Straphangers’ Room2022

旧Straphangers' Eyeや習志野原の掲示板の管理人の書きなぐりです

デルタと組むのであれば

2015-07-14 23:18:00 | 交通
再生債権者と再生債務者の両者が再建案を提出しているスカイマークですが、再生債権者案の再建案に米デルタがスャ塔Tーとして参加する方向になるようです。
再生債務者案ではANAがスャ塔Tーになるのですが、「別動隊」の疑念が払拭できないわけで、独立系という旗印がSKY最大の特徴であるがゆえに、投資ファンドを軸に政策銀等が関与する磐石な再建案の唯一の泣き所といえます。

DALの参画は再建案が提出される前からささやかれていましたが、もともとマイルで提携(SKYはマイレージ制度が無いので、DALのマイルがSKYで使えるという片乗り入れ)していただけに、それほどの唐突感はなく、かつDALの世界戦略上も妙味があるだけに、あながち荒唐無稽ともいえませんでした。

今回具体的な話が聞こえてきたわけですが、正直なところ日本の航空界の健全な発展を考えると、DALが参画するというのであれば再生債権者案のほうに魅力を感じます。なによりも「独立系」「第三極」という旗印を保ったままの再建というのが魅力であり、かつDALが国内線にかつてないコミットをすることで、「黒船」になれば、SKYを除けば事実上2強体制というか、選択肢がなくなっていた国内線にとって、いろいろな意味で風穴が開くでしょう。

そしてそれは航空局が主導する航空行政にも影響が及ぶことが期待されるわけで、SKYの破綻前がその典型でしたが、特定の航空会社を完全に意識したような不可解な航空行政が健全化されるきっかけになればと思います。

ただ惜しむらくはDALに限らず米系航空会社にサービスという物が期待できないことでしょうか。米国流のサービス導入、となってしまったら、それはネガティブな響きを持って捉えるしかないのです。

もうひとつ惜しい点は、DALがSKYを支援することで期待できるメリットは日本市場とDAL国際線とのリンケージですが、SKYは成田シャトルの挫折で米系航空会社の極東ハブである成田での橋頭堡を失った状態であるということ。もっとも、SKYが経営破綻した原因のひとつが、国際線展開の断念によるA380 のキャンセルですから、それは仕方が無いといえます。


一線を越えてしまったか

2015-07-14 23:15:00 | 時事
我が国と国民は民主主義という共通の価値観の上に成立していると思っていましたが、朝日はそれを否定しました。

7月12日、久々に晴天に恵まれた週末の日曜日の朝、天声人語に目を通して目を疑った人も少なくないでしょう。
「歩道を埋め尽くす」抗議行動に思い入れたっぷりの文章ですが、看過できない下りが論議を呼んでいます。

▼勝手に決めるな。それは、決めるのは私たち、主権者は私たちだという叫びである。投票だけが国民の仕事ではない。時の政権に常に目を光らせ、必要なら声を上げる。その声を軽んじる現政権に対し、「国民なめんな」のコールが起こるのは当然だろう▼哲学者の柄谷行人(からたにこうじん)さんは以前、3・11後の反原発デモに触れ、「人がデモをする社会」という文章を書いた。人々が主権者である社会は、選挙によってではなく、デモによってもたらされる、と。その流れは枯れることなく今に続く

柄谷行人氏の発言を引用していますが、天声人語子はそれを明確に肯定しているわけで、あれは柄谷氏の意見、と逃げることは許されません。
主権者が選挙で代表者を選び、選ばれた議員が立法府で立法権を行使する。国民の意に反する議員は次の選挙を耐えられない。それが議会制民主主義であり、およそ世界中の「先進国」の共通の価値観であり体制ですが、それを否定して直接行動を勧めている部分は柄谷氏の発言ではなく天声人語子の発言です。

そして柄谷氏の国民主権は選挙ではなくデモで決める、という発言を肯定しているということは、多数決よりデモのほうが民意である、というのでしょうが、デモは抗議活動であると同時に一種の示威行為です。皮肉にも休刊日を挟んで事実上の翌日である14日の天声人語では、安保法制の審議打ち切りと採決への動きを「クーデター」だとおどろおどろしく批判していますが、クーデターの本質は実力行使による権力奪取です。

実質1日で実力行使を是としたり否としたり、忙しいというかいい加減というかですが、要は自分たちの好みの体制は民主主義の名の下に大事にして、嫌いな体制は実力行使で追い落とせ、という恣意的極まる主張です。

それでも「議会制民主主義」が民意に反しているのであればそれを是とする余地もありますが、1960年の安保闘争のように「国会を取り巻く」くらいならまだ説得力がありますが、「歩道を埋め尽くす」程度で議会制民主主義を否定できるわけはありません。
民主主義の意思決定プロセスで勝てない「少数派」だから、示威行動に頼ったり、国会での野党のように「まだ審議が尽くされていない(=我々が納得できない)」と主張して引き伸ばし戦略に出て、多数の意見を踏みにじろうとするのです。

朝日(の天声人語子)は、我が国の体制は民主主義であり、議会制民主主義である、という根本を否定してしまったわけですが、まあ民主主義が成立していない国を見ると、朝日がシンパシーを感じている国がずらりと並ぶわけで、なるほど、日頃の主義主張に立脚した本音が出たと考えれば不思議はないかもしれません。
あるいは、共産党に代表される「民主集中制」のように、一握りの中央組織の中の「民主主義」で全体を統率する体制が「民主主義」だと思っているかでしょうね。だから民意は別にある、と。

ちなみに、1960年安保では、国会周辺だけでもデモ隊側の発表で30数万人、警視庁発表ですら10数万人という人で埋め尽くされたわけですが、当時の岸首相の「それでも後楽園球場は満員だ」という名台詞は直接行動の見た目と実態の差を言い得ているわけで、都内だけで10数万人がデモに参加した現実は民意のありかを大きく示しているように見える反面、5万人は後楽園球場で野球観戦を楽しんでいるわけで、これこそが「声なき声」つまり「民意」ということです。

実際、岸首相は新安保条約の成立と引き換えに総辞職しましたが、その後の地方、国政選挙で「民意」はどう示されたか。
安保闘争に寄り添った社会党は惨敗し、「民意」を踏みにじったはずの自民党は圧勝したわけです。総選挙は安保闘争から半年も経っていないというのに、「国民なめんな」の行動は起きなかったのです。

ノイジーマイノリティに寄り添ってしまった朝日は民主主義の世界に戻れるのか。今回は一線を越えてしまったかもしれません。