まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

祈り

2020-04-14 | 暮らし
子どもに説明した。
コロナというのはね。
人間と一緒に生きたいわけで、人間が死ぬと困るんだ。
だから、病気の人や弱いお年寄りにくっついたとき「しもたー!まちごた!」と、焦り暴れるのかも。方言やん。(しまった、まちがえた)
ウィルスには知能も常識もないから、しもたーと、思うこともないんだろうけど。
ウィルスも、若い兄ちゃんや姉ちゃんが好きかもしれん。
元気で飛び回って、一緒にたくさんの仲間を増やしてくれる。

さて、人間はコロナにかかった人を差別視したり、運送会社の人の子供を入学式に出席させなかったり、警察官が歓迎会していたり、お医者さんがナイトクラブ行っていたり、まだ大丈夫、自分だけは大丈夫って思っているんだね。
優秀な人は、正しい判断や決断というのがあるのだと思っていた。
その人たちは、ウィルスじゃないから、知能や常識ってあるはずなんだけど、人間には油断や驕りっていうのがあって、謙虚さや祈りっていうのを忘れているね。

他人のことを言っているけど、自分も怖いと思いながらもまだかかっていないと思っている。もし、かかっていると思ったら一歩も外へ出られないどころか、孫たちの食事の世話も、毎日様子を見に行く母にも会えないし、うちの婆さんにも食事を作ることが出来ない。だから、密かにおそれながら、大丈夫と思って行動している。
それを、油断や驕りとは思っていないところが油断なのか。
手洗い、消毒、マスク・・は、必須。
どこで、どうなるかは分からない。運が悪いことになるかもしれない。
それでも、生活の最低限の行動はしなくてはならない。

祈るということは、謙虚になるということだと思う。
自分の力の限界を尽くして祈るのだ。自分だけが有利になるように祈るのではなくどんなことも受け入れられるように、穏やかな気持ちになれるように。
うちは浄土真宗だけど、どんな宗教にも祈りはある。
無宗教でも祈ることはできる。それは希望にもつながる。
もし、だめでも「ありがとう」と、「よく生きることが出来ました」と、言えるように。

殿が、床の間の掛け軸を落とした。
命日がすんでから、最近じっくり祈ってなかったなあ。
毎日婆さんは仏間で手を合わす。
昨晩、「掛け軸が落ちとる!!」と、台所へ飛んできた。
急いで床の間へ行くと、あらら不思議、掛け軸が外れて、床の間の真ん中にへたり込んでいる。正月がすんでから、掛け替えた殿の好きな鯉の滝登りの掛け軸だ。
ずっと、ちゃんと引っかかっていたのに、昨日地震があったわけでもないし、新しい掛け軸でひもが切れたわけでもないし、床の間の金具もしっかりしているし、不思議だ。きっと、また出たのだ。怪奇現象だ。最近、名前を呼んでいないし。

昼ごはんが終わって、kenにそのことを話したら、お参りしてくれて、
「みんなが忘れたら、じぃじは本とに死ぬんや」と、言った。
では、今は生きているのか。
「頼むわ、コロナ怖いし」
「そんな馴れ馴れしい祈りがあるか。都合よく神頼みするな。それに、コロナはできれば60過ぎの婆さんの身体と共存したくないだろうよ」
それこそ、「しもたー、まちがえてもた」なのだ。
しかし、殿は神になったのか仏になったのか。
どうかなったら、そっちへ行くから待っててね。






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