教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「理論がない」ってどういう意味?

2006年02月03日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 今日の寝起きはあいかわらずの時間でしたが、久しぶりに「寝た!」って感じの満足感がありました。昨日徹夜越しに寝たので、熟睡したのかな? 昨夜いただいていた携帯メールにすら気づかなかった(笑)。とりあえず、11:45から例のノート・ジャパン代表のIさんがテレビ(NHK)に出るということなので、見てから登校。
 学校へ来て昼飯を食べようとすると、先生がやってきて一仕事を頼まれました。いきなり予定が狂った… まあこれもひとつの善行よ、と自分を納得させながら仕事を終わらせ、外に出たついでにサークル棟まで足をのばして三味線の練習をしました。今度、ぐるーぷ樹のメンバーが結婚するので、その結婚式で出席メンバー全員で演奏する曲・長沢勝俊作曲「子供のための組曲」第五章を練習しております。私は太棹三味線(琵琶の代わり)を弾きます。二年ぐらい前のコンサートですでに弾いておるのですが、自分の専門とする中棹三味線とは勝手が違う上、思った通り腕がさび付いており(笑)、一通り弾くのになかなか苦労しました。駒が高いし、ツボの距離も違うし、バチの重さも持ち方も違うし、同じ三味線でも持ち替えは簡単ではないのですよね。以前、ある方に、細棹→中棹の持ち替えはするのに太棹への持ち替えはしないと言うのでなぜかを聞いた時、「変な癖がつくから」とおっしゃっていた意味を体感しました(それまでは気づいてなかったのかい!)。予定より30分ぐらい練習時間をオーバーして研究室へ戻りました。
 
 寒いと思ったら時々吹雪き始めました。最近春になったみたいに暖かかったのに、急に冬に逆戻りですね。で、研究室に戻ったはいいけど、しばらく集中できず。今日は何もしてない気分なのに、気づいたら夕方に… 時間が経つのが早い…
 とりあえず稲垣著を少し読みました。キリのいいところまで読むまでに、まったく関係のない下記のようなことを考え初めてしまい、今日は時間切れです。今日一番集中したものがブログとは…(←何やってんの~)。

 最近、「理論」という言葉に違和感を覚えました。最近空間的に私の近くにいる某氏が、「A論文には理論がない」と言うのです。「おまえの論文には理論がない」とも言われたことがあります。これはどういう意味なんでしょうか。某氏も意味を含めて言った言葉だと思うので、簡単に調べてみました。
 『広辞苑』第三版では、「理論」の意義について次の三つの見解を示しています。第一に、「個々の事実や認識を統一的に説明することのできる或る程度の高い普遍性をもつ体系的知識」とあります。端的に言えば、「まとめ的知識」とでもいえましょうか。第二に、「実践を無視した純粋な知識。この場合、一方では高尚な知識の意を含むが、他方では無益なものという意味が含まれることもある。」とあります。要は「役に立たない」知識のことですか。役に立つ知識は卑俗だとされる価値観の下では、意味があります。第三に、「或る問題についての特定の学者の見解・学説」とあります。「○○理論」「××理論」とか言われるのがこれです。
 某氏が第一の意味で言っているのであれば、A論文の文中にまとめがないとか、普遍性のある文章がないとか、そういう意味でしょう。でも、私がA論文を読むと、一応まとめてあります。何でも説明できる普遍性はないかもしれませんが、用いた史資料を統一的に説明することができる文章はあります。とすれば、第一の意味ではないのでしょうか。
 第二の意味で言っているのであれば、役に立たない知識がない、という意味でしょう。現代人の発言としてはちょっとあまりに滑稽なので、そういう意味ではないでしょう。
 第三の意味で言っているのであれば、いろいろ考えられます。二つほど考えてみましょう。
(1)○○さんの学説に従って説明されていないとか、○○さんの学説を参照していないとか、そういった意味でしょうか。先行研究の問題ですね。でもA論文でも、ご不満かもしれませんが、こういう先行研究がありますというように、一応引用されています。もしこういうならば、○○さんの学説を引用しなさい、と主張すべきです。そう言わずに「理論がない」とだけ言うのは、評論者・批判者として不親切でしょう。
(2)それとも、「私はこういうふうに研究をします」という研究者自身の見解・学説がないぞ、という意味でしょうか。例えば歴史研究に限定してみましょう。歴史をある一定の見解(視点)・学説に則って歴史を見ることによって、初めて見えてくる歴史的事実・意味があります。と同時に、その見解・学説に適さない歴史的事実・意味を切って棄ててしまいます。切って棄ててしまった事実・意味も、別の視点で見ることで意味があるものになるかもしれません。ですから、「こういう視点から研究しますよ」というのは、「この視点から見た事実・意味は研究するのにふさわしいですよ」という意味と同時に、「この視点から見て価値のない事実・意味は知りませんよ。気をつけてくださいね。」という意味を含みます。A論文には「○○の過程を見ます」と書かれており、一応「理論」はあります。それに、その理論はこういう事実や意味を見いだす価値あるものだ、と説明しています。ところが、某氏はこれを理論として理解していないため、理論がないと言っているのでしょう。そうなると、A論文の執筆者は自分の理論をわかってもらえるように説明しないといけませんし、某氏はその説明を理解する努力(質問とか)をする必要があります。
 たぶん某氏は第三(2)の意味の「理論がない」と言っているのでしょう。ようやくわかってきました。ただ、その場合の理論は、研究そのものの意味を決定してしまう大事な価値観です。この意味では、(1)のような「××さんの理論に則っていない!」というのは、「××さんの理論は価値があるから使え!」という押しつけになります。この点は気をつけるべきでしょう。理論の押し付け合いは、価値観の押し付け合いと根っこは同じだと思いますので。

 ちょっと関係なくプイっと疑問に思ったことを書いていたら、こんな時間になってしまいました。あわわわ、豆もまいていないし、恵方も食べてませんよ~ 節分という行事を満喫するため、もう家に帰りたいと思います。
 …と思って帰りに買い物。豆は昼間に後輩がくれたのでそれで可としました。とりあえず無事、豆もまいたし、恵方に向かって巻きずしも食べられました(笑)。巻きずしは売り切れてるかとも思ったのですが、思った以上に残っていたのでGet!わーい、素朴にうれしい(^^)。
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