ミャンマーチーク屋さんのわが道を行く

日々の出来事と旅と愚痴と文句を勝手に語る日記。

真実

2008-10-12 18:45:31 | 時事(国内)
昨日、27年前のロス疑惑の三浦和義がサイパンからロスに
移送された後、留置所内で自分のシャツを使い、自殺を図り亡くなった。

ロスで行われる予定であった訴追手続きは中止され、結局裁判は
行われることなく、真相は藪の中ということになる。

これで、せっかくのロス市警の執念も、水の泡である。

確かに日本の裁判では、最高裁で無罪判決が確定している。
最高裁で刑が確定してしまった以上、同じ罪状でもう一度裁判を
行うことはできないが、必ずしも判決イコール真実だとは限らない。
と思うのである。

有罪となるには、通常、証拠を積み重ね、罪が立証できて初めて、
有罪となる。(単純に言うとだが…)
証拠もなく、例えあっても裏付けがなかったり、それが曖昧で
あったりする場合、そして自供もないとなれば有罪とは確定されない
場合もある。

そういう意味で言うと、必ずしも判決イコール真実だとは限らないのである。

人間が人間を裁く以上、また、過去に戻って事件発生を目視確認できない
以上、それは仕方のないものであろう。ある程度の推測や感情というもの
も当然入り込む。そして、それが裁判というものである。

三浦本人が死んでしまった以上、正確な真実は永久にわからないが、
しかし、彼の自殺という結末が全てを物語っているような気がしてならない。

「悪いことをしてきた人間は、ろくな死に方をしない」

全ての自殺がそうだとは言えないが、彼の場合の自殺は上記の言葉に
値するだろう。結局、自分には嘘はつけない、ということである。

数日前、俳優の緒方拳が亡くなり、最後を看取った俳優の津川雅彦が、
「非常にかっこいい最後だった…」というようなことを、コメントしていた。

江戸時代ならともかく、死に方の比較など、今の時代には時代錯誤的
かもしれないが、それでも、正直に正しく生きた人と、罪を償わず最後まで
逃げてしまった人との最後は、何かが違うような気がする。

そういう意味では、人間、最後はやっぱり死に方の問題なのかもしれない。




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