東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

京都市 幕末・明治維新に思いをはせる旅(7/8) 霊山歴史館,御陵衛士屯所跡

2015年10月20日 | 歴史探訪他ウォーキング

訪れた京都市内の幕末・明治維新に関わる史跡などです。それぞれをクリックしてください。
 1.寺田屋,伏見    2.三十三間堂,南禅寺  3.水路閣,吉田松陰詩碑
 4.池田屋,近江屋  5.壬生屯所跡,蛤御門  6.京都霊山護国神社
 7.霊山歴史館     8.佐久間象山遭難碑

 京都霊山護国神社を出ると、すぐ隣にある霊山歴史館に行きました。展示されている史実は特に目新しいものはありませんでした。しかし、池田屋事件などがジオラマで再現されていたり、京都の史跡を3D映像で見ることができます。幕末の歴史を学ぶための入門として訪れるのに良いと思いました。田布施町郷土館は狭いため、奇兵隊資料などを所狭しとぎっしりと展示しています。この霊山歴史館はたくさんの人がゆったりと学ぶことができます。


   霊山歴史館入口         館内各階展示の様子    時系列にゆったりと展示
  

 霊山歴史館を出ると、下り坂を高台寺に向けて歩きました。高台寺横のゆったりとした石階段を降りました。この小道は「ねねの道」と呼ぶそうです。カップルが歩くには雰囲気がとても良い小道なのだそうです。ただ、有名な清水寺も近いためか、カップルや家族連れなどで混雑していたため落ち着いた雰囲気はありませんでした。和服姿も多くみられました。その和服姿の方の何人かが外国語を喋っていました。海外からの旅行客なのでしょう。

              高台寺横の静かな下り階段とねねの道


 ねねの道を歩き、すぐの所に御陵衛士屯所跡がありました。新選組と別れた伊東甲子太郎が御陵衛士に任命され勤王を説きました。清河八郎らと共に江戸から将軍警護の名目で京都に来ましたが、佐幕一直線だった新選組にすべて粛清されました。佐幕しか考えられなかった新選組からすると、彼らは裏切り者で許せなかったのでしょう。当時の日本は、勤王,攘夷,佐幕,討幕などが錯綜し諸子百家状態だったのではないでしょうか。

    御陵衛士屯所跡       昼食にお蕎麦         賑やかな八坂神社前
   

 当時の京都は孝明天皇がお住まいでしたので、勤王の志士にとっては聖地にも等しい場所だったと思います。天皇をめぐって、各派の駆け引きが激しく繰り広げられました。尊王攘夷,公武合体,尊王討幕と目まぐるしく変わりました。誰もその抗争を止めることができず、幕府は京都所守護職を置くなどして治安に勤めましたが、尊王討幕の勢いを止めることができませんでした。そして、鳥羽伏見の戦いで決着がつきました。
 明治維新は必然的にできたのではなく、奇跡が起きたのに等しいと私は思います。その奇跡が起きなければ、日本が列強に分割されたり植民地になってもおかしくない歴史があったはずです。幕末は日本の歴史を決める、きわめて危ういターニングポイントだったのです。

 黒糖わらび餅で有名なお店     どれにしようか迷う   私がいただいた黒糖パフェ
  

 ねねの道を過ぎて、お昼休憩として蕎麦を食べました。蕎麦を食べ終わると、八坂神社前に出ました。この付近は、たくさんの旅行客などでとても混んでいました。その混雑したお店の中で、黒糖わらび餅で有名と言われるお店に入りました。その二階で、私は黒糖パフェをとても美味しくいただきました。甘党の私は来て良かったです。

  一人がやっと通れる通路    古都の風情あふれる街  左:台湾女性、右:お店の方
  

 甘く美味しい黒糖パフェを堪能すると、しばらく談笑後にお店を出ました。そして狭い通路を通りました。人が一人通れる狭い通路です。私はどこに行くのかさっばり分かりません。ガイド役の息子の言われるままにす進むだけです。しばらく歩いていると、台湾の女性が声をかけてきました。自分を撮って欲しいようです。私は中国語はさっばりで、息子が対応していました。ここは外国の旅行ガイドに掲載されているのでしょうか、いろいろな国の方が自取り棒を持ちながら撮影していました。

              今回訪れた京都の町並みとコース


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