京都文化博物館で、『黒田清輝展』(~7/21)が開催されています。
前回の企画展『光の賛歌印象派展』はひどい混みようでしたので、今回は平日10時の開館時間に入場しました。
近代日本洋画の父とも言われる、黒田清輝の作品とあらば見逃す訳にはいきません。
印象派展のようなことはありませんが、やはり入場者は多いです。
今年は、黒田清輝(1866~ 1924)の没後90年にあたります。
フランスで絵画を学んだ黒田は、帰国後、京都を訪 れて着想を得た《昔語り》の関連作品群、 芦ノ湖のほとりで涼む女性を描いた《湖 畔》(重要文化財)や、裸体画をめぐる論争の渦中に発表された《智・感・情》(重要 文化財)といった名作・話題作を次々と発 表し、洋画界をリードします。
今回の展示会では、 代表作約160点と画帳などの資料が展示されています。
展示会は撮影禁止ですので、画像は私の手持ちの画集を使用します。
展示は、以下の4つの構成で行われています。
第1章 パリ留学、そして転進
鹿児島・島津藩士の家に生まれ、明治17年(1884)、画家になる決心を固めます。ラファエル・コランという画家に入門し、人体デッサンを徹底的に学びます。
モデルを前に一心にデッサン修業に取り組み、おびただしい数の デッサンを残しています。
▲黒田清輝「祈祷」明治22年(1889)

第2章 パリからグレー=シュル=ロワンへ
明治21年(1888)、パリか ら70キロほど離れた小村グレー= シュル=ロワンを訪れ、制作の拠点 とするようになりました。
グレーという村は、アメリカや北欧から来た画家たちの 集まる芸術家村となっていました。
そこで、黒田はグレーの長閑な風景に惹き付けられ、それらを明るいのび やかな筆致で描き出しました。
ここでマリア・ビヨー という農家の娘と出会い、彼女をモデルに初期の代表作を次々に描 き出すことになります。
▲「赤髪の少女」明治25年(1892)

第3章 白馬会の時代
日本に帰国した黒田清輝は、当時の洋画団体、明治美術会でそれらの作品を発表しま す。明るい色彩にあふれた画は、洋画壇に新風を 吹き込むことになりました。
新進の洋画家として注目を集め、明治29年5月に東京美術学校 (現・東京芸術大学)に西洋画科が設置されると、その指導者として 迎えられます。
留学後3年で、名実ともに洋画壇の中心的役割を担うよ うになったのです。
京都で着想を得た《昔語り》下絵および画 稿(明治29年)、裸体画論争の最中に発表された《智・感・情》(重 要文化財、明治32年)、黒田の代表作として広く知られる《湖畔》 (重要文化財、明治30年)といった名作・話題作を次々に発表してい きました。
▲黒田清輝「湖畔」明治30年(1897)重要文化財
一番知られている絵かもしれません。

第4章 文展・帝展時代
明治40年、日本初の官立展である 文部省美術展覧会(文展)が開設されま す。
黒田も 大きく関与し、文展開設後も 審査員を歴任します。
大正8年文部大臣の 管理下に帝国美術院が創設されると 会員となり、同11年には院長とな り、美術行政家としての役割を担います。
明治43年、洋画家とし て初めての帝室技芸員となったほか、大正9年には貴族院議員にな るなど、その後半生をもっぱら公人として多忙な日々を送ります。
そうした状況を反映してか、この時期には小品、しかも自邸の庭 や別荘近辺といった身近な眺めを写した作品が多く残されていま す。
やがて狭心症で倒れた黒田は、大正13年7月、58歳の生涯を閉 じます。
▲黒田清輝「もるる日影」大正3年(1914)

黒田清輝の作品を紹介します。
展示されていないものもあります。
『読書』1890~91
私の好きな黒田清輝の絵です。今回の展示会には出品されていません。

『裸体婦人像』1901

『菊花と西洋婦人』

『昼寝』1894

『自画像』1915

『野辺』1907

『昔語り下絵(仲居、舞妓)』1896

『薔薇』1923

デッサン『編物する女』1890

デッサン『昔語り舞妓半身像』

デッサン『昔語り仲居半身像』
