
◼️「大列車作戦/The Train」(1964年・アメリカ)
監督=ジョン・フランケンハイマー
主演=バート・ランカスター ポール・スコフィールド ジャンヌ・モロー ミシェル・シモン
邦題で敬遠していた。「バルジ大作戦」や「特攻大作戦」みたいな男臭い軍人が活躍する映画だと思っていたからだ。
連合軍が迫り解放目前のパリから名画の数々がドイツに持ち去られようとしていた。プレタイトルで一人のドイツ将校がその絵画に執着しているのが示され、絵画を荷造りする様子、木箱に記される有名画家の名前が映される。絵を持ち去られないように列車を遅延させられないか、絵を守ることはできないかと訴えられた主人公とレジスタンス活動をする仲間たち。フランスの人々の命を守るために戦ってきて、多くの犠牲者を出してきた。絵のために命をかけられるか。主人公ラビッシュの本音はそこにある。しかし芸術品である名画の数々はフランスの誇りだからと言う仲間と共に危険を冒すことになる。
戦争の虚しさや人を狂気に陥らせる怖さを多くの映画で味わってきた。この映画で描かれる戦いは、決して無益なものではないだろう。しかしその為に払われる犠牲の大きさを前にして、僕らは言葉を失う。しかも列車に積まれた絵画の価値を知るドイツ将校に対して、立ち向かうフランスの人々はその絵の価値は知る由もなく、見たことすらない。自分たちが守ろうとしているものは、本当に命を賭けるべきものなのか。主人公ラビッシュは葛藤を抱えながら、計画を実行するのだ。その矛盾を突きつけられるクライマックス。失われた命の為に主人公は引き金を引く。無言のラストシーンが強烈に胸に迫る、すげえ映画だ。
列車が衝突シーンもトリックなしの本物で撮影されているから迫力が違う。埃や土砂が舞い上がって被写体を遮りそうだが、これだけの映像を収めることができたのは監督初めスタッフの執念。ドイツ軍を欺く鉄道職員の連携プレイはハラハラするが、見ていて痛快。しかしエンターテイメントに徹してはおらず、次々と犠牲が増えていく様子は、戦争の醜さを真正面から捉えている。
何のために戦うのか。執念の物語。
「英雄ぶって死ぬだけの男はバカだ」
ジャンヌ・モローの言葉が心に残る。フランケンハイマー監督はとにかくハードな男のドラマというイメージ。「大列車作戦」は、そこに反戦の強いメッセージが添えられた名作だ。
そこで、この映画について、コメントしたいと思います。
この映画「大列車作戦」は、アクション映画の名匠ジョン・フランケンハイマー監督が、美術品を巡るドイツ軍将校とレジスタンスの闘士の虚々実々の駆け引きを、スリリングに描いた、反戦映画の力作だと思います。
この映画「大列車作戦」は、第二次世界大戦末期、ナチス占領下のフランスにおいて、フランスが世界に誇るピカソやセザンヌ等の、ルーブル美術館所蔵の数々の名画を列車に積んで、ドイツへ持ち去ろうとする、ドイツ軍将校フォン・バルトハイム(ポール・スコフィールド)と、それを阻止しようとするフランス国有鉄道の整備士でレジスタンスの闘士ラビッシュ(バート・ランカスター)との、虚々実々の駆け引きを描いた実話の映画化作品ですね。
線路のポイントを切り換えて進行方向を変えたり、駅名を変更してドイツ側の目をごまかしたりして、列車を延々と時間をかけて引き回す等の阻止作戦が、非常に大がかりなもので、我々観る者は、この作戦がいつバレるかとハラハラ、ドキドキしながらのサスペンスがたっぷりと、走る列車の迫力と緊迫感の相乗効果によって、我々観る者の心をつかんで離しません。
とにかく、アクション映画の名匠ジョン・フランケンハイマー監督による演出技法が、シンプルな力強さに満ち溢れていますが、レジスタンスの抵抗運動を蒸気機関車のイメージと象徴的に重ね合わせた映像が、極めて効果的な役割を果たしていると思います。
かつてこの映画を初めて観た時は、活劇要素の強いアクション映画かなと思って観初めましたが、ミシェル・シモン演じる機関士がサボタージュの現場を押さえられて、即座にドイツ軍から銃殺される場面を初めとして、次々とレジスタンスの仲間や人質が殺されていくのですが、勇猛果敢な主人公のラビッシュは、やがて、これらの美術品を守り抜くという事のために、罪もない多くの人々がこんなに犠牲になっていいものだろうか?----という、精神的な苦悩やジレンマに苛まれていきます。
この映画の中での印象的なエピソードとして、主人公のラビッシュが、ある駅の駅長室にいたドイツ兵を一人絞め殺します。
すると、そこに偶然、居合わせたフランス人の駅長が、さっと自分で自分にさるぐつわをかませて、そこにあった縄を取り出して、ラビッシュに縛ってもらいます。
このコミカルで喜劇的な人物が、その後、ドイツ軍に捕らえられて、あっという間に銃殺されてしまうという、短いけれども凄惨で残酷なショットがありますが、このようなコメディリリーフ的な喜劇的な人物が、これまでの映画では悲惨な目に会う事などあり得ないという、娯楽映画の定石を完全に覆してしまう描写があり、美術品のために、これだけの生命を犠牲にする事の意味は?----という、この映画の中で繰り返し語られる言葉が、この場面を観て、何か心にひっかかるものを感じてしまいます。
そして、この映画のラストシーンで、ドイツ軍将校のフォン・バルトハイムが、芸術の価値について、レジスタンスの闘士ラビッシュに、「お前には、お前が守ろうとした物の価値はわからないだろう。
今までお前がして来た事は、何のためであったのか、自分にもわかるまい。
美術品が持つ価値は、それを理解する者にしかわからないのだ。
だから、それがわからないお前はただのクズだ」といった内容のセリフを、目の前に累々と横たわる死体を前にして、平然と冷酷に言ってのけますが、この強烈なシーンを描く事で、ユダヤ系のジョン・フランケンハイマー監督が、ナチス及び現代にも生き残っている、ナチス的思想の怖さ、傲慢さ、愚かさ等を強烈に批判しているメッセージなのだと思います。
この映画は、内容的にも白黒の映像で撮る事で、映画の持つ厳しさや緊迫感が良く描かれていたと思いますが、この映画も含めて、ジョン・フランケンハイマー監督の初期の白黒の作品として、「明日なき十代」「終身犯」「影なき狙撃者」「5月の7日間」等があり、あらためて、白黒映画の持つ力強さ、素晴らしさを感じてしまいます。
出演俳優としては、主人公のバート・ランカスターは、この映画の前に「エルマー・ガントリー 魅せられた男」でアカデミー主演男優賞を受賞し、その後、イタリアの芸術派の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」に出演と、まさに彼の俳優としての円熟期を迎えていた時期に出演していたわけで、きびきびとしたアクションとその中で苦悩する人間のジレンマを見事に演じていたと思います。
また、相手役のドイツ軍将校フォン・バルトハイムを演じた、イギリスの舞台出身の名優ポール・スコフィールドは、後にフレッド・ジンネマン監督の「わが命つきるとも」でトーマス・モアを実に奥深い人間像として演じて、アカデミー主演男優賞を受賞する等して、この映画でも尊大な人間が持つ、複雑で矛盾に満ちた人間像を、見事に演じていたと思います。
そして、フランスの名女優ジャンヌ・モローも、美術館館長のピラールを言葉ではなく、その目力で表現する内面的な演技の凄さで、その存在感を示していたと思います。
登場人物それぞれの立場が抱えるジレンマが、ラストシーンを感慨深いものにしてました。CGじゃできない迫力ある映像も素晴らしかったです。