■「華麗なるギャツビー/The Great Gatsby」(2013年・アメリカ)
監督=バズ・ラーマン
主演=レオナルド・ディカプリオ トビー・マグワイア キャリー・マリガン ジョエル・エルガートン
フィッツジェラルドの原作だぞ、あのロバート・レッドフォード版のリメイクだぞ、「ムーラン・ルージュ」のバズ・ラーマンだぞ。そんな期待を胸に映画館へ。だがしかし。だんだんと気持ちが萎えてくる自分が銀幕の前にいる。「ムーラン・ルージュ」で感じた昂揚感やワクワクした気持ちはみじんも感じられない。同じようにど派手で絢爛たる映画なのに。申し訳ないが、バズ・ラーマン監督作だったら同郷役者と監督の同窓会映画「オーストラリア」の方がずっと好きだ。
良家の娘と結婚するには金持ちにならなければダメだ。そう信じた主人公が成り上がり、かつて愛した女性が住む家の対岸に大豪邸を建てる。大きなお城に住む、孤独な富豪ギャツビーの人物像に迫るお話。それなりに頑張ってる映画だとは思うのだけれども、どうしてこうも気持ちをノセてくれないのだろう。映画前半で感じたその気持ちは、クライマックスを経て最後まで変わらなかった。
凝りに凝った映像で名作文学を再構築しているのだけれど、現代的にせねばならないという強迫観念なのか、映画全編に鳴り響く音楽が邪魔で仕方ない。いい台詞言ってるんだろうけど、バックに流れるヴォーカル入りの音楽が邪魔をする。同じ気持ちを味わったのは、ロックをひたすらタレ流し続けた「ドリヴン」以来かも。「ムーラン・ルージュ」のときは、ミュージカル映画だからそれでよかった。でも世界恐慌で崩れ去る前の、空前の好景気に浮かれていた1920年代を描くのに、パーティの余興くらいしか当時流行ったジャズが流れないのも残念。直線的なアールデコ風のタイトル場面やポスターなどのデザインは、バズ・ラーマンの絢爛たる映画のイメージを高める上でもいい仕事だとは思ったが。バブル景気的な狂騒の20年代の中で心を置き忘れてきたハイソな人々。原作者フィッツジェラルドは、そんな浮かれたアメリカを逃れてパリにいた時代(「ミッドナイト・イン・パリ」に出てきますね)。主人公はそんな時代に、一途に自分の思いを貫いた人物のはずなのだ。だけど観ていてそこに共感できない。人妻を奪いたいだけの未練男にしか感じられないのが残念。
先日、日本文学の研究で知られるロバート・キャンベル教授の講演を聴く機会があり、その中で文学作品における"間(ま)"についてお話されていた。575の限られた字数の中で表現する日本の文化。文字に現れないことから広がるイメージ。それを感じさせるのが"間"。ところが「華麗なるギャツビー」には"間"がない。説明くさいスローモーションで台詞の内容を再現させて、ダンスフロアのように絶えず流され続ける音楽。そこには"間"を感ずる心の余裕はない。せめて対岸で光る、船着き場の緑の光を見つめるギャツビー氏くらいは、じっくりとその切ない思いを感じさせてくれて欲しかったのだが。