Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

平成の「曲学阿世の徒」

2015-07-29 23:32:00 | 時事
「曲学阿世」という言葉があります。サンフランシスコ講和条約締結の際に、単独講和論で講和に持ち込もうとする当時の吉田首相が、講和条件に反対するソ連なども含めた全面講和でないといけない、と主張する東大総長にたいし「曲学阿世の徒」と批判した際に使われたことが有名ですが、学説を曲げて世に阿る、という本来の意味から見ると、硬直した学説に拘っている東大総長のスタンスへの批判という意味では、微妙に違うともいえます。

この吉田首相に「誤用」された?「曲学阿世の徒」というフレーズを思い出すのが、安保法制を巡る憲法学者などの議論でしょう。
何はともあれ講和=独立が日本が国際社会に復帰するスタートラインというのに、米ソ両国に妥協点が見えないというのに全面講和に拘る硬直した姿勢は、日本がいつまでも占領下に置かれることを良しとする議論でもあるのに、アカデミズムは現実を見ずに原理原則に拘ったわけです。

そして足下の安保法制の問題もそう。あの当時の「独立」のように我が国のあるべき姿は何か。憲法の墨守ではなく、安全保障のあるべき論であり、憲法がもしその足枷となっているのであれば、「憲法を守り、あるべき安全保障を捨てる」か「憲法を改正し、あるべき安全保障を得る」の二者択一であることを示すべきですが、今のアカデミズムの姿勢は、憲法を絶対視しているに過ぎない議論です。

偶然か必然か、安保法制以外にも憲法の限界が出ている、というか、違憲の指摘に対応することがあるべき姿でないのでは、という事態になっています。例によって法律家集団が「一人一票」でおどろおどろしい全面広告を打っていますが、安保法制議決の正当性に絡めると言う嫌らしさはさておき、参院選挙区での合区を含む定数変更が可決されたわけです。

憲法を額面通り読めば確かに一票の格差は問題でしょうが、その解消のために今回のような「合区」となるとどうなのか。まさに「あるべき姿」の実現に対して憲法が足枷になっているのです。

都道府県と言う行政区画は国民の生活において無視できない区分であり、国民の属性でもあります。ところが一票の格差を盾に、今回47都道府県のうち鳥取と島根、徳島と高知の4県は、その県単位で代表を選出できなくなったのです。
選挙権はあるとはいえ、他の都道府県ではその単位で選べる「代表」を選べないのです。徳島と高知は有権者数が拮抗していますが、鳥取と島根では明らかに島根の有権者数が多いわけで、鳥取・島根の合区からは島根の議員が常に出てくる、と言うこともありえます。

これは本当に平等なのか。選挙権はあるとはいえ、自分たちの意思が通らない、通すのであれば地元以外の議員を選ぶしかない。これって他の都道府県には無いハンディキャップを負わされているわけで、形式に拘って実質の平等が損なわれるのです。

あたかも鳥取県は代表を選出できない「植民地」ともいえるわけです。嫌なら移住しろ、とでも言うのでしょうか。
ちなみに戦前、朝鮮半島は我が国の植民地でしたが、朝鮮人は須らく選挙権、被選挙権が無いかというと、「内地」に住民票があれば選挙権、被選挙権を持ち、日本人でも朝鮮に住民票があれば選挙権、被選挙権はありませんでしたが、今回の合区は実質という意味で当時の属地主義的な対応が復活した感じです。そう、鳥取在住だと実質的に選挙権等が行使できず、他の県に住所を移せば「地元」の選挙に参加できる、というわけです。

もちろん今回合区の対象となった県から1人を選出し、許容できる格差の範囲におさまるように人口の大きな都道府県の定数を決めていけばいいのですが、「一人一票」の勢力はその簡単な解決策を無視して定数削減を墨守しているわけで、地方の有権者の権利を実は全く考えていない、ならば「一人一票」を謳う真意は、と疑念を抱かれるに十分な主張です。

そして今の定数削減と県単位の代表を両立させるのであれば、そして衆議院においても市町村を区分して、市議よりも狭い範囲で選出される、基礎自治体の代表ともいえない代議士と言う異常な事態を排除すべきであれば、憲法を改正することが必要なのです。
諸外国では地方や海外領土の代表を確保しているケースが多いですが、それを「一票の格差」で否定していません。憲法で総ての国民は、と言うのと同じように「総ての地域(都道府県/1つ以上の基礎自治体)は」国会に代表者を送る、と規定すれば、その範囲で「一票の格差」を考えるに過ぎず、政治的な「国内植民地」を生むことはなくなります。

そういう意味では、「国内植民地」を是とするに等しい法律家もまた、(間違った使われ方としての)「曲学阿世の徒」と言えます。


問われぬ常設8万人

2015-07-29 23:31:00 | ノンジャンル
「新国立」の見直しが動き出し、これまで定説だった建設費高騰の理由がどんどん覆っています。こうなると一体何が問題だったのか、という話になるわけで、逆に元計画だと都合が悪い勢力が非常手段で巻き返しを図ったのでは、ともいえます。

そして元計画が織り込んでいたものが取捨選択されていくことでコストが見直されているのですが、結局は「白紙」と言いながらもこの期に及んでも見直されないものがいくつかあるわけで、それに対応するスペックこそが「新国立」のコスト問題の元凶となります。

その筆頭は2020年東京五輪であり、そのメイン会場として整備することが大前提になるわけで、それを充足するコストは削れません。
その意味で「戦犯」の筆頭は東京都ですが、なぜか被害者面をして、文部科学省などを批判しています。

そして、メディアがだんまりを決め込む「戦犯」を指摘しましょう。
それはサッカー協会とその関係者です。「新国立」を五輪対応のスペックにするのなら、スタンドの一部を仮設にして、五輪終了後はそれこそこじんまりとした競技場でもよかったのです。ところが8万人の常設スタンドが絶対条件となり、「白紙」見直しでもその条件は変わっていません。競技場の規模、つまりコストはこの条件に左右されているわけで、五輪対応分は仮設で、本設は縮小、というコスト削減策がなぜ出てこないのか。要はサッカーの国際大会用のスペックをねじ込んだからです。

巨額の国費を投入して、首都圏に既に2つある国際大会用規格の競技場をさらに手に入れる。今回の「白紙」に対するコメントでも協会関係者はちゃっかりと常設8万人は維持してくれ、といっているわけです。
そして事態はサッカー関係者に有利な方向に進んでいるわけです。コストカットを理由に開閉式屋根を断念する、とありますが、これでコンサート等の利用が不可能になることで、五輪後の受益者が限定されるわけです。開閉式を断念することは採光、通風の条件が良くなることを意味しますから、天然芝の条件も向上するわけです。

一応トラックは作るようですが、「新国立」は本設のサブトラックが無いため陸上の国際大会の規格からはずれており、五輪後もトラックが残るか微妙ですし、このままだと事実上サッカー専用になるかもしれません。

設計者やラグビーをスケープゴートにして、その陰で自分たちの利益はフルスペックで確保しているわけです。
五輪と言う一時の宴に巨額の税金を投じることの妥当性すら疑わしいところに、最大の受益者がいるのです。
なぜこのような不均衡が発生するのかを突くべきメディアは、五輪開催に関しては放送を巡る利権があり、サッカーに関しても同様、と言うわけでの及び腰、いや、だんまりですから、この壮大な茶番はこのあたりで幕になるのでしょうが。