今日は午前中のうちに登校できました。
『教科教育百年史』の続きを読みました。この本を読んで始終気づくことは、「子どもの活動・生活に基づいてその個性を伸ばす教育」というのが理想化されていること。子どもの活動・生活にもとづく教育は、教員の高い力量や周到な準備なしではうまくいきません。そのことは本書でもよくよく気づいているようですが、一方「つめこむ」教育や「おしつける」教育は「そうならないように」と否定されています。はて、これらの教育にも意味はあるのでは? 例えば、子どもに広い知識や価値観と接触させる機会にもなるし、逆に子どもが反発することによって新しい知識や価値観が生まれるかもしれない。もちろん「つめこむ」こと「おしつける」ことが目的になってはいけないけれど、やりようによっては意味のある教育になるのではないかなと思います。
夕方からは、船寄俊雄『近代日本中等教員養成論争史論-「大学における教員養成」原則の歴史的研究』(学文社、1998年)の序論を読みました。明確な現代的問題意識に基づいた歴史研究(教育問題史)の視点が示されております。私はつねづね歴史研究も現代的意義がないといかんと思ってはおりましたが、ここに具体的な書き方のモデルを見ました。
あーそれにしても寒い!
『教科教育百年史』の続きを読みました。この本を読んで始終気づくことは、「子どもの活動・生活に基づいてその個性を伸ばす教育」というのが理想化されていること。子どもの活動・生活にもとづく教育は、教員の高い力量や周到な準備なしではうまくいきません。そのことは本書でもよくよく気づいているようですが、一方「つめこむ」教育や「おしつける」教育は「そうならないように」と否定されています。はて、これらの教育にも意味はあるのでは? 例えば、子どもに広い知識や価値観と接触させる機会にもなるし、逆に子どもが反発することによって新しい知識や価値観が生まれるかもしれない。もちろん「つめこむ」こと「おしつける」ことが目的になってはいけないけれど、やりようによっては意味のある教育になるのではないかなと思います。
夕方からは、船寄俊雄『近代日本中等教員養成論争史論-「大学における教員養成」原則の歴史的研究』(学文社、1998年)の序論を読みました。明確な現代的問題意識に基づいた歴史研究(教育問題史)の視点が示されております。私はつねづね歴史研究も現代的意義がないといかんと思ってはおりましたが、ここに具体的な書き方のモデルを見ました。
あーそれにしても寒い!