羽を休める鳥のように

きっとまた訪れる薄紫の夕暮れを待ちながら

五月の病室

2016年05月07日 | Weblog
ある程度の予測、というか「覚悟」に近いものをどこかに持っていても
それはたいてい心許ない。
「でも大丈夫だよね」「まだだよね」と確証もない何かにすがっている。
たいていはそうなので、ある日ふと「そのとき」が立ち現れると、
やっぱり動揺する。動揺しながらも「さて・・・」と対応を考え始める。

娘が入院するたびに「どうしてMちゃんなの?」と何度も何度も思ってきた。
くりかえしやってくるこれはいったいなんなんだ、と思っていた。

だけどしばらくは平穏だった。
「いつかは・・・」ということは「ずっとずっと先」と信じたかった。
心配してくれていた多くのひとたちが皆「元気になってよかったね」と言っていた。

これは続かない、といちばん知っていたのは本人だろう。

五月の病室。
またわたしは窓からの景色を眺めながら、無人のベッドのわきで、
手術から戻ってくる娘を待っていた。
何回目だろう。彼女の「バムセ」とこうして待つのは。
もの言わぬバムセは彼女の大事な小さなブタのぬいぐるみ。
だいぶくたびれてきたね、でも、いつでもいっしょだね。

うけいれて共存する、どうにかまたやっていく。
これでオーケーと思えるところをさぐっていく。

そんなことをぼんやり考えていた。
「Mちゃん手術中」と連休の谷間からラインにメールした。
これはわたしと3人のこどもたちのグループライン。
「がんばれ~」と次々に息子と次女から応援が届く。

いま、娘の闘病にもっとも近い場所で寄り添っているのは、
この女子医大で知り合って結婚した婿さん。
医療従事者であり病気の娘を支えてくれる頼もしい存在。
彼がいてくれてよかったと、ほんとうに思う。

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