長屋茶房・天真庵

「押上」にある築60年の長屋を改装して
「長屋茶房・天真庵」を建築。
一階がカフェ、2階がギャラリー。

亀田が勝った

2009-11-30 06:12:07 | Weblog
今日は朝から雨だ。
ぼくは昔から雨の日が大好きだ。かさをさすのは
下手でズブぶれになるのだけど、なんだか知らないが雨の日はいい。
とくに、今の天真庵は、雨の日がいい。最初は雨漏りがした。
それで、屋根の上にもうひとつ屋根をつけた。そこに新しい塗料を
塗って断熱効率をあげた。地味だけど、古い建物をリノベーション
するときには、そんな地味なところ、耐震とか、雨漏り、シロアリ対策・・
などに神経とお金を使う。でも、新しいものにはかなわない美や
風合い、お金では絶対に買えない「価値」がそこにある。

昨日は亀田が内藤を破って新しいチャンピオンになった。
今、長谷川を筆頭に、5人の世界チャンピオンがいる。
めったにない「黄金時代」だけど、ボクシングは衰退しているようだ。
昨日のテレビを見ていても、エンターテイメント性が強すぎて、
ボクシング本来のストイックな戦い、という一番素晴らしいところ、
がどこかにいっていまった感がいなめない。あの程度の試合なら、
後楽園ホールで見るほうが、よっぽどおもしろいと思う。
長谷川や西岡は、ほんとうの意味で、世界で通用するレベルに
あると思うが、亀田君は,「これから」に期待したいと思う。

昔から不況になると、ボクシングがはやったり、世界チャンピオン
が誕生すると、ボクシングジムに入門する若者が殺到した時代があった。
今のように、大企業とか組織に、おんぶにだっこでは、飯が食えない
時代になってくるので、また「体ひとつで、勝負する時代」がくる
と思う。スポーツも芸術も最終的には「人間性」を問われるものでは
なかろうか。

今日は「順受の会」
ただ、読んだり聞いたりするだけでは、糞の役にも立たないが、
なんども咀嚼し、自分のものにすると、「人生のここ」という
ところで、役にたつものを、勉強する会。先生の松田さんは、
学生時代に日本拳法で、活躍した武道家でもある。彼の会社は
「人間力」という法人だ。

水仙をいけた

2009-11-29 06:54:45 | Weblog
昨日は水仙をいけた。
寸胴に水を入れる。
そして、青竹を削る。昔近くの鳥や(焼き鳥やではない)
が、鳥かごをつくっていたように、青い竹を幅5ミリ、厚さ3ミリ
くらいに削る。それを井形にして、くばりのように花をそこに
いけるのだ。この作業が、凛としていて、気持ちがいい。
ハサミの歯と、手の動きと、心を精妙にしないとなかなかうまくいかない。

次に水仙の中で、花ぶりのいい、葉にくせのないものを選ぶ。
そして、はかまを指で、もぐもぐともみほぐし、最初に花のさいてる茎、
次に左の葉2枚、次に右の葉二枚をとる。
そして、眞になる花を寸胴の1.3倍くらいの高さにし、
次に左の花を袴の前にあわせていれ(下のほうを斜めに切っていれやすくする)
、次に右も同じようにする。そこまでは、まあ簡単。最後に眞をいれるのであるが、これはすでに入っている4枚をつかんで、うまく、ずずっといれる。
童貞の人がはじめていたす、より、100倍以上難しい技である。
水仙をいけるときは、傍らにタオルをおく。手に水気があると、
水仙の白い粉がぬれて流れてしまい、「ねぎ」みたいになる。
でも、入れる部分は、人といたすと同様、ぬれていなくてはならない。

それから、準備しておいた、竹を井形にする。次に同じ要領で、
もうひとつ、水仙のつぼみをみつけ、同じ手順で、つくる。
ここは、葉の長さを互い違いにするのが、黄金律だ。
そして、後の部分を斜めにけずり、少し前に倒れるようにする。
仕上げに、葉の「くせ」を、いかしながら、整えると、
なんともいえない可憐で妖艶な水仙が、すーと、きまっている。

来年の「初煎会」の時は、この水仙をいけて、玉露を入れて
みたいと思う。
コーヒーと蕎麦も、それぞれ奥が深いけど、お茶とお花に
なると、一生では足りないくらい、奥が深い。



一滴の会

2009-11-28 06:15:45 | Weblog
今日は月に1度のお花のお稽古。
原田先生が山口から颯爽とやってくる日だ。
会の名前を「一滴(ひとしずく)の会」という。

禅の言葉に「粒々皆辛苦」という言葉がある。
米の一粒一粒、豆の一粒一粒が、お百姓さんや大地や自然が
つくってくれた大事な命なのだから、感謝しながらいただく、
みたいな意味だと思う。

天竜寺に昔、適水というお坊さんがいた。
雲水のころに、老師が顔を洗った水を「庭にまいておきなさい」
といわれ、庭にまいていたら、「ちゃんと水の一滴一滴を大事に
しなさい。どうぜまくなら木々のあるところにまきなさい」
といわれ、悟り、その名前をつけた、みたいなことを、本で
読んだことがある。山岡鉄舟の師にあたる人だ。

ちょっと古い料理屋なんかにいくと、男便所に、朝顔といって、
磁器でできた便器なんかがおいてあった。
浅草の骨董屋に、足利銀行の本店でつかわれていた朝顔が
ある。値段がおりあわなくて、なかなか「買った」といえない
のだが、いずれどうにかしたいと思っている。
そんな朝顔がおいてある便所には、よくこんな張り紙がしてあった。

急げども 心落ち着け 手を添えて 外に漏らすな 松茸の露.

日本人の「洒落」を感じさせるいい言葉だ。

一粒一粒にも「気」をいれる。歩く1歩1歩を大事にする。
松茸の最後の一滴にまで気をつける。
日常とはそんなことの繰り返し。

月曜日は「順受の会」。
来年の教科書が昨日届いた。
論語をただ勉強するだけだと、それだけなんだが、
「気」をこめて勉強すると、それぞれの人生のまさかの「ある時」
にきっと生きてくる。来年あたりは、お国も会社も個人も
、「まさかの坂」を迎えるのではなかろうか。
坂の上の雲を悠々と眺められるのは、日ごろから「肝」を鍛える
素養が必要ではなかろうか。
年末のテレビドラマは「坂の上の雲」らしい。

皇国の興廃この一戦にあり 閣員いっそう奮励努力せよ

という時代がまたやってきた。



銀ブラ2

2009-11-27 07:57:35 | Weblog
昨日も、こりずに銀ブラ。
午前中に、焙煎を5回やって、銀座へ。
昨日に引き続き、「田中絹江」の映画。
昨日のタイトルは「生きる」。

昭和32年に撮影されたもので、金沢が舞台になっている。
犀川や浅野川の風景は今とかわらないが、町並みが
今とはまったく違う。木造の日本家屋や、家の周りの土壁
なんかが、「今は昔」な感じ。

最初に京都に修学旅行にいった時に受けた衝撃みたいなものが
蘇ってきた。

昔の映画は、ストーリーが単調で、いいたいこと、訴えたい
ことが、簡素で見たあとの後味が、美味いコーヒーを飲んだ
後に、自分の体の中から湧き上がってくるそれと、共通したものが
ある。

小学校のころ授業が始まるチャイムがなって、間髪をいれずに
映画が始まり、終わりの画面で、なんと拍手がきこえて、映画館の
灯りがともり、おしまいになる。

ほんものというものは、いつも簡素

ということをつくづく思う。
帰りに銀座の小さな店で金沢の天狗舞を、ちょっと飲んだ。

明日は「お花のお稽古」。
お茶とかお花というものは、生きていくうえで、こんなに
「知的生産を施してくれるものは、ない」と、最近特に
そう思う。

銀ブラ

2009-11-26 08:22:44 | Weblog
最終の水曜日・木曜日は連休をとることにしている。
だいたい、その日は東京を抜け出して、どこか山の中の
野趣を残した温泉なんかにいくのがならわしだが、今月は前半を
「冬休み」にしたので、昨日は質素に銀座を歩いてみた。
銀座には、いきつけの骨董やが何件かある。先週もその
中の一軒にいって、軸を買ってしまった。ので、財布の
中は、月末の給料日を、1日千秋の思いでまっている状態。

財布の中が寂しいときは、銀ブラに限る。ほんとうの
銀ブラは、「銀座でブラジル」らしいが、そんな余裕はない。
というので、少し借金を残している別の骨董屋を覗いた。
12月はこれるかどうかわからないので、そこの骨董やの
女将に、虎の子数枚渡して、すっかり、札入れの中が、空
になった。まるで、永年の宿便がとれたみたいにすっきりした。
また、いつものように、無一文になって、駅の方に向かって
歩いていると、別の骨董やがある。外から覗いていると、
ひとつキラリと、いやパチリとこちらにウィンクをするような
ものがあった。そして、そのお店のいつも寡黙な主人が、こちらを
見て、ニコリとした。知らない間に、そのお店の暖簾をくぐって、
籐のイスに座って、初代「竹泉」の煎茶椀をいじっている自分がいた。
もう、「財布の中が空」であることもわすれている。もう病気も末期
に近い?このお店では、以前、太田垣蓮月の急須をいただいたことがある。
焼き締めの小ぶりな急須は、ときどき、同じ骨董病の友人がきた時なんかに、
玉露をいれたりすることがある。蓮月という人は、陶芸家として、また煎茶
の世界で名を残した人だが、あの富岡鉄斎を育てた人でもある。
このお店には、鉄斎の揮毫した宝瓶がある。この主人の文人趣味の形見分け、
みたいなものだ。いつみても凛としていて、いい。

銀ブラの締めは、いつもの「銀座の七不思議な骨董や」だ。看板はでているが、
ドアはだいたい鍵がかかっている。ブザーを押しても、うんともすんとも
反応がない。きっと、京都かどこかにでかけているのだろう。
あきらめて、その骨董やの先に、11月と12月は、毎日田中絹代の映画を上映している
映画館がある。ちょうどいいタイミングで入れた。
1本500円。しかも、ほかの映画の宣伝とか、CMがない。
ブー、とブザーが鳴ると、すぐに映画が始まり、「終わり」という
文字がでると、終わり。
将来毎日が日曜日になったら、ぼくは、たぶん毎日ここで映画が見たい、
と思うほど気にいってる場所だ。
骨董やに借金がなければ、この日に使ったお金は、この500円。
と、松坂屋の裏の古本屋で、富岡鉄斎の画集500円の合計1000円。
なお、先日の昼ごはんは、2件目の親切な骨董やの主人が、お茶とパンケーキ
を出してくれたので、それが昼ごはんになった。

今日も休みだ。また昨日と同じように銀ブラをしようかしらん。
でも、きのうごちそうになった主人は「時々、ブログを読んでいます」といって
いたので、今日またお昼にいくと、店を閉めているかもしれない。
今日の田中絹江は「楢山節考」。
世間には捨てられたような生活をしているが、もっともっと、やらねばならない
ことがいっぱいある。





新そば

2009-11-25 07:23:51 | Weblog
昨日から「新そば」になった。
蕎麦好きにとってはたまらない季節だ。
いっしょに、広島の達磨で修行した友だち
の蕎麦屋からも案内がきた。「為楽庵」といって
広島の駅の近くで、やっている。

先週はボージョレが解禁になった。東砂のすぎうらさん
に頼んで、おいしいのを持ってきてもらった。

まだあまりお祭り騒ぎにならないけど、この季節は
新豆の季節。ニュークロップと呼ばれ、今年摘まれた
コーヒーの豆が世界中からやってくる。
うちの「ほぼぶらじる」のベースになっているブラジルも
今月から、ニュークロップになった。新米と
同じように、水分が多いので、焙煎の加減が、ちょっと
微妙になる。

でもやはり秋は酒が美味い。
広島の「白鴻」(はくこう)や、鳥取の「強力」(ごうりき)
なんかが、とくに「そば酒」に合うと思う。

しらたまの 歯にしみとおる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり 感謝

シジュウカラ

2009-11-24 07:03:12 | Weblog
冬になると都心でも、シジュウカラの姿をよく見かける。
池袋にもよくいたし、墨田区にもよくいる鳥だ。
こないだ、おばあちゃんがお店の前の木を眺めながら、
「こんなにきれいな鳥なので、どこからか逃げてきたのかね?」
と、ひとりごとを言っているので、「これは野鳥で、シジュウカラと
いうのですよ」と教えてあげた。

先日も、お客さんに「雀に姿が似ているけど、雀でなく、うごきが
セキレイに似ているけど、セキレイほど尻尾が長くなく、チチチッと
鳴くかわいらしい鳥を見た」と言われたので、「それは、シジュウカラ
ですよ」と教えてあげた。

ヤマガラというのも、よくシジュウカラといっしょの群れにいることが
多い。ぼくの一番大好きな野鳥。昔は縁日なんかでおみくじをひくパフォーマンス
をしていた頭のいい野鳥。やまがら籠という特殊な籠で飼われていた。

シジュウカラは「しじゅう空」、つまり年がら年中、お財布が空だったり、
家の中に空き巣が入って、空になるような響きなので、意味きらって
あまり家で飼う人がすくなかった。

でも、来年40を迎えるその女性の帰り際に、「女は四十から、だよ」
といった。
「男は、五十から」

そして
70、80は、はなたれ小僧、90になって迎えにきても、
100までまてと、追い返す。

元気でいたいものだ。
今日は「英語で蕎麦会」
明日、明後日は連休。

ワサブロー

2009-11-23 07:03:03 | Weblog
和三盆ではないし、料理人でもない。
京都生まれでフランスで活躍している日本人のシャンソン歌手。
ワサブローが先月だしたCDを最近よくきいている。
シャンソンは、フランス語できくのがあたり前だと思っていたが、
中原中也とか、与謝野晶子なんかの詩に曲をつけ、日本人の魂を
こめて歌いあげる力が、心の中にしみてくる。
与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」なんて、これからの
世界平和に向けて、反戦歌としても最高かも知れない。

あまりに目立つ?曲が多いので、よくカウンターに座る
お客さんに、「これ誰の歌ですか?」と聞かれる。
冗談で「森田公一に似てるでしょう」といったら、
40歳くらいの女性に「その人誰ですか」といわれた。
「♪卒業までの半年で、こたえ~を・・・」と口ずさむと
「・・・・・?」という感じだった。
タワーもだいぶ伸びてきたけど、時代もどんどん過ぎ去っている。

♪君死にたもうことなかれ
と生きているときに思っても、思っている君も、思っている人も、
いずれはみんな死んでいく。
息をしている間はみな生きている。その生きているうちに
なにか美しいものを残していくような努力をしたいものだ。

明日は「英語で蕎麦会」
この会の最初の先生が年末にアメリカからやってくる。
ビル・スメール。彼が自分の名前ももじって、
「ビールとスルメで英会話」というのを始めたのが原点。
あれからはやいもので、10年になる。


一滴のお茶会

2009-11-22 07:48:26 | Weblog
無事にお茶会が終わった。

朝おきて、久保さんの黄瀬戸の花器に、わびすけを一輪投げ入れる。
木曜日に嫁いできた土岐二三の「君が代」の軸をかける。
「君が代」というのは、天皇を連想する人が多い。それは
洗脳されているようなものだ。「君」というのは、「あなた」であり、
愛する君、であり、愛しい君、である。千代に八千代に、未来永劫変らないでほしい「思い」がたくされた詩(うた)だ。

京都からきたカルロスと中村さんに、玉露を入れた。
「どこのお茶ですか?」と中村さんに聞かれたので、
「荒神口のお茶屋からとっています」というと、
「シャンクレールのところですね」とかえってきた。
カルロスは、玉露を飲んだ瞬間に、何かが憑依したみたいに
瞑想をはじめ、その後に行った玉露席で、即効の音楽を
演奏してくれた。お茶に酔う、というのがぴったりな感じで、
みんなで一期一会の瞬間の中に、永遠を感じる、ような間を共有する。
「お茶」という深遠なる世界を、縁ある人たちと旅したようなお茶会だった。

玉露の椀は、升たかさんのもの。昨年買ったものだ。同じ窯で焼いた
もう一揃いは、京都の小川流の茶人のところに嫁いだ。
そんな話をしていたら、升さんがひょっこりコーヒーを飲みにきた。
その茶人と中村さんが知人で、しかもその茶人の写真(写真家なのだ)
の展覧会でインド音楽を演奏したことがある、ということがわかった。
みんな、無駄のない縁で繋がれている。

お茶を量る「茶合」(さごう)は、角居君がつくってくれた。
茶器を入れる折敷(おしき)は、般若君がつくったものだ。
古瀬戸風の水差しは、やはり久保さんに作ってもらったものだ。
煎茶の道具は、一般には売られていない。集めるのは大変だけど、
だからこそ、ひとつひとつに、魂がこもっていて、それを使うたびに、
それぞれの作家たちの「顔」が垣間見れて、またおもしろい。

こんなに素敵な「茶という総合アート」をせっかく先人が残してくれた。
それをなくしてしまうのは、日本人を捨てる、みたいなものだ。
天真庵で、そばやコーヒーを飲むのも、同じ流れだけど、源流は、
二階の小さな空間のい中にある一滴にある。
来週の土曜日は、お花の日。この会は「一滴(ひとしずく)の会」という。




芸術の秋

2009-11-21 07:28:26 | Weblog
きのうサンフランシスコでガラス作家として活躍している「たなかな」
が、ブログに書き込みをしてくれた。彼女はニューヨークで知り合ったんだが、
3年くらい前に、京都の黒谷の知り合いのお寺で結婚式をした。

不思議な縁だけど、今夜インド音楽をやってくれる中村さんたちも、
スペインからメールがきて、天真庵にやってきたけど、黒谷のそのお寺で
時々ライブをする。なんか無駄のない縁で繋がっているのだろう。

昨日はアントワープに住むピアニストの大宅さんからメールがきて、
年末に帰国するので、来年早々にまたコンサートをしよう、ということ。
来年4日に、やることになった。
12月は19日にじんじんさんが忘年会みたいなコンサートをやってくれる。
大晦日もダイクに負けないようなクラシックコンサートを企画中。

今日は南九になって初めてのお茶会の日でもある。
朝ジョッギングをしながら、川べりの山野草を摘んで、二階に飾ってみた。
昨日銀座の骨董やから譲りうけた軸とよく似合う。
ワカやIT業界の仲間たちの前で、初めてお茶を入れることになる。
これもまた不思議な縁だ。
年を重ねてくると、酒がますますうまくなる。同じくお茶の味わい深さ
の深みもわかってくる。

今日はそんなわけで、お店は3時まで。