長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

書をしよう会

2010-07-20 07:15:05 | Weblog
今日は「書をしよう会」だ。
文人墨客というが、そんな匂いがする人たちが
集う日。今日からまた大型新人が登場する。
自分もちゃんと筆をもっていて、この会に参加
したいと思っているのだが、人気が衰えなくて
遠慮している。
玄関の「天真庵」の看板を貞本先生がつくっているところ。
雨戸を額縁にして、みかんくんが手伝っている。ぜいたくなコラボ。

お店や会社や習い事は「続けていくこと」が、一番大事だと思う。
ただきっかけは必要なので、「まずやってみる」というのも大事だ。
ネットのおかげで、情報はほぼただで、いろいろはいってくるけど、
「つもり」になってしまう傾向が、ままある。
「つもり」と「実際」は、雲泥の差がある。

明日は、クラシックコンサートのため、3時に閉店。
N響の2人衆と大宅裕さんのピアノで、真夏に「ベートーヴェンの夕べ」
。2ヶ月前にきまってすぐに満席。
9月には、山根さんがまたやってくれる予定。

金曜日は「ねんど」。
先生のまいかさんは、コネルの女将でもある。
今週末から、9月のはじめまで、サマージャンボならビッグな
催しを計画しているらしい。楽しみだ。

24日(土)は、「お花の会」
ここも大型新人が入会。おもしろくなってきた。
この会は、いい、とか、すばらしい、とかいった
言葉では、つくせない。本気の人、いつでも熱烈歓迎。

暑い夏

2010-07-19 07:52:36 | Weblog
梅雨があけ、本格的な夏がやってきた。
そして今日は海の日。
九州に住んでいたころは、海っが近かったので、
6月あたりでも、よく泳ぎにいっていた。
小倉と博多の真ん中あたりに、東郷という駅がある。
そこから、宗像大社という、歴史上大切な神社と、
空海が高野山をひらく前に建立した「鎮国寺」という
寺がある。その近くに「神の湊」(こうのみなと)
という漁港がある。小さなころから、ここの海が
好きで、よく泳いだり、釣りをしたりした。
この季節は、投げ釣りで、よくキスを釣った。
真っ黒になるけど、太陽の光に照らされながら、ピチピチ
と砂浜できらめくキスの姿は、まぶしかった。しかも
食べると、うまい。

近くの海に、津屋崎という人気のスポットがある。
その真ん中に「白石浜」という、小さな海水浴場があった。
ここを最初に訪れた時、あまりの海の美しさに、しばらく
立ちすくんだ、そんな記憶がある。
朝まずめに30分くらい釣り糸をたらし、
その後20人分の蕎麦を打ち、売り切れたら
晴耕雨読し、夕方になると、若い料理人がきて、
朝釣った魚をさばいてくれる。それを酒肴に
ジャズでも聞きながら、沈む夕日をみながら
酒を飲む。こんな生活をしたい、と、つくづく思う。

明日は「書の会」


出会い

2010-07-18 07:22:47 | Weblog
界隈には、時代に取り残されたような建物や
お店がまだまだいっぱいある。町内会にある
「経師屋」(きょうじや)というのもそのひとつ。
昔から日本人は日本間、とくに床の間を大事にしたきた。
季節の花を花器に投げ入れ、それにあわせた掛軸をかけ、
仏壇に眠る先祖にも、毎朝花やごはんを手向けた。
その空間にある、襖や障子、掛軸などをつくってきたのが
経師屋さん。腕のいい人になると、一生のうちに3件くらい
家をたてる、と言われていた時代がある。

お店の前の十間橋通りを、まっつぐ歩き、きらきら商店街に
いく道の右手に、「張福」という洗張りのお店がある。
洗張り、というお店もこの界隈には、まだ残っている。
このお店の店主は、ぼくの作務衣をつくってくれたり、
選んでくれたりする。時々お茶会がある時に、袴を着る
時なども、ぼくの駆け込み寺だ。素敵な女将は、煎茶も
嗜み、ぼくと同じく、表参道の「織田流煎茶道」の門を
くくった仲だ。ここの「張福」という暖簾の書体は、
天真庵と同じく貞本さんが揮毫し、お店の椅子は、般若くん
がつくった。そんな意味からいうと、親戚みたいなお店である。

その張福さんが、今回素敵な手ぬぐいをつくった。
デザインをしたのは、長繩さんといって、鳩の町商店街で
「鳩のめ」というお店をやっているデザイナー。うちの
「ねんど教室」にも通う素敵で実力をもったデザイナー。
彼女が書く界隈の地図は、見ているだけで、その町のにおいや
音などが聞こえてきそうなくらい楽しい。
「出会い」というタワーができてくる工程のロマンティックな
出会い、を表現したものだ。長繩さんらしいデザインとネーミング。

張福さん、天真庵、spice cafe、で購入できる。

今日は「もなか屋」と「エリカ庵」が営業日。
三役そろい踏み、みたいに豪華な1日。
暑い1日だけど、いろいろ動かないと、「出会い」
はない。動くひと、人の役にたとうとする人、元気なやさしさ
を広げる人が活躍する時代。

連弾コンサート

2010-07-17 07:11:21 | Weblog
昨日はお茶会でった。
メインイベントは、大宅さおり&大宅裕さん兄弟の
連弾コンサート。生まれて初めて、一台のピアノ
を、ふたりで競演(連弾)するコンサートを生で見た。
ベルギーの音楽祭のために、半年以上もかけてアレンジした
プログラム(ベートーヴェンの歌曲「君を思う」、シューベルトの
妄想曲、ストラヴィンスキーの「春の祭典」)は、どれも、
こころに染みた。最後の「春の祭典」は、夏祭りをライブで見て
いるように、不整脈になりそうなくらい、すごかった。
ふたりのご両親もピアニストという稀有な音楽家族の真骨頂みたいな
音楽祭だった。

ふたりとも別々に、天真庵でピアノのコンサートを
やってくれたことがある。さおりさんがやってくれた時は、
おなかが大きく、「胎教にいいの」と演奏したときにおなか
の中にいた子も、今回は元気な男子として、乳母車で
演奏を聴いていた。そして来週の水曜日は、大宅裕さんが、
N響の山根さん宮坂さんとコンサートをやってくれる。

帰ってきて、夜のスケッチの会の準備をしていたら、
戦車くん(もちろん本名ではない)が、ニコニコして
やってきた。7月31日の「花火大会ライブ」のときに着る
浴衣ができあがったらしい。煎茶仲間の「張福」さんに
ドレスコードである浴衣をオーダーしたのだ。
浴衣も帯も、「よー、江戸っ子」というようや粋なものだ。
さっそく、帯の締め方も、習ったらしい。
その後、「煎茶を飲みたい」というので、久保さんの宝瓶(ほうひん)に
宇治の上等な煎茶を入れ、斑唐津の煎茶椀に入れてだした。
戦車くんは、書、竹、ねんどなんかに参加しているが、そろそろ
伝授の会で、煎茶を習いにくる、といいだしそうだ。
秋から「かっぽれ」をやりたいという若者が向島にいる。ので、
相方になってくれないだろうか?とも思う。
いろいろ「奇人」みたいな文人が集まってきた。
煎茶も蕎麦も珈琲も、ハウツー式学ぼうと思う思うと、すぐに
学んだつもりになるようなものだ。でも、その奥義を極めよう
と思うと、どの道も、最低5年くらいはかかるし、それからまた
違った奥の道が見えたりして、「おわり」がないものだ。
旅の途中で、野垂れ死、するような道だけど、同じ道を歩む
同志がでてくるのは、たいへんうれしいことだ。

スケッチの会では、毎週のように「蕎麦打ち」にくる、風貌が
ぼくの師匠みたいな「だるまさん」がきて、遅くまで、亀泉を
飲みながら談論風発。おもしろい奇人たちが、毎日やってくる。

今日は「もなか屋」が営業日。
明日は「えりか庵」
月曜日も祝日なので、「もなか屋」は三連荘。

茶会のため、本日は臨時休業。スケッチはやります!

2010-07-16 07:33:54 | Weblog
毎週木曜日は、表参道にある、織田流の煎茶の
お稽古にいっている。昨日は、「すすり茶」をやった。
中国茶などでは、よくあるように、ふたつきの磁器の茶碗を
つかってやる手前だ。ひとりひとりの茶碗が、急須兼ちゃわんに
なる。なんとも贅沢なお手前。
この手前をするには、熟練の陶芸家と友だちになっていないと
できない。つまり、茶碗と蓋を、多数ひいて、それがみんな
同じ寸法にならないと、具合が悪い。
最近はフォルムとか、「かわいい~」とかいうことにこだわる
陶芸家が多いが、神の手みたいな匠の技をもつ陶芸家が少ない。
この夏は、無理を頼んで、久保さんに志野の「すすり茶碗」
をお願いした。先週それができあがってきた。
この茶碗にきれいなニュウー(貫入・・・小さなひびみたいなものが
でき、それがひとつの景色になる。美人に育つ、とかいう。ほんとうに
育つ。)が入るころには、界隈にも煎茶を楽しむ人の和ができて
いると思う。

今日の夜は「スケッチの会」
デジカメが全盛だけど、ねこも杓子も、同じように
カシャっと簡単に同じような風景をとってもおもしろくない。
「じぶん」が発信できるあなろぐな技を、何か身につけて
おきたいものだ。

本日は日野市にて「茶会」があるので、通常の営業は
臨時休業とさせていただきます。

蕎麦打ち・伝授の会

2010-07-15 08:43:56 | Weblog
昨日はももちゃん、こと、榎田百香さんの薩摩琵琶を
堪能した。
彼女が天真庵にきたのは3年ほど前で、まだ音大生だった。
煎茶の先生の娘さんのりんちゃんと、「煎茶会コンサート」
をやってくれたことがある。玉露席で、心を精妙にととのえ、
そのままの状態で、薩摩琵琶の演奏を聴いた。
玉露を飲むと、一瞬で体の中を玉露がまわるようなイメージがあるが、
そこで薩摩琵琶を聞き入ると、毛細血管まで、日本人になる、そんな
感じ。蕎麦打ちを習いにきている新人さんたちも、不思議な世界を
堪能したようだ。彼らも、そのうち自分で蕎麦が打て、もてなしが
できるようになってくれば、どこかで、同じような「音楽付の蕎麦会」
をやってほしいと思う。その人もその人のまわりにいる人たちも、その
町も元気になる。元気なやさしさを広げていける人が活躍する時代だ。

今朝は、ゆっくり起きて、京島界隈を散策してみた。ひさしぶりに
カメラをもって、犬のマーキインングのように、何枚かとってみた。
古色蒼然とした建物の向こうに、展望台を冠にしたタワーが写って
いる。この町も、確実に移り変わっていく。
いい意味でも悪い意味でも。

明日の夜は「スケッチの会」

明日は日野市で「お茶会」があるので、12時から19時の
営業はありません。あしからず。

薩摩琵琶

2010-07-14 08:10:30 | Weblog
今日は、お店の営業はおやすみ。

第二水曜日は、伝授の会といって、蕎麦打ち、煎茶、珈琲道の
伝授の会をやり、夕方は「薩摩琵琶ライブ」です。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり・・

ではありませんが、壇ノ浦で滅んだ平家の御霊を鎮魂する
時なんかに使った楽器、薩摩琵琶というのは、不思議な
世界を表現するものです。

おごる平家の栄枯盛衰と人生の無常なんかをうたったものですが、
今回の選挙で、民主党もそうだけど、自民党といわず、ちょっと
光があたったみんなの党といわず、「中央の政治」にかかわる人たちが
みんな、壇ノ浦に沈んだ、みたいな印象が強い。ひとつの時代の終焉みたいな
感じを、誰しもがばくぜんと感じているのではなかろうか。

政治とか今の枠組みの中で、ただお金をもらっている人たちは、そろそろ
「自分でかせげること」を考えていかないと、やばい時代がきそうだ。

いろいろな意味で、進退窮まって、追い詰められた人たちの、御霊を
鎮魂する意味でも、「薩摩琵琶の会」というのは、ピッタリな感じ
がする。

今日の演目は、

敦盛
春の宴より
那須与一

那須与一の辞世は

世の中に 惜しまるるとき 散りてこそ
花も花なれ 色もありけり

出処進退というのは、とくに今みたいな乱世には
大事なことだ。管さんはじめ、政治家にきかせたいライブ
でもある。






英語で蕎麦会

2010-07-13 07:32:17 | Weblog
昨日はタイムドメインだった。
「Yoshii9」という不思議なオーディオで
いろいろな音楽を楽しむ日。昨日は
明日ライブをやる榎田さんのCDを聴いた。
明日のライブは、おかげさまで満席。
明日は「伝授の会」なので、お店はおやすみ。
新人の「そばもん」もくる日。

今日は「英語で蕎麦会」
今朝、お店に準備にいこうとすると、ブンコくんが
散歩をしていた。よくおじいちゃん、おばあちゃんが
毎朝いっしょに散歩するみたいに、いっしょに界隈を
散策した。路地裏や裏道を歩いてみたら、けっこう
「方向性」がいい。先天的に方向音痴な小生とは、
対極にある。ピアニストが音痴だとしかたないけど・・・
はやくスタインウェイを聞きながら、日本酒が
飲みたいものだ。

今日は1日しめりがちが天気みたいだけど、はりきって
元気に珈琲を入れたいと思う。



気にいらぬ風もあろうに柳かな

2010-07-12 07:09:53 | Weblog
仙崖和尚の有名な言葉。
柳が風にゆれる墨絵に、この詩が書かれてあり、
最後に「堪忍」と揮毫している。
今朝の新聞を読んだあと、散歩していたら、風が強くて、
ふと選挙で勝った人、敗れた人たちが、この風をどのように
感じているかを、思った。昨日は「竹細工の会」だった。
初めてだったこともあり、天真庵デビューの人たちが、あまたきた。
みんな爽やかで、まさに「青竹を割った」ような人たちだ。
政治家も、政治家になれなかった人たちも、「竹」のように
生きていってほしいものだ。スパッと・・・

ぼくの小学校からの親友で、末松義規くんという民主党の衆議院議員が
いる。ときどき珈琲を飲みにやってくる。
今回の選挙で、全国を奔放していた。結果は残念だったけど、
「負ける」ことも大事なことなので、またでなおせばいいと思う。
彼は一ツ橋を卒業した後、外交官になり、それから政治家に転身した。
その転機の時に、赤坂の「有薫」で、酒を飲んだ。その時に、末松くん
からこの詩を紹介された。いろいろな節目の時に読むと、味わいがかわって
いいものだ。こんど天真庵にきたら、この詩を朗読してあげようか、と
思う。 いろいろな天恩に感謝

「ニューヨーク州立大学病院の壁に書き残された詩」

 大きな事を成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたのに
 謙虚を学ぶようにと弱さを授かった
 より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
 より良きことができるようにと病弱をあたえられた
 幸せになろうとして富を求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった
 世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
 得意にならないようにと失敗を授かった

 求めた物は一つとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた
 神の意に添わぬ物であるにかかわらず
 心の中で言い表せないものは全て叶えられた
 私はあらゆる人の中で
 最も豊かに祝福されていたのだ



竹細工

2010-07-11 07:39:45 | Weblog
今日から、竹細工の教室が始まる。
昨日は、準備のため、講師になる清水さんが
颯爽と大分の別府からやってきた。間髪をおかず、
竹なども宅急便でおくられてきた。
別府といえば、ぼくたち北九州人たちは、きまって
小学校の修学旅行は、別府が定番になっている。
小学生が温泉、というのは、ちょっと渋すぎな感じが
するけど、地獄めぐりや、猿の高崎山あたりを巡るのは、
幼い子らの感性を、磨かせるには充分な修学だったと思う。

代々のリーダーが交代する時には、子どもニュースや新聞
なども大きく報道してきた。
猿のボスになるには、力が強いだけでは、だめらしい。
雌猿に好かれないと、なれない、というのが、ならわしだった。
どうもこのあたりは人間にも通じるところがある。
最近は、ボスを頂点に、という組織をとらずに、少数団が
微妙に共生しながら、楽しく生き暮らしているらしい。
それに比べると、われわれ人間は、総理になったらいばって
増税を発表したり、過半数がとれたらどう、割ったらどう、
など、まだまだひとつ世代前のサル山で、生きているような
ものかも。

将来使うかもしれない、花器や笊蕎麦の笊や、鳥かごでも
編みながら、これからの生き方を模索する、なんてなかなか
風流なものだ。また新しい邂逅に乾杯したくなるような1日が
始まる。

昨日は、ぼくが最も尊敬するコーヒー屋「D某珈琲」のDさんが
珈琲を飲みにきてくれた。東京にきてから、もとい、京都に
いる時から、お店で飲む珈琲は、D以外はありえない。
「ひとつごと」をやりぬく人の所作やひとことは、学ぶこと多し。