訪れた京都市内の幕末・明治維新に関わる史跡などです。それぞれをクリックしてください。
1.寺田屋,伏見他 2.三十三間堂,南禅寺他 3.水路閣,吉田松陰詩碑他
4.池田屋,近江屋他 5.壬生屯所跡,蛤御門他 6.京都霊山護国神社他
7.霊山歴史館他 8.佐久間象山遭難碑他
新選組の壬生屯所に着きました。着くと、新選組に関する説明が始まるところでしたので、加わることにしました。そもそも壬生屯所は八木家の建物だったそうで、八木家は元々は戦国時代の朝倉に仕えており、朝倉家が滅んだ後に縁あってこの壬生村に居を構えたそうです。
新選組は、将軍警護の名目で清河八郎など浪士組として京都に来ましたが、その後別れました。そして、この壬生屯所で芹澤鴨一党を粛清しました。暗殺された時に芹澤鴨がつまずいた机が展示されていました。新選組が統制取れた組織になるまで、凄惨な闘争がありました。この頃、水戸藩,長州藩,薩摩藩など、方針を巡って粛清の嵐でした。日本に限らず、革命時は悲惨な粛清が起きます。いわゆる生みの苦しみです。完全無比とは言えないものの民主主義のありがたさが分かります。
新選組が居を構えていた壬生屯所跡
新選組隊士が増えるにつれて、壬生屯所が手狭になりました。そこで、西本願寺の太鼓番屋に屯所を移しました。実は西本願寺は長州藩と関わりが深かったための、あてつけと監視の意味があったそうです。長州藩は困ったことでしょう。新選組の壬生屯所跡から歩いて西本願寺に行きました。西本願寺の北側橋にその太鼓番屋がありました。今でも立派な建物です。次に門を入って西本願寺に行きました。巨大で立派な伽藍を見学しました。
ところで、麻里府明楽寺の僧籍を持つ奥様は、この西本願寺に勤めておられたそうです。この伽藍のどこでご住職と運命的にお知り合いになったのでしょうか。
西本願寺の太鼓番屋 立派な西本願寺の伽藍 西本願寺、5時閉門中
五時になると西本願寺は閉門します。閉門直前に慌てて外に出ました。次は、新選組に粛清された伊東甲子太郎遭難地に行きました。大酒を飲ませて粛清したとのこと。脱退後、討幕派に寝返ったのが許せなかったのでしょう。この頃、新選組は強い相手には酒を飲ますなどして、ある意味卑怯な手を使って粛清していたようです。油断した相手も悪かったのでしょうが。伊東甲子太郎遭難地から、いったん京都駅近くのホテルに戻って仮眠しました。
伊東甲子太郎遭難地 鳥丸御池近くで夕食 美味しいご馳走に舌鼓
仮眠から目覚めると、次の幕末史跡を訪れることにしました。その前に腹ごしらえをしました。地下鉄京都駅から鳥丸御池駅に行きました。そして、降りた駅近くで夕食をとりました。薩摩料理のお店でした。
夕食を食べ終わると、暗い夜道を京都御所に向かいました。途中、足腰をお守りする護王神社に寄りました。そして、私が一番見たかった蛤御門に行きました。門は幕末当時のままで、弾痕がたくさん残っていました。ここで長州藩は。会津藩と薩摩藩と戦ったのですね。この戦いで久坂玄瑞や来島又兵衛が亡くなりました。山口県民の私としては、深くため息をつかざるをえません。
会津藩はこの頃が絶頂期だったのではないでしょうか。一昨年、会津若松市を訪問しましたが、苦難の史跡が多数ありました。長州藩は蛤御門の変で朝敵になりました。でも最終的に討幕を成功させたので無念を晴らしたことになります。一方、会津藩は最後には朝敵に貶められてしまいました。徳川に忠誠をつくし京都の治安回復に一生懸命頑張ったのに、悔しかった気持ちが分かるような気がします。
弾痕が多数残る、夜の蛤御門を入る
蛤御門から御所の中は真っ暗でした。少し入ると、来島又兵衛が銃弾を浴びたと言われる場所がありました。来島又兵衛が撃たれたことにより、長州勢は一気に崩れました。今考えれば、もう少し、慎重に構えれば良かったのにと思います。池田屋で同志を一気に失ったため、憎しみのあまりの勇み足だったと思います。
足腰を守る護王神社 弾痕が多数残る蛤御門 ホテルに戻りしばし休憩
この戦いの敗北で長州藩は、薩摩藩と会津藩への憎しみがより強まりました。その一例として、田布施町では薩摩藩が雇った加徳丸が襲われ、薩摩藩士が殺された事件がありました。その後、薩摩藩とは疑心暗鬼ながらも同盟を結びました。この同盟以降、会津に対する憎しみだけは残り続けたようです。
これらの事は、幕府以上に会津藩を追い詰めることに影を投げかけているように思います。これら戊辰戦争のことなどを考えながら真っ暗な御所の砂利道をしばらく歩きました。御所を抜けると、京都駅近くのホテルに戻り休憩しました。そして、明日も早朝から、京都内の幕末史跡をまわるため早めに就寝しました。
今回訪れた京都の町並みとコース