まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

残してくれたもの

2015-04-06 | 暮らし

わたしは、今まで殿という大きな傘の下で、何の苦労もなく、のほほんと生きてきた。

その大きな傘が取り払われ、雨や風に直接当たる。冷たいねって言っても答える人はいない。そんなわたしを娘たちは心配し、ちょくちょく寄ってくれる。友達は訪ねてくれるし、ありがたいと思う。くじけそうな気持を支えてくれる。しかし、ストレスはうちの中にある。

殿は昨年5年日記を買った。その日記に「年頭所感」と、書いたメモを挟んであった。

抜粋

「前立腺がん」という病気になってから5年が経過。家族には随分と心配をかけてきたが、幸いにも仕事を続けているのが現状である。いずれ、近いうちに退職し、第二の人生を過ごす訳だが、その前にがんとうまく付き合って、もう5年は生きていたいというのが本音である。

欲を言えばきりがないが、自分にはもったいない明るい女房と、二人の娘にも孫が出来て元気に育っており、本当に恵まれていると感謝、感謝。「足るを知る」ことを常に念頭に、これからを生きていかなければと思う。・・・・・・略

殿の生きた証を、捨ててはいけない。ましてや、わたしに言っているような「足るを知る」のことば。まだ、49日までわたしの周りにいて、言葉を与えてくれているような気がする。

その日記は1年と2か月で終わってしまった。殿には最後まで言わずに我慢した「両親を残して・・逝ってしまうとは」と、言う言葉。ところが、間違っていた。土曜の夜、娘達が持ち寄りで食事をしに集まってくれた。そして、孫と泊まっていった。殿の残したものは、素晴らしいものがあったんだ。どうして暗いほうを見つめるかなぁ。わたしを支えてくれる家族や友達がいる。

弓道の仲間たちの温かい言葉があった。「時薬」とか「ひにち薬」に、身を任せ・・という良い言葉。また、この身体はレンタルで、いずれ神様にお返しするものという。仲間の言葉に感謝し、ブログに書くことによって、言葉でデトックスしている感じだ。

昨年、殿の下血入院の時、タブレット端末を買って病院へ持って行ったら「やるねぇ」と、喜んでくれて、以来彼を笑わせようとばかり考えていた。ブログもそうだが、ふたりで漫才を観たり、出かけたり。最後は治療の為に出かけた金沢でさえドライブを楽しむような気分だった。悲しいくらいに変わり果てた爺さんみたいになったのに、弓道の仲間に会う時は、なんのためらいもなく喜んだ。わたしなら外出をしたくないだろう車椅子の身体になっても、最後の加賀市の総会で会長としての言葉を言った。人前での挨拶は得意中の得意で、いつも言葉を選んで話をしていたのに、最後の挨拶は力ない声だった。どうして気づかなかったか、どうして油断したか、どうして気持ちをもっと汲んであげられなかったか。つらいとも、悲しいとも言わないので、とうとう最後まで能天気なわたしだった。でも、ありがとう。

残されて悲しいけれど、残された物を拾い集めてもう少し殿の思い出に浸ってみよう。そして、わたしの周りの人々に感謝の気持ちをお返ししたい。殿への気持ちをありがとう。

わたしが殿を支えていたのではない。病気でも殿の存在がわたしを支えていたのだと今強烈に思う。何をしても気が入らないし、弓道も殿がいたから楽しかったのだし、映画もテレビも殿がいたから面白かったということを知らされた。