さて、気を取り直して、以下、「なぜ幼稚園は誕生したのか?」の続きです。やっと幼稚園(キンダーガルテン)が誕生します。
出典を示されるときには、以下のように示してもらえると幸いです。
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白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月4~11日。
または
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?(5)」『教育史研究と邦楽作曲の生活』http://blog.goo.ne.jp/sirtakky4170/、2015年2月10日。
白石崇人「なぜ幼稚園は誕生したのか?―啓蒙思想の影響とフレーベルの幼稚園構想から考える―」 より
(3)一般ドイツキンダーガルテンの設立
フレーベルは、1840年6月28日、ドイツ・ブランケンブルクで「一般ドイツキンダーガルテン」(Der Allgemeine Deutsche Kindergarten)の設立を呼びかけた。これが、幼稚園設立を初めて実行に移した瞬間である。「キンダーガルテン」という名称は、1840年の春に友人とハイキング中に、シュタイガーの丘から峡谷を眺めていて思いついたという。フレーベルは、壁に仕切られた家ではなく、自然から幼稚園を発想したのである。そして、5月1日、子ども(Kinder)は誠実な庭師によって育まれる庭(Garten)の花々のように成長すべきだと考え、幼稚園構想をまとめた。
なお、6月28日の時点で、幼稚園が実際に設立されたわけではない。フレーベルは、ドイツの女性に向かって、ドイツの幼児たちの活動衝動を保育する施設として幼稚園を設立・維持するために、協同組合を作ろうと呼びかけたにすぎない。そこで集めた資金によって、株式の幼稚園を設立しようと考えていた。しかし、思うように資金は集まらなかったばかりか、この事業に対して国・自治体の許可が下りなかった。幼稚園の設立は容易ではなかった。ようやくフランクフルト、ゲラ、ルードシュタットに幼稚園が設立された。1843年、フレーベルは、幼稚園に関する弁明書を協力者と一緒に発表し、幼稚園設立運動に対するドイツ人の理解を求めた。これ以後、フレーベルとその協力者の努力によって、次第に幼稚園が設立されるようになった。なお、1851年、プロイセンで宗教的な対立や誤解が重なって幼稚園禁止令が出され、フレーベルは失意のうちに1852年に死去した。禁止令は1860年にようやく解除された。幼稚園は、フレーベルの協力者たちによってドイツ中に普及し、さらに世界へ普及していった。幼稚園の誕生は、決して安楽なものではなかった。幼稚園は、1840年に誕生したというよりも、誕生し始めた、といえる。
最後に、フレーベルは幼稚園をどのように構想して普及に努めたか整理しよう。フレーベルの幼稚園構想は、1843年の弁明書に明確に示されている。これによると、幼稚園は、次の4つの理想を実現するためのものだった。
第1に、幼稚園は、学齢までのすべての子どもの全面的発達を保障するための施設であった。ドイツでは、1820・30年代から、幼児学校(イギリス由来の施設)や託児所が設立されていた。これらの施設は、放任された貧民児童を規律訓練して道徳化を図る治安政策によって奨励された。また、歌や様々な作業によって、宗教的感情の喚起や、記憶、話し方、数え方、礼儀作法などを練習することを子どもに求めた。これに対して、幼稚園は、貧民の子どもたちを監督するよりも、むしろ、すべての子どもに対してその本質と要求にふさわしい活動(遊び)を与え、身体的・感覚的・精神的に発達する機会を提供する施設として構想された。現実に奨励された幼児教育施設とは異なるものとして、幼稚園は構想された。
第2に、幼稚園は、保育者を養成するための実習施設として構想された。フレーベルは、1834年から断続的に教員養成に関わり、幼稚園構想前年の1839年に「児童指導者を養成するための施設」を開設して、保育者養成を開始していた。幼稚園は、男女青年に子どもの正しい指導や取り扱い方を教え、家庭における母親の子育てや託児所・保育園における児童を指導する者を育てるための施設として、明確に位置づけられている。この場合の、正しい指導・取扱い方とは、当然、フレーベルの幼児教育思想に基づく方法を指す。
第3に、幼稚園は、子どもの本質に基づく遊びを普及させる施設としても構想された。これは、先述の遊び論やそれに基づく恩物の普及を念頭に置いた構想である。幼稚園によって普及させたい遊びとは、当時のドイツですでに設立されていた幼児学校・託児所における遊びとは異なる。幼児学校では規律訓練が重視され、遊びは「忍びうる副次的事項」に位置づけられていた。託児所では、遊びの重要性に対する意識はあったが、あくまで気晴らし程度の位置づけに止まっていた。フレーベルは、幼稚園をいわば幼児教育思想・方法の普及拠点として位置づけ、余暇や気晴らしとは異なる遊び、すなわち教育や人生そのものとしての遊びを普及させたいと考えたのである。なお、フレーベルは、この構想を実現するために、雑誌を公刊して幼稚園相互を結びつける必要性を訴えた。
第4に、幼稚園は、すべての階級・地域のドイツ人(とくに中産階級の女性)を結びつけ、ドイツの国民的統一を果たす施設として構想された。従来の幼児教育施設は、私的な慈善事業として政策上に位置づけられていた。1840年の幼稚園構想発表後に協同組合の株式行為が許可されなかったのは、幼稚園もこの慈善事業の一つとして見なされたためであった。しかし、フレーベルは、幼稚園設立運動を、ドイツ人の共同事業・国民的事業として推進することを望んだ。そして、「したがって、来たれよ、そしてわれわれの子どもたちに生きようではないか」と呼びかけた。フレーベルは、子どものために、子どもの立場で、子どもから学びながら、大人たちが生きることを求めている。そして、そのことを通して、国民として一致団結し、国民として生きよう、というのである。フレーベルが生きた19世紀前半のドイツでは、ナポレオンに敗北後、ナショナリズムの高揚によって国民的統一が求められていた。フレーベルも、この時代のなかでドイツ人としての意識を喚起され、祖国と自由を守るために戦ったことのある人物であった。「われわれの子どもたちに生きよう」というフレーベルの名言は、子どもたちを中心にして国民的連帯意識を実現しようとした言葉であった。
以上のように、フレーベルの幼稚園構想は、1840年に発表され、徐々に実現した。フレーベルにとって、幼稚園は、学齢前のすべての子どもの全面的発達保障や、男女保育者養成、子どもの本質としての遊びの普及、子どもを中心にした国民的連帯を実現するための施設であった。この後、ドイツは1871年に統一国家の成立を果たす。世界各国でも、国民国家の形成が進んだ。国民的連帯の形成はそのなかで極めて重要な課題になった。そのなかで幼稚園は、国民育成のための子どもの全面的発達を保障する教育施設として、全世界に拡がったのである。
【参考文献】 略 ※(0)参照
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