筋合いは一切無いし、上から目線で見られる理由も根拠もない。なぜ芸人たちは一般人を「素人」と呼ぶのか。
芸人たちには自分たちが一般人とは違う上のステージに存在していると思い込んでいる節がある。一種の選民意識である。「芸人」であり「テレビに出ているんだぞ」というつまらない優越感が彼にちっぽけな選民意識を与えたのかもしれないが、そうだとすればこれこそお笑いである。それは裏を返せば芸人一般が抱いている劣等感の現れかもしれない。常に誰か(一般人)を見下してちっぽけな優越感に浸っていたいのだろう。実に低次元な連中であるが、どんな理由にせよ、人をむやみに「素人」呼ばわりするのはあまりに無神経かつ失礼であり間違っている。
例えば、「お笑いを目指す一般人」を「素人」と呼ぶのはまだ理にかなっているように思うが、そうではない人を「素人」呼ばわりするのは完全に失礼なことである。それがまかり通るなら、芸人連中もお笑い以外の全ての分野の「素人」にほかならないのだが、彼らにはそれを認める謙虚さが欠落している上にそもそもそのことに気づきもしないのである。(蔑笑)(*1)
芸人たちのこうした鼻持ちならない嫌らしい特性は何に依ってもたらされたのだろうか。それはテレビの世界と無縁ではないように思う。テレビ番組は一般視聴者を「馬鹿」と想定して完全に見下したところから発想され作られる。そうした思想が底辺に存在する世界で四六時中生きていれば、自然とその色に染まるのは理の当然であろう。
また、一般人を素人と呼ぶのは芸人だけではなく、タレント全般に認められる特徴とも言える。テレビ局自体がそうした体質を持っいるので必然的にテレビ番組に関わる人々に共通した現象となっている。その体質は既に身体に深く染み付いており無意識的な領域に根付いている。
例えば同じ芸人でも比較的良識のある人物と目される人でも一般人を「素人」と呼称する傾向があるし、中年に差し掛かったベテランアイドルグループの坊やなども一般人を「素人さん」と呼称している。一般人は無知無学無教養のアイドル坊やに素人呼ばわりされる筋合はないのだが。(苦笑)
テレビ界・芸能界だけで生きていると自分がどれだけ失礼な言葉を発しているのか全然自覚できなくなる典型例である。ここにも言葉に無自覚・無神経なテレビ局の体質が色濃く現れているのを見て取ることができる。こうした連中が日々テレビ番組で偉そうに振舞っているのだ。自身の醜悪な実像に気が付かず一般人を見下すことでしか自分の自尊心を満たすことができない哀れな連中である。
正に厚顔無恥を地で行く連中であり、「人間、こうなってはいけない」という見本である。(蔑笑)
テレビというのは制作者も出演者も劣化した人間の巣窟のような世界なのである。
<2017年5月25日追記>
一般人を見下した芸人たちの思い上がりと勘違いを岡田斗司夫氏がニコ生で語っているので参照されたい。
お笑い芸人の差別意識は【異常!】岡田斗司夫が今のテレビ芸人に物申す!
例えば土田晃之氏などはいかにも理に合った話を偉そうに宣うのだが、しかし自身の論理的な矛盾には気が付かないところは、偉そうに振る舞う分だけむしろ哀れでもある。そんな土田氏もまた一般人を見下しており、普通に「素人さん」と呼ぶような人物である。
<2020年2月29日追記>
最近、俳優でTVタレントの大泉洋氏が鼻持ちならない発言をしていた。インタビューで、過去に苦労した仕事はあるか?という質問だったのだが、それに対する彼の回答は「水曜どうでしょう」の過去のロケで出会った一般人の中高年男性に対して「ある場所で出会った"素人"のおっさんの扱いに苦労した」というものだった。上記本編記事で書いたように「素人」は蔑称である。大泉氏は無意識に言ったのだろうが、そこにはもはや芸能界の大スターとなった大泉洋自身の大きく肥大した自意識故に一般人を見下す姿勢が当然のように染み付いてしまったのだろう。それが彼に「素人」という言葉を言わせているのだ。とんでもないことであり、非常識で無礼な発言である。
<2020年8月1日追記>
参考資料
明石家さんまがYouTuberを「素人さん」と呼ぶことの違和感
<2021年12月30日:追記>
2021年12月24日放送のNHK「あさイチ」に大泉洋氏がゲストで出演した。紅白司会直前のタイミングということでの出演だが、ここでも大泉洋氏の一般人蔑視感情が顕になっていた。前回の紅白歌合戦の開始直前の模様を彼が司会する番組「SONGS」の密着取材ということで楽屋周辺の廊下で大泉洋氏が出演歌手たちに話しかけるというシーンがあった。この時の「話しかけても大丈夫そうな歌手を探す様子」を「あさイチ」出演の大泉洋氏はキョロキョロする動作をしながら「芸能人を探している素人のように」と発言。こうした発言が普通に無意識で出てしまうところに彼の一般人に対する差別意識が現れているのであり、強い選民思想の持ち主であることがわかるのである。実に嫌味な感じである。
<2024年6月16日:追記>
先日、偶然TV番組で街ロケに出ていた芸人のダイアン・津田が一般市民のことを「一般素人」と蔑んだ言い方で見下していた。芸人は相変わらず傲慢で身の程知らず、しかも厚顔無恥である。津田自身はプロ芸人のつもりなのかもしれないが、彼のパフォーマンスで一度も笑った事はない。全く面白いとも思えなかった。むしろ退屈で見ているだけで嫌悪感を持つタイプだ。それでいて一般人を上から目線で貶める・・・自分が全く見えていないのだろう。芸人というのは所詮この程度のクズなのである。
-----------------------------
(*1)
明石家さんまもまたその意味で鼻持ちならない人物である。彼はサッカーが好きなようだが、偉そうにサッカーを語る姿はまるである種のサッカーのプロであるが如くのようだ。その一方で、さんまはお笑いの世界以外の人間がお笑いを演じたり語ったりする事が嫌いである。その理由はお笑いのプロたる自分の前で「素人がお笑いを一人前に語る事が嫌い」だからであり、それは一般人を「素人」と見下しているからである。「素人が偉そうにお笑いを語るな」と言う姿勢である。しかしこれは自語相違というものだろう。さんまはサッカーのプロではない。明らかに素人であるにも関わらずサッカーのプロであるかのような尊大な態度で語る。しかも彼が”にわか”と決めつける人たちにマウンティングしながら語るのだ。一般人がお笑いを語るのは許さないが自分(さんま)がサッカーを語る事は良しとするのである。実に一方的で身勝手な態度だ。このような自己矛盾を露呈した語りを芸人たちはしばしばやらかす。自分がブーメランを投げている事に気づきもしないのだ。何をか言わんや、である。(蔑笑)
だがしかし・・・
「素人」には蔑視的なニュアンスも含まれる。芸人たちが一般人を「素人」と呼ぶ場合は多分に上から目線の感情がそこに含まれているように感じられる。”さん”付けで「素人さん」などと呼ぶ場合はなおさら見下しているニュアンスを強く感じる。
一般人は芸人から見下される筋合いは一切無いし、上から目線で見られる理由も根拠もない。なぜ芸人たちは一般人を「素人」と呼ぶのか。
芸人たちには自分たちが一般人とは違う上のステージに存在していると思い込んでいる節がある。一種の選民意識である。「芸人」であり「テレビに出ているんだぞ」というつまらない優越感が彼にちっぽけな選民意識を与えたのかもしれないが、そうだとすればこれこそお笑いである。それは裏を返せば芸人一般が抱いている劣等感の現れかもしれない。常に誰か(一般人)を見下してちっぽけな優越感に浸っていたいのだろう。実に低次元な連中であるが、どんな理由にせよ、人をむやみに「素人」呼ばわりするのはあまりに無神経かつ失礼であり間違っている。
例えば、「お笑いを目指す一般人」を「素人」と呼ぶのはまだ理にかなっているように思うが、そうではない人を「素人」呼ばわりするのは完全に失礼なことである。それがまかり通るなら、芸人連中もお笑い以外の全ての分野の「素人」にほかならないのだが、彼らにはそれを認める謙虚さが欠落している上にそもそもそのことに気づきもしないのである。(蔑笑)(*1)
芸人たちのこうした鼻持ちならない嫌らしい特性は何に依ってもたらされたのだろうか。それはテレビの世界と無縁ではないように思う。テレビ番組は一般視聴者を「馬鹿」と想定して完全に見下したところから発想され作られる。そうした思想が底辺に存在する世界で四六時中生きていれば、自然とその色に染まるのは理の当然であろう。
また、一般人を素人と呼ぶのは芸人だけではなく、タレント全般に認められる特徴とも言える。テレビ局自体がそうした体質を持っいるので必然的にテレビ番組に関わる人々に共通した現象となっている。その体質は既に身体に深く染み付いており無意識的な領域に根付いている。
例えば同じ芸人でも比較的良識のある人物と目される人でも一般人を「素人」と呼称する傾向があるし、中年に差し掛かったベテランアイドルグループの坊やなども一般人を「素人さん」と呼称している。一般人は無知無学無教養のアイドル坊やに素人呼ばわりされる筋合はないのだが。(苦笑)
テレビ界・芸能界だけで生きていると自分がどれだけ失礼な言葉を発しているのか全然自覚できなくなる典型例である。ここにも言葉に無自覚・無神経なテレビ局の体質が色濃く現れているのを見て取ることができる。こうした連中が日々テレビ番組で偉そうに振舞っているのだ。自身の醜悪な実像に気が付かず一般人を見下すことでしか自分の自尊心を満たすことができない哀れな連中である。
正に厚顔無恥を地で行く連中であり、「人間、こうなってはいけない」という見本である。(蔑笑)
テレビというのは制作者も出演者も劣化した人間の巣窟のような世界なのである。
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<2017年5月25日追記>
一般人を見下した芸人たちの思い上がりと勘違いを岡田斗司夫氏がニコ生で語っているので参照されたい。
お笑い芸人の差別意識は【異常!】岡田斗司夫が今のテレビ芸人に物申す!
例えば土田晃之氏などはいかにも理に合った話を偉そうに宣うのだが、しかし自身の論理的な矛盾には気が付かないところは、偉そうに振る舞う分だけむしろ哀れでもある。そんな土田氏もまた一般人を見下しており、普通に「素人さん」と呼ぶような人物である。
<2020年2月29日追記>
最近、俳優でTVタレントの大泉洋氏が鼻持ちならない発言をしていた。インタビューで、過去に苦労した仕事はあるか?という質問だったのだが、それに対する彼の回答は「水曜どうでしょう」の過去のロケで出会った一般人の中高年男性に対して「ある場所で出会った"素人"のおっさんの扱いに苦労した」というものだった。上記本編記事で書いたように「素人」は蔑称である。大泉氏は無意識に言ったのだろうが、そこにはもはや芸能界の大スターとなった大泉洋自身の大きく肥大した自意識故に一般人を見下す姿勢が当然のように染み付いてしまったのだろう。それが彼に「素人」という言葉を言わせているのだ。とんでもないことであり、非常識で無礼な発言である。
<2020年8月1日追記>
参考資料
明石家さんまがYouTuberを「素人さん」と呼ぶことの違和感
<2021年12月30日:追記>
2021年12月24日放送のNHK「あさイチ」に大泉洋氏がゲストで出演した。紅白司会直前のタイミングということでの出演だが、ここでも大泉洋氏の一般人蔑視感情が顕になっていた。前回の紅白歌合戦の開始直前の模様を彼が司会する番組「SONGS」の密着取材ということで楽屋周辺の廊下で大泉洋氏が出演歌手たちに話しかけるというシーンがあった。この時の「話しかけても大丈夫そうな歌手を探す様子」を「あさイチ」出演の大泉洋氏はキョロキョロする動作をしながら「芸能人を探している素人のように」と発言。こうした発言が普通に無意識で出てしまうところに彼の一般人に対する差別意識が現れているのであり、強い選民思想の持ち主であることがわかるのである。実に嫌味な感じである。
<2024年6月16日:追記>
先日、偶然TV番組で街ロケに出ていた芸人のダイアン・津田が一般市民のことを「一般素人」と蔑んだ言い方で見下していた。芸人は相変わらず傲慢で身の程知らず、しかも厚顔無恥である。津田自身はプロ芸人のつもりなのかもしれないが、彼のパフォーマンスで一度も笑った事はない。全く面白いとも思えなかった。むしろ退屈で見ているだけで嫌悪感を持つタイプだ。それでいて一般人を上から目線で貶める・・・自分が全く見えていないのだろう。芸人というのは所詮この程度のクズなのである。
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(*1)
明石家さんまもまたその意味で鼻持ちならない人物である。彼はサッカーが好きなようだが、偉そうにサッカーを語る姿はまるである種のサッカーのプロであるが如くのようだ。その一方で、さんまはお笑いの世界以外の人間がお笑いを演じたり語ったりする事が嫌いである。その理由はお笑いのプロたる自分の前で「素人がお笑いを一人前に語る事が嫌い」だからであり、それは一般人を「素人」と見下しているからである。「素人が偉そうにお笑いを語るな」と言う姿勢である。しかしこれは自語相違というものだろう。さんまはサッカーのプロではない。明らかに素人であるにも関わらずサッカーのプロであるかのような尊大な態度で語る。しかも彼が”にわか”と決めつける人たちにマウンティングしながら語るのだ。一般人がお笑いを語るのは許さないが自分(さんま)がサッカーを語る事は良しとするのである。実に一方的で身勝手な態度だ。このような自己矛盾を露呈した語りを芸人たちはしばしばやらかす。自分がブーメランを投げている事に気づきもしないのだ。何をか言わんや、である。(蔑笑)