羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

ついてくるもの

2010年10月29日 | Weblog
ついてくるものがあった。
正確にいうなら「わたしにも」ついてくるものがある。
もっと正確にいうと川上弘美さん「真鶴」の冒頭の一行、
「歩いていると、ついてくるものがあった」という文章が
ずっと離れていかない。

「真鶴」を読んでから三浦雅士さんの解説を読み、
ああ、そうだったのかと思った。
単行本ではなく文庫になると解説があるからラッキーだと
誰かが言っていたけれど、今回それを実感した。

「誰だって書いているときには、自分の手によって書かれてゆくその文を
見ている。書かれてしまうと、まるで自分によって書かれたものでは
ないかのように意味ありげにこちらを見つめ返してくる文、それをさらに
見つめ返そうとする自分。ついてくるものは、そのどっちかに決まっている。」

三浦さんは解説のなかでこう書いている。
「書いている自分を見ている自分は幽霊に違いないじゃないか」

「文学とは幽霊を扱うものだったはず」

「私」という現象そのものが幽霊なのだ、という三浦さんの論は、
「書くこと」「自分」「みること」について、
おおくのことを思い出させてくれるものだった。
ああ、そうだったのか、と梶井基次郎の眼差しにまでさかのぼって、
なつかしく思い至った。

「真鶴」をこの解説なしで読んだとしたら、
「ふ~ん」で終わっていたかもしれない。
もうすこしさきへと入ってわかりたいのに、あと一歩のところで
わからないでかえってきていたかもしれない。

「書くこと」の端っこにいたいと思うわたしには、
この解説つきの「真鶴」は貴重な読書体験だった。

ところで、わたしにもついてくるものは、
まあ、幽霊かもしれないが、そこまでかたちを成していない。
ごくごく小さな黒い点、今は。
このことを詳しく正直に言うのは難しい。

(いつだったか息子に・幻視・の話をして気味悪がられたし)

つい先日、古本屋で本の整理をしていたら、近くにあった。
「あ、ついてきたんだね」と思った。
「真鶴」を少し前に読み終えたばかりだったので、
小説世界がそのときまだ、じぶんにとても近かった。

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